草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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絶対にあきらめない精神

2013年09月14日 10時32分01秒 | 
 お早うございます。台風18号が接近しておりますが、明日15日は予定通り指導実施の予定です。16日午前3時には紀伊半島沖に達する予想ですので、15日20時までの指導は可能と判断しました。
 9月もあっという間に15日になろうとしています。時というのは気がつけば恐ろしい速さで進んでいる。それは時が確実に休むことなく一定の速さで進んでいること、そしてわたしたち人間は時を忘れること、いや「忘れる」こと、意識しないでやり過ごすことが本質的な動物だからでろう。人間というのは、一つのことしか意識できないようにできている。時間を忘れる、時間を短く感じるというのは、何かに気を取られていてすっかり時間の意識が飛んでいたということだ。家族の死は決して忘れることはないが、日常生活の日常の由無し事、いやそうでなくても仕事、趣味でもいい、なにかをやっているときは「わすれる」、それが人間の本性なのである。もう一つ人間の得意技がある。「遣り過ごす」のは人間の本能的な行動なのではないか。話は飛ぶが、福島第一原発なんかも、この2年間、政府も、国会議員たちも、官僚も、遣り過ごしてきただけではないのか。いいかえれば背中を向けてきたということである。わたしたちは、ホームレスを見ても「それはないもの」として頭の中に整理してしまっている。一般の人はそれでもいい。が、行政がそういう扱いにしているのが問題にもならない。江戸時代なら資財をなげうってお助け小屋を作った僧や商人もいたと聞く。もっとも社会全体の生活レベルが低かった、あの時代の庶民にしてみれば貧困は身近なものであった、つまり他人の貧困はとても他人事ではなかった。
 ホームレスの死には冷淡だが、子どもが事故に遭えば社会はたちまち立ち上がる。人の命は地球より重いと教育評論家のセンセーは言うけれど、社会は人によって人の命の値段を差別しているのが現実なのである。
 まじめに正直に生きてきた老人が、年金もなく、生活保護も事実上拒否されて、病気になっても保険があるうちは病院をたらい回しにされて、高い老人保険料を負担させられ、払えなければ保険無しで全額負担、つまり医者にも診てもらえずに、結局死ぬしかないのが老人の現実なのである。万引きをしたり、空き巣をしたりして刑務所に入った老人は恵まれている。具合が悪ければ医師もいるし、とにかく3食食べられる。それも無駄な栄養は一切無しで健康管理は強制的にやってくれるようなものだ。生活保護を断られた老人と比較して犯罪者のほうがずっといい生活をしている。これが現実ということである。現実は、まじめに生活している者には冷酷で、法を犯した人間には手厚い待遇をしている。それが全く不思議に思わない役人というのが不思議なのが今の世の中ではないか。
 人というのは、現実にもうどうにもならないということを見るまでは今の生活を止められないと思う。悲惨な原発事故がまた起きない限り原発反対などと真剣に言う人など出てこない。それが人間ということである。
 「遣り過ごす」というのは、しかしもうどうにもならないというところに人間を持って行ってしまう。「時」と「無為」とは最も強固なつながりにある。何が「無為」かは人の価値観によって左右される。だから無為は主観的なものかもしれない。しかし、たとえばゲームに時間を費やす小中学生が、たとえ彼ら彼女らの主観においてゲームに価値を認めていたとしても、社会には厳然としてある勉強、仕事という価値からは全くの無価値、つまりは無為として否定されるという意味では、客観的なものである。
 さて、ここで世の中には不思議なことがあるもので、中学校では、授業に熱心についていっても定期試験でいい成績をとっても、一向に実力、受験に打ち勝つ実力がついていかないという現実である。これはいかなることなのであろうか。もし内申制度なんかなければ、まともに中学教師の授業など受ける生徒はほとんどいなくなるであろう。中学教師の授業とはそれだけのものだということだ。生徒を内申で脅す教師などは自分に人を導く力がないということを告白しているようなものだ。意味もない大量の宿題を出す教師などももし内申制度がなければだれひとりとしてそんな宿題なんかをやるはずがないということに気がつかないほどにバカなのである。
 今の中1、中2にはこのところ私は何度となく警告を発しているつもりである。あれだけバカ教師がいれば、意味のない宿題や学校行事で時間をとられるのは必至である。定期テストだって最優先でもしかたない。ただそうして竹の会のレジュメが、学校の手が空いたときだけ、申し訳程度に、思い出したように、1週間に1枚ならまだいいほうで、1か月に1枚出したかどうかなどということをやっていれば、実力なんかまるでない、空っぽのままで受験を迎えることになる、そういうことは覚悟しておかねばならない。
 「いそがしかったからやっていない」というのは、いいかえれば、わかっていてやっていない、つまり行ける高校に行くという宣言をしたにすぎないということである。
 これは小6や中3について言えることであるが、白紙で出すのは塾だけのことでは終わらないということである。白紙で出す子は必ず本番でも白紙出だす、これは真理である。白紙で出す子が受かったという例はない。
 その意味でもわたしはナンプレをやる意味があると思っている。簡単にあきらめるな、ということである。わかるまで考える、あきらめないで考える。今の受検生・受験生に欠けている、いや失敗する受検生・受験生に欠けているのはこの精神である。
 わたしは日比谷の数学を何年分か解いてみて正直易しいと思った。これが私立難関だと時として「解の見通し」さえ立たないことがあったが、日比谷の問題にはそれがなかった。確かに難度は高いが決して解けない問題ではなかった。ただ日比谷程度の問題で制限時間内に、つまり1題10分程度で正解に達するには、少なくとも、中2の春休み、つまり中3になる直前までには受験レベルの数学を一通り終えていなければならないであろうことは確かである。英語なら解釈レジュメをもう100枚、いや200枚くらいは訳しておかねばなるまい。あるいは「入試英語指導案」はもうぼろぼろになるほどに読み込んでいるくらいがちょうどいいのである。わたしは都立受験生には、定番の理社テキスト以外に、問題集、古文なども渡している。そういうものもふくめて中2が終わるまでに一定の結果を出しておいてちょうどいいのである。「学校の勉強が忙しいので」やらない生徒たちには最初からそういうところは受けられないしくみになっているということである。そういう学校には最初から日比谷や西に受からせる気などないのである。
 勘違いしてはいけない。誤解してはいけない。「わからない」という人間が、解説を読んで「わかっても」、実力はなにもついていないのである。「わからない」という人間はいつも「わからない」ままで本番までいく。本番のその日だけ「わかる」ということがあるはずがないではないか。本番が終わって、結局「わからない」で正解を見て「これなら簡単だった。解けたのに・・」と言うけれど、そう言うであろうことも想定済みです。
 受かりたければ、「白紙で出すな」。

 
 
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