草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

「心の指導」紹介編(第3回)

2010年01月21日 10時25分53秒 | 
◎本日も「心の指導」第4編の続きをご紹介します。今週は連日の指導でブログで新規の原稿を書く余裕がありませんので, 私の旧著をご紹介することとしてます。つなぎ記事のつもりでしたが, 多くの方のアクセスがあり, 読んでいただいていいるようで, これは今日もお休みするわけにはいかないなと掲載記事を載せることにしました。

「心の指導」第4編
●昔は貧乏だったけど母さんがいつもそばにいてくれました。腹をすかして学校から帰ってくるとやさしい母さんがニコニコしながらイモを蒸かしていてくれました。イモを食べるとすぐ外に遊びに飛び出してもう暗くなるまで時を忘れて遊びました。暗くなって遊び仲間が一人減り、二人減り、いつしか私一人になってしまうのです。そこでようやくお腹のすいていることに気がついて家をめざしてかけたものです。家の近くにくると台所の方に明かりが見えおいしそうなにおいがしてきます。母さんが夕飯のしたくをしているのです。私はうれしくて心が弾むようでした。ずっと昔にまだ私が幼かった頃に家に帰ると、母さんがいなくて大声で泣きながら母さんを探したことを今でも鮮明に覚えています。今はもう死んでいなくなったばあちゃんが怒ったように私を慰めてくれたことを思い出します。中学、高校と父親に反抗するようになって母さんを苦しめてきました。高校も何度かやめようとしました。高校を出てからも父親との仲は悪くなるばかりで私には心の休まる日がありませんでした。睡眠薬を呑んでフラフラになったこともありました。心配した母さんと叔父さん(母さんの弟)にカウンセラーのところに連れていかれたこともありました。その叔父さんは私を本当によくかわいがってくれ、私は「ショウ兄チャン」といって慕っていました。その叔父さんもガンで亡くなり今はいません。ショウ兄ちゃんが死んだ時私は電話口で声をあげて泣きました。ばぁちゃんが死んだのは私が九州大学に合格した後の夏でした。いままで迷惑ばかりかけてきたばぁーちゃんがみんなに私のことを自慢してたそうです。安心したのか、あっという間に死んでしまいました。私の心に深いキズを残して。今もふと気がつくと「ばぁーちゃん、ごめん」とつぶやいていることがあります。私が父親と喧嘩して東京に飛び出したことが母さんを苦しめ、ばぁちゃんを悲しませてきたのです。
●私はやけくそでした。東京で大型トラックの運転をして生活していました。高校を出るとすぐに大型免許をとっていました。私の心にはいつも優しかった母さんとばぁちゃんの心がありました。私が大学へ行くことをあきらめずにいられたのは少年のころやさしかった母さんのことをいつも思っていたからだと思うのです。故郷で生活しているばぁちゃんがいたからです。私は故郷の別府に帰り父親に頭を下げて大学受験をすることになりました。もともと私の父は私が大学へいくことを望んでいたのです。それでも結構皮肉をいわれました。入試まであと五ヶ月という時でした。その頃の私はなぜか心に落ち着きを取り戻し平静に受験勉強ができました。毎日、午前中は九時から十二時まで、午後は一時から六時ごろまで、それから近くの温泉に行き、七時ごろに夕食です。この頃父は駅長になっていて、官舎住まいで母もいっしょにいっていましたから、私は祖母と弟と三人で実家にいました。姉はすでに嫁にいっていましたから。そういう環境が私に勉強に集中させてくれたんです。ばぁちゃんが一生懸命私のために夕飯やら昼ごはんをつくってくれたんです。弟は高校をでてから今のNTTに入り内部の専門課程に進学しました。すでに社会人だったんです。私一人がはぐれ者でブラブラしていたわけです。それでいてなにかにつけて父親と衝突するわけですから、まあ母と祖母にとっては本当に心配の種だったと思います。
●お正月もなにも関係なく勉強のリズムを崩さずに生活しました。私が初めて素直な気持ちで生活できた頃かもしれません。もうだいぶ東京で鍛えられてきたので多少我慢することも覚えたのだと思います。わずか五ヶ月ほどの勉強で大学に合格できたのはまさに奇跡でした。父は二期校をすべり止めに受けろと厳しく言いましたが、私は九州大学だけを受験しました。もし落ちたらそのときは、ひっそりと故郷を去る決意でした。今度は横浜で働こうかなどと考えていました。今、私は東京にいます。武田鉄也ではありませんが、思えば遠くへきたものです。「故郷を離れて十五年、今では女房 子供もち あの頃恋しく思いだす 振り向くたびに故郷は 遠くなるような気がします」

私がここまで立ち直れたのは、少年のころのやさしいお母さんの夕飯をつくる姿がいつもまぶたの裏にあったからです。
 今の子は物には不自由しないけど母さんはいつもいないんです。外で遊んでいても家に帰れば忙しそうにはたらいている母さんがいる。少年の心は安心感で満たされるのです。いつか家で淋しそうな母さんを見たことがありました。私はなぜかしら悲しくてしようがありませんでした。ニコニコして動き回っている母さんが好きでした。

◎離陸して自由に羽ばたけ

 子どもたちを指導してていつも思うことがあるのです。この子たちが独り立ちして, 一丁前に「考える」ことができるようになれば, 私の役目も果たせたことになる。そう思いながら, 「考える」子どもになってほしいとの一念で指導に徹しています。だから, 時々語気を荒げることだってある。小学5年生でも長くいる子は「先生がまた怒っているな。」とシュンとしながらも, 理解しようとしているようすが伺えます。これが中学生だと表情からは困惑は伝わりますが, できなかったら今度は前もって復習するなり準備をすればいいのにと思うがなにもしたようすがないのはこれまた中学生に普通のなりゆきです。中学生については勉強に熱意がなくなれば指導はもはや無理です。このへんのところはわかって行動してほしいと思います。私は「やる気」のある中学生のみを引き受けたつもりです。
 あるときは, 自分の力で「証明を成功させた」答案を見ます。これは私にはうれしい。底なしにうれしい。飛行機でいえば, 中々離陸できなかったところへもってきて, とにかく自ら操縦して, 離陸したのだから。一端離陸してしまえば, 私は管制官として指示を出して誘導するだけでいいのだから, 自由にどこまで羽ばたける。小学生だって, 算数の割合問題なんかを「考えて解いたな」と思わせるような答案を見せられるとこれはうれしい。まだ小さな小型セスナだけどとにかく少し浮上した。少し飛んだかなと思わせる。なかなか本格的な離陸とまではいかないが少しだけなら地上を離れて自由飛行したかと思わせる。それでも油断しているとすぐに飛行場をあちこち走り回る。なかなか飛べない。私は子どもたちを飛行機の操縦士に見立てて, 独り立ちして一丁前に操縦して「離陸」できることを目標に日々指導している。あまりに離陸できないでいるとつい語気を荒げることもある。そういうことです。まだまだ竹の会には離陸できない子がいます。それでもそういう子が離陸したいという熱意とか情熱とかを失くしたらもはや指導はできませんよね。

◎連日指導4日目。やや疲れ気味。子どもたちも今までの竹の会のリズムからすると慣れないせいかややへばり気味に見えます。とにかくがんばってくださいね。
この記事についてブログを書く
« 「心の指導」紹介編(第2回) | トップ | 「心の指導」紹介編(第4回) »