草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

「心の指導」紹介編(第2回)

2010年01月20日 09時43分11秒 | 
◎「心の指導」第4編第1章より
 下記は平成9年に発刊した拙著「心の指導」の内容を紹介したものです。それに先立って私は「竹の会指導論集Ⅰ」を平成2年ごろに出しています。

 私が「指導論集Ⅰ」を出してから、早七年の歳月が経としています。あのころに比べると竹の会も随分変わりました。今では、私の執筆した」テキストも相当な数になります。
 「私の指導技術と指導理論はこの七年間で変わったのでしょうか。」
 指導論集を読み返してみると、荒削りで一途なある意味でかたくなな若ささえ感じます。しかし、そこで述べた主張の根底は今でもなんら変わるところはないような気がします。いやそれどころか、その後の私の指導理論は七年前の私の考え方を実証しながら、確固とした指導技術へ具体化していく過程であったのだと思います。
 本書の第一編では、さまざまな識者の主張を引用していますが、みな私が指導論発刊後に読書をつづけるなかから出会った意見です。あまりにも私の考えと近似するものが多いのにおどろかされたものでした。
 第一編は「心の指導」ということで書き始めたのですが、私の指導との葛藤がついには「こころの問題」ひいては「母親の問題」にまで及んでしまいました。なんだか書いているうちにかなり現代母親批判論のようなことになってしまい母親の皆さんに叱られそうですが、ここでは言いたいことを歯に衣着せずいわしてもらい、問題を提起しておくことのほうが大切だと思いあえて書きました。

 第一篇では、西岡常一(にしおかつねかず)さんの話を引用させていただきましたが、実は西岡さんには「木に学べ」と題する口述筆記の著書があるのです。この本は私に生きることの意味を強い説得力をもって教えてくれました。西岡さんは1930年代から法隆寺昭和の大修理に携わり、その後、薬師寺の再建に着手して、薬師寺宮細工棟梁として活躍されてきた名人といわれてきた人です。以下には、西岡語録を引用しながら、西岡棟梁に人生をそして指導論をお教え願おうと思います。

(引用部分には、「・・・・」を入れました。引用は要約してあります。)
    法隆寺はヒノキで造られています。法隆寺は千三百年前の建物です。これがちゃんと建っているのは西岡棟梁によると樹齢千年のヒノキを使っているからだということになります。「ヒノキという木があったから、法隆寺が千三百年たった今も残ってるんです。ヒノキという木がいかにすぐれていたか昔の人はすでに知っておったんですわな。」
      「自然の木と、人間に植えられてだいじに育てられた木では当然ですが違う。自然に育った木は強い。なぜ。木から実が落ちてもすぐに芽を出さない、いや、出せない。ヒノキ林には地面までほとんど日が届かん。種は何百年もがまんする。スキ間ができるといっせいに芽を出す。何百年もの間の種が競争する。それを勝ち抜く。だから、生き残ったやつは強い木です。それから大きくなると、となりの木、そして風、雪、雨・・・。木はじっとがまんして、がまん強いやつが勝ち残る。千年たった木は千年以上を勝ち抜いた木です。」
       
   生き抜くことの厳しさを木に教えられる気がします。がまん強く生き抜くこと、ヒノキは私たちに飛鳥の昔から必死にそのいきざまを、生きることの心理を訴え続けていたのかもしれません。
    「五〇メートルの木の高さやったら、五〇メートル下まで根がはっている、といわれている」
     生きるためには土台がしっかりしていなければだめだということでしょうか。子どもは大人になって自立してひとりでいきぬいていけるように土台を築いていかなければならない。
    「(土壌の条件)厳しい条件のところで二千年以上のヒノキが残る。台湾のヒノキは土壌がない。岩ばっかりや。風化して割れている。その間に水がしみ込んでいる。ほんのわずかの水をめざしてヒノキの根が岩の間に入ってくる。こういう条件だからこそ二千年の木が育つ。人間も同じ。甘やかし欲しいものがすぐ手に入ったんじゃ、いいもんにはなりません。木は人間に似ている。環境と育ち方が木の性質を決めてしまう。土地によって木の性質が決まってくる。木を知るには土を知れ。」
    人間でいえば、環境と育ち方が子どもの性質を決めてしまう、ということでしょうか。環境とは、木の場合は根をはる土ということです。人間の子どもの場合は、家庭とくに母親ということになります。

「ヒノキならみな千年持つというわけではない。木を見る目がいる。木を殺さず、木のクセや性質をいかしてそれを組み合わせて初めて長生きするんです。堂塔の木組みは寸法で組まずに木のクセで組め。木のクセは木の育った環境で決まってしまうんです。そのクセを見抜かなくてはいかんわな。木というのは正直や。千年たった古い木でもぽっととれば右ねじれは右にねじれてしまう。人間と大分違う。動けないところで自分なりに生きのびる方法を知っておるんでしょ。木のクセのことを木の心や言うてます。風よけて、こっちへねじろうとしているのが、神経はないけど心があるということですな。」

子どものクセは育った環境で決まってしまいます。子どもがヒノキのように正直なら子どものクセをつまり子どもの心を子どもを殺さずいかすことができます。人間とは大分違うといっていますが、クセの部分では同じような気がします。子どものクセを生かす指導というのも考えてみたいですね。でも、甘やかしの結果のクセは生かしようがないと思います

「二千年の正しい木は二千年相応の葉の色をしています。葉の色が渋いものが中は詰まっているんです。そういう木は決まって大きな幹があって枝が出ています。」
「人間というのは知恵があってすぐれた動物やからなんでも自分の思うようにしようとするけど、そんなの自然がなくなったら人間の世界がなくなるんです。そう考えたら木も人間もみんな自然の分身です。おたがい等しくつきあっていかなあきません。それがむやみに切ってしもて。もう使えるヒノキは日本にはない。今になって緑や自然やゆうても・・・・。人間賢いと思っているけど一番アホや。動物は食う量にしても木や自然とうまくつりあっとる。それが人間はすぐ利益をあげようとする。今は金のためならなんでも刈ってしまう。これじゃ木はなくなる。自然を忘れて自然を犠牲にしたらおしまいや。近頃の人は自然を尊いものと考えておらん。今は太陽はあたりまえ。空気はあたりまえと思っている。心から自然を尊ぶという人がありません。」

「資本主義も結構やけどね、日本の資本主義というやつは、飽くなき利潤追求ですわ。適正な利潤追求ではない。日本中が金もうけのことばっかりや。飽くなき利潤追求ということは、みんな押し倒してしまうということやからね。」

「女性は家庭におって、男の人の後姿を見て、あれが悪いこれが悪い、これだけ取りのけて、子供に良識をうえつけていく。そうせんと次の時代はひらきませんわ。」「男は現世を生きていくために、自分の家庭を守るため、又社会人としての責任も果たさなならん。それだけでせいいっぱいですがな。女の人の役割りというのは、現世的なもんやないんです。ただラクをするとかトクをするとかだけ考えてたらあきません。

以上「西岡語録」のほんの一部ですが、私が特に共鳴したところをすこしずつ紹介していきました。最後に引用した女性論は男女同権論者や女性の地位なんとか論者などから、ひんしゅくを買いそうな意見です。しかし、最近の少年の凶悪犯罪の増加と家庭で子供を育てない、はたらく女性の増加とは無関係ではないような気がします。昔は、きちんと母親がこどものそばにいて、子どもをやみくもに甘やかすということもなく教育していた。母親がそばにいるというだけで、子どもは幸福であった。子どもの心は限りない安心感に満ちあふれ安定していたのである。テレビなどでキャリアの女性が堂々と論をはっているのを見ることもめずらしくはない時代です。彼女達は自分が人並み以上に子育てに時間を割いていることを強調します。それは結構なことですが、実際そういう母親の子どもの心には、母親の心に飢えた、満たされない不安が醸成し続けていることは間違いないはずです。母親が子どもを育てるということは、「ながら」育てることでは不可能なのです。子どもはいつも母親にみていてほしいのです。そうして初めて子どもは情緒が安定するのです。これは悔しいけれど男には代替不可能だと思うんです。だから男は思いっきり虚勢をはって子どものために盾になってやる、そんな父親の気概が子どもの心に届けばいいんです。男は淋しいものです。


◎今週は連日指導のためブログを推敲する時間がないため, 私の著書「心の指導」を徹底して紹介することとしました。興味のある方がいましたら幸いです。

◎子どもというのは, 本質的に「思慮不足」「思慮が浅い」ものです。現象の一面, 氷山の一角しか見ない。いや見れない。ところが, 昨今ブームの適性問題というのは, 子どもたちに「深い思慮」といったものを求めています。この要求は本来幼くて天真爛漫な子どもたちの現実とは実は相いれない。私には公立中高一貫校をめざそうとするほとんどの子どもたちがその幼さのゆえに適性不適格のように思えてならない。子どもにあってすでに「思慮深い」とはいかなることなのであろうか。もともと知能が高い子や精神年齢の高い子しかいないではないか。そもそも適性問題でいくら練習してもだめで, やるべきことは精神的幼さからより精神年齢を高めるような指導, 深い孤独な思考の経験をさせるような指導をとじっくり2年くらいかけてやることなのではないか。よく6年生になって公立中高一貫へと思い立つ人も多いが, そういう人が成功するにはその子が人並み外れて精神的自立を果たしていることが前提となるであろう。そのうえ知能の高いことが成功の条件になるのはまちがいない。猫も杓子もということにはならないのである。ごく普通の子がその精神的幼さと公立小の平均的な知能をもって臨むのなら, 少なくとも小4にはそのような指導をしなければなるまい。ほとんど大半の子どもは「割合」で躓くというのが現実である。ほんの一握りの子のみが割合を苦もなく理解する。そして99%の子どもがあまりにも幼い。幼いことはそれ自身適性不適格である。適性は自分の判断であり, 判断をなしうるのは主体の確立した個人のみである。依存100%の子どもに判断はない。
この記事についてブログを書く
« 竹の会「心の指導」とは | トップ | 「心の指導」紹介編(第3回) »