おはようございます。 連休も終わり、そして9月というある意味微妙な月も終わろうとしています。 日本というのは、豪雨、地震そして津波、火山の爆発という自然災害の多い国です。
ひょんなことから浅間山の麓の鬼押出(おにおしだし)というところを見てきました。浅間山が大噴火したのは、1783年のことだといいます。鬼押出はそのとき浅間山から流れてきた溶岩と飛んできた岩石の塊でできた地帯です。火山の噴火というのは凄まじいものだとこのわたしでも想像できます。
最近は道ばたで見つけた花をi-phoneで撮ることが多くなりました。i-phoneに特殊カメラを装着して撮っています。写真は草枕に掲載しています。
草枕は文章ばかりで花がないので花の写真で色を添えたというわけです。
9月は微妙な月だと申しましたが、受験生の中にはようやく9月あたりから火がつく子もいるようです。わたしからすれば9月というのは、それまでの豊富な勉強量の成果を確かめながらさらに力を確実にしていく月だということになるのですが、悲しいかな、そういう子ばかりではない。
早稲田進学会の模試で上位に名前を載せている子というのは、8月までそれなりの勉強をしてきたということではないかと、いちおう言えるのではないか、と思います。
竹の会では、7月の模試では3名が名を連ねましたが、8月30日の模試では2名に止まりました。 この結果はおそらく勉強量、つまり勉強の絶対時間をそのまま反映したものであろうかと思います。
試験というか、模試の結果は正直なものです。こしかたの絶対勉強時間をそのまま反映しています。実は、本番だって似たようなものです。
勉強時間が足りない理由はいろいろあるのでしょうが、結果というのはそんな個々の事情など知ったことではありません。 それが本番の掲示板なのです。
合格したければ人の何倍も勉強しなければならない、ただそれだけのことです。
竹の会で課題をきちんと提出してくる小6は限られています。3ないし4人程度です。
課題は、課された日の次の指導日に提出してこそきちんと勉強量を確保している、と推測されます。
今年桜修館に高得点で合格した女子が「合格の秘訣はもらえるレジュメをやりきること」と言い切りましたが、すでにわたしが辛うじてそれと認識しているのは3名しかいません。
名前を載せたのはその3名の中の2人でした。
9月からどれだけの勉強量が確保できるのか、突如として神の勉強をして合格するということもないことはない。小6の9月入会で合格した例が竹の会には3つある。ひとつは20年、もうひとつは22年、そして3つめは25年、前2つはいずれも桜修館に合格した。20年の合格者は小4の中途から1年ほど私立中受験のためにサピに通っていた知能優秀者、という事情があった。22年の合格者は杉山太一君である。かれは稀なる知能指数の高い逸材であった。3つ目は白鴎に合格した。今から考えれば奇跡であろう。ただし、知能は高い。
だから9月からがんばって受からないということは確かにない。
しかし、竹の会は早稲田模試の全回に名前をのせるべく、そのための指導をしてきたし、そのために必要とされる勉強量を確保するようにと指示してきたことは忘れてはならない。
絶対勉強量を確保しない者についてまわるのは、消えることのない不安かもしれない。いや不安は勉強してきた者にもつきまとう。しかし、勉強が足りない、勉強以外のことにいくらでも躊躇なく時間を使ってきた者にはそれ特有の不安から逃れられない。なにかと回避できない事情の多い、そのために勉強量が確保できなかったという子には不安よりも恐怖のほうが強いかも知れない。
昨日テレビのラグビーの選手紹介をたまたま見たら、プロの選手というのは、みなそれぞれにルーチン(ルーティン)を作っているのだということを解説者が言っていた。ゴールキックをする前の儀式である。イチローも打席に立つと同じ所作をまずやる。そうすることによって普段通りにしてのけることができるのだという。それをルーチンと呼んでいたが、本来の意味とはややちがうわけである。
これは儀式ということであろう。あるいはおまじないといってもいい。やってることに意味は何もないのである。何かをやる前に普段から特別意味もないのだが、ある儀式をやる、それが何かをやる前の日常のつまらないこなし仕事となって、その流れで特異な雰囲気の本番を乗り切る、というしかけである。今年桜修館に合格した女子は、竹の会のお守りを持ち、竹の会の神様が助けてくれると祈ったそうである。これもルーチンの一種かもしれない。竹の会には意味もなく竹の会ができたときから神様が飾られている。賽銭箱が設置されたのはいつか記憶にない。平成10年の鈴木君の時代には何か箱みたいなものがあり、そこに一円玉を放り込む生徒が多かった。平成21年の受検生たちはすでに賽銭を放り込んでいたように思う。今の賽銭箱は、その当時から放り込まれた五円玉などが眠っている。檜製の特注品で何万円かした代物である。開けるところがない。わたしも五百円玉を入れた記憶がある。百円玉を奮発した子たちもいた。ただし一円玉は禁止である。たちまち満杯になってしまうから。竹の会の先輩たちがおまじないとして入れてきた、怨念の籠もった賽銭箱である。これできっと御利益があると考えるのもおまじないである。
最後は神頼み、おまじないにすがる、というのも人間の弱さを認めること、ある意味開き直りであり、そのあたりに竹の会の神様の強さがあるのかもしれない。
ちなみに早稲田に受かった鈴木君の席は竹の会の神様の真下にあり、爾後鈴木君の席は争奪の渦に巻き込まれることになったのは想像に難くない。
鬼押出
ひょんなことから浅間山の麓の鬼押出(おにおしだし)というところを見てきました。浅間山が大噴火したのは、1783年のことだといいます。鬼押出はそのとき浅間山から流れてきた溶岩と飛んできた岩石の塊でできた地帯です。火山の噴火というのは凄まじいものだとこのわたしでも想像できます。
最近は道ばたで見つけた花をi-phoneで撮ることが多くなりました。i-phoneに特殊カメラを装着して撮っています。写真は草枕に掲載しています。
草枕は文章ばかりで花がないので花の写真で色を添えたというわけです。
9月は微妙な月だと申しましたが、受験生の中にはようやく9月あたりから火がつく子もいるようです。わたしからすれば9月というのは、それまでの豊富な勉強量の成果を確かめながらさらに力を確実にしていく月だということになるのですが、悲しいかな、そういう子ばかりではない。
早稲田進学会の模試で上位に名前を載せている子というのは、8月までそれなりの勉強をしてきたということではないかと、いちおう言えるのではないか、と思います。
竹の会では、7月の模試では3名が名を連ねましたが、8月30日の模試では2名に止まりました。 この結果はおそらく勉強量、つまり勉強の絶対時間をそのまま反映したものであろうかと思います。
試験というか、模試の結果は正直なものです。こしかたの絶対勉強時間をそのまま反映しています。実は、本番だって似たようなものです。
勉強時間が足りない理由はいろいろあるのでしょうが、結果というのはそんな個々の事情など知ったことではありません。 それが本番の掲示板なのです。
合格したければ人の何倍も勉強しなければならない、ただそれだけのことです。
竹の会で課題をきちんと提出してくる小6は限られています。3ないし4人程度です。
課題は、課された日の次の指導日に提出してこそきちんと勉強量を確保している、と推測されます。
今年桜修館に高得点で合格した女子が「合格の秘訣はもらえるレジュメをやりきること」と言い切りましたが、すでにわたしが辛うじてそれと認識しているのは3名しかいません。
名前を載せたのはその3名の中の2人でした。
9月からどれだけの勉強量が確保できるのか、突如として神の勉強をして合格するということもないことはない。小6の9月入会で合格した例が竹の会には3つある。ひとつは20年、もうひとつは22年、そして3つめは25年、前2つはいずれも桜修館に合格した。20年の合格者は小4の中途から1年ほど私立中受験のためにサピに通っていた知能優秀者、という事情があった。22年の合格者は杉山太一君である。かれは稀なる知能指数の高い逸材であった。3つ目は白鴎に合格した。今から考えれば奇跡であろう。ただし、知能は高い。
だから9月からがんばって受からないということは確かにない。
しかし、竹の会は早稲田模試の全回に名前をのせるべく、そのための指導をしてきたし、そのために必要とされる勉強量を確保するようにと指示してきたことは忘れてはならない。
絶対勉強量を確保しない者についてまわるのは、消えることのない不安かもしれない。いや不安は勉強してきた者にもつきまとう。しかし、勉強が足りない、勉強以外のことにいくらでも躊躇なく時間を使ってきた者にはそれ特有の不安から逃れられない。なにかと回避できない事情の多い、そのために勉強量が確保できなかったという子には不安よりも恐怖のほうが強いかも知れない。
昨日テレビのラグビーの選手紹介をたまたま見たら、プロの選手というのは、みなそれぞれにルーチン(ルーティン)を作っているのだということを解説者が言っていた。ゴールキックをする前の儀式である。イチローも打席に立つと同じ所作をまずやる。そうすることによって普段通りにしてのけることができるのだという。それをルーチンと呼んでいたが、本来の意味とはややちがうわけである。
これは儀式ということであろう。あるいはおまじないといってもいい。やってることに意味は何もないのである。何かをやる前に普段から特別意味もないのだが、ある儀式をやる、それが何かをやる前の日常のつまらないこなし仕事となって、その流れで特異な雰囲気の本番を乗り切る、というしかけである。今年桜修館に合格した女子は、竹の会のお守りを持ち、竹の会の神様が助けてくれると祈ったそうである。これもルーチンの一種かもしれない。竹の会には意味もなく竹の会ができたときから神様が飾られている。賽銭箱が設置されたのはいつか記憶にない。平成10年の鈴木君の時代には何か箱みたいなものがあり、そこに一円玉を放り込む生徒が多かった。平成21年の受検生たちはすでに賽銭を放り込んでいたように思う。今の賽銭箱は、その当時から放り込まれた五円玉などが眠っている。檜製の特注品で何万円かした代物である。開けるところがない。わたしも五百円玉を入れた記憶がある。百円玉を奮発した子たちもいた。ただし一円玉は禁止である。たちまち満杯になってしまうから。竹の会の先輩たちがおまじないとして入れてきた、怨念の籠もった賽銭箱である。これできっと御利益があると考えるのもおまじないである。
最後は神頼み、おまじないにすがる、というのも人間の弱さを認めること、ある意味開き直りであり、そのあたりに竹の会の神様の強さがあるのかもしれない。
ちなみに早稲田に受かった鈴木君の席は竹の会の神様の真下にあり、爾後鈴木君の席は争奪の渦に巻き込まれることになったのは想像に難くない。
鬼押出