草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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都立研究家

2013年09月13日 10時27分25秒 | 
 お早うございます。また暑さがぶり返してきたようですが、一頃のあの暑さほどではなく、太平洋高気圧の最後のあがきのようにも思えます。いくらあがいてみても宇宙船地球号は傾きを太陽から遠ざけるように距離を置いていくばかりですから。
 朝夕の涼しさは変わらない。熱帯低気圧が台風に発達したことが報じられていましたから、最初の連休あたりが危ういのかもと思います。渋谷もそうですが、これから秋祭りのシーズンですから、そちらのほうが気がかりでしょう。
 昨日は、わたしが平成22年にまとめた「適性虎の巻」というレジュメがあるのですが、その中の「第三章 都立中研究」について夏前から「竹の会入会テスト第3類」として執筆開始していたものがあるのですが、そちらが100ページになったところで、新たに「第4類」として起こして執筆することとし、昨日はその第1稿を完成させました。平成20年の両国の問題でしたが、再分析していて思ったのは、普通の小学生には「解くのは無理」ということでした。二層にも三層にも思考を重ねて、つまり論理的な推論を重ねていって、初めて正解に達する、都立中の問題とはそういうものです。これははっきりと「普通の小学生」を排除していると確信しました。
 子どもがそれこそ思いついて、いや親が思いついたのかもしれませんが、「都立中へ行きたい」と憧れるのは、これまでと変わらない光景です。桜修館や白鴎などに行った子たちを見ていると、毎日過大な宿題に追われて進度も速く落ちこぼれずについていくのが大変なことのように思われます。うちの子はとてもそういう授業についていけないから受検しないというのもひとつの見識なのでしょうが、逆にそもそもそういう子が「受かるのか」ということです。もし「受かる」ほどの能力があれば、ついていくのは無理ではないでしょ。
 授業や学校の様子を見て「ついていけない」、「合わない」というのは自由ですが、それは当然合格できて、合格するほどの力があっての話でしょ。合格水準からはほど遠い子が、仮に受かってもと断って言うのは勝手ですが、その仮に受かっても、というのはまず「ない」前提なのです。合格する前から、受検勉強を始めてからそう言うのは「合格できない」と判断しているようなものです。
 さて、世の中には、そこまでも考えない親子というのもたくさんいます。合格さえすればなんとかなると考えたのかどうか、漠然と曖昧なままにとにかく「合格したい」と思ったのか、学校の成績は冴えないのに「なんとかなる」と思っているのか、学校の成績とは別と考えたのか、あるいは学校の成績はいいから「受かる」と考えたのか、とにかく少なくない小学生たちが、都立中をめざして勉強しています。簡単に大手のような大きな塾に行けば「合格できる」と考えている単純な親子も多いのではないか。あるいは自宅学習でいわゆる銀本を解いて受検勉強をしている親子もそれなりにいると思います。問題は塾に行けばできるようになるのか、受かるだけの能力をつけられるのか、ということにもあります。塾で失敗したかどうかというのは後でわかることですから、失敗した人たちは大量にいて、もはや取り返しのつかない貴重な小3、小4、小5、小6の期間を無駄に過ごしてしまったという子もかなりな数に達するはずです。
 わたしの実感を言えば、そういう人たちの中から合格者が出るのは難しいということです。大手で合格するのはもともと知能優れた子だったというだけです。別に大手に通ったからでも何でもないとわたしは思います。それは時には塾にもどこにも行かないで合格したという子もいるでしょうが、それは稀な例というだけのことです。そこから一般化して「塾に行かなくても受かる」などということを言っても無理です。
 昨今は、都立中は私立難関中受験者の併願先になっています。私立中を受験する子たちというのは、普通小4から訓練してきています。その中のもともと優秀とされる子たちに、あるとき「都立なら」と思ったかどうかは知りませんが、凡才小学生が「受検を思い立って」も勝てっこありません。普通はそうです。いやわたしは都立中の問題を研究すればするほど、これはとても並みの小学生には「解けない」と思ってしまいます。「並みの」とは、学校で「できる」という子たちほどです。学校で「できない」子というのはお呼びではないということです。
 熱心なお母さんたちは、もう子どもに習い事やお稽古事、英語をやらせたり、漢検をやらせたりと早期英才教育に実に熱心なことです。なかには本を読ませたりする親御さんもいるのかもしれません。みな子どもの将来を思ってのことでしょうけれども、実は親御さんのそういう努力も長じてみればただの凡才の子に虚しく動き回っただけということが普通のなりゆきです。
 わたしは小学1年の前後はとにかく「ゆっくりと丁寧に漢字、ひらがなを学ぶ」ことが、絶対大切だと思っています。高学年になって字もまともに書けない小学生のいかに多いことか。中学生や高校生になってももちろんですが、小学生の「今」、まともにノートが書けない、作れないというのはかなりのマイナスです。なにしろできなかった問題をノートにまとめておくという基礎作業もなにやら殴り書きにしか思えない、ノートを作るという意味がまるでわかっていない子が多いのですから。
 それから英語でも漢検でもやるのはいいと思います。漢検は役に立ちます。公文は「早く早く」と先へ進めるので、公文をやっていた子というのはたいてい字が汚いことが多いので、それさえなければいいと思います。ただ公文をやるのは小1の1年間がせいぜいではないでしょうか。中身もまるで理解していないのに小学生が中3の数学をやっているなどといって喜んでいますが、ナンセンスです。脳の思考センスの深さというものはそんなこととは無関係です。漢検はいいと思います。英検もいいでしょう。しかし、たとえば、漢検2級とって、英検準2級とって、特別枠を狙うというのははっきりいってほとんど合格は期待できないという現実を知っておかなければなりません。もっと別のところで決めています。
 わたしは何かを決めていろいろと早期教育かなんかは知らないがやるのは勝手ですが、受かる子というのはそういうこととはほとんど関係ないということを言っているのです。
 わたしが「いい」と思ったのは、ナンプレです。これは確かに「脳にいい」、「脳を鍛える」と思います。将来意味をもつのはこうしたパズルのようなことに頭を使ってきた子、いや正確にはそういうことに関心が行っている子だと思うのです。関心が「ない」というのはそのまま知能のレベルを示しているとみてもいい思っています。とにかく「できるようになる」子というのは、知的関心の深い子に限ります。勉強が嫌いとか、あまり好きではないという子に受検をめざさせるのは最初から無謀なことと思った方がいいのです。
 わたしは都立中の問題を研究していくのが仕事です。ですから毎年都立一貫校の11校分(1校のみ区立ですが)の問題をすべて解きます。いや平成17年からすべての問題を解いてきました。その上で。都立合格に必要な、求められている能力というものを探ってきました。わたしはその意味では都立中高一貫校の研究を重ねてきた者という意味で都立一貫校研究家と言えます。しかし、わたしの専門は実は高校受験です。わたしがこれまで解いてきた夥しい量の問題の中には昭和61年から平成25年までの全都立高校の問題もあります。もちろん私立高校の問題も膨大な量を解いてきました。そして今は独自校問題に研究の中心を置いています。都立日比谷や西の数学や英語を解いていて、いろいろなことがわかってきました。数学はすでに対処済みです。いやなにをすれば合格可能域に到達するかはわかっているという意味で対処済みです。英語については、早期にある対策が必要ということも認識しております。それは今の1人しかいない中2にこれから考えていくことです。国語は慶応並みの国語読解文に慣れていること、いやそれ以上に社会的意識においてすでに哲学者的な視点が前提として必要なこともわかっています。幼稚な、私的な世界に拘泥しているような精神ではだめということです。そういうことを視野に入れての指導でなければならない、したがってレジュメをそういうかたちにしていかなければならないということも認識しております。とにかく、都立研究家というとき、都立中高一貫校及びトップ都立高が念頭にあるということです。
 わたしは竹の会の中学生が、学年1番をとる子たちであることをよく知っています。そのために定期試験に時間をかけていることもよく承知しています。定期試験があるときは、1か月はわたしのレジュメが先送りされるのもわたしは別に彼ら彼女らの意思を尊重して一切なにも言いません。定期テストの結果がよくて喜んで報告してくる親御さんや生徒には心底よかったと思いもします。ただわたしのレジュメがそのために通算しても6か月以上にも及ぶほどに放置されているということの胸のつっかえは取り除かれることはないままに平穏に時は流れていくのです。いや定期試験だけではない、体育祭、生徒会活動、移動教室、修学旅行、その他様々な学校活動で、わたしのレジュメがまず一番先に先送りされ続けていくことも知っています。
 そしてこれだけははっきりしています。わたしのレジュメを先送りすること、「時期を逸する」ことは、恐ろしい事実につきあたるまではすべてがうまくいっているように見えても、密かに静かに侵攻する、目に見えない悪性新生物のように始末の負えない、もはや手の打ちようのない、「失速」をある日突然に鮮明にする、という事実です。
 

 
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