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草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

寒冷前線の通過

2012年10月23日 10時23分38秒 | 
 お早うございます。本日はBの指導日です。生憎寒冷前線の通過で特に午前中は強風と雨で交通機関に影響の出ることも懸念されています。ただ夕方以降はしだいに収まる見通しです。本日変更の可能性も検討しましたが、予定通り実施としました。なにかありましたらご連絡いただければと思います。

 昨日はBの指導日でした。Bは当初の想定が見事に外れて不人気コースとなってしまいました。このコース設定は来年1月までで廃止の予定です。2月以降は全く新しい構想のコース設定の予定です。
 都立中高一貫校受検のみなさんは、今がもっとも勉強に、勉強だけに専念しなければならない時期と認識しなければなりません。今この時期の時間の価値というのは、他の時期の時間と同じように気軽にどうでもいいことに費消できるほどに軽くはないということです。試験本番が45分という制限時間、つまりは与えられる時間は45分だけというように、時間をあきらかに価値あるものとして前提しています。もし「勉強」に、勉強だけに時間がかけられないのであれば、2月9日の掲示板に自分の番号が載らないことがあってもそれはしかたのないこととあきらめる覚悟ができての話しでなければなりません。
 あなたが、たとえば大晦日やお正月にテレビを観るなどで時間を使うことも自由ですが、それは今から受検本番までにあなたたちに与えられた時間を「捨てる」ことです。貴重な時間を捨てることです。なにかと両立を考えているのなら、あなたに与えられた時間は他の受検生の半分以下です。これは落ちるのは覚悟していなければありえないということをまず認識してください。
 中学で部活一辺倒でやってきた生徒たちの進学はどうなのでしょうか。こういう人たちは中1、中2の時期に高校入試を視野に入れた勉強などは一切やるはずもなく、それどころか普段は全く勉強しないで、つまり部活のみで、定期試験1週間前だけ部活も休みとなり、とりあえず試験勉強のかたちをとるというのが実態でしょう。なかには偏差値50~55あたりの私立の推薦をもらう子もいてそれで受験成功と満足する親子もいます。たいていは低偏差値私立の単願推薦、つまり無試験入試ということではないかと思います。
 私立単願で進学した子たちのその後というのもそれほどバラ色ではないようです。それまであれほど夢中でやってきたバレーやサッカー、野球を進学後も続ける子は少なく、かといって勉強はまともにやってこなかったおかげで中学の学力も怪しい子たちばかりですから、退学者が多いのもいたしかたないでしょう。
 それでも都立志向の生徒は部活をやりながらもその影響を極力少なくする方向で勉強に重点を置く子もいます。そういう子というのは実はもともと知能が高い子であることが多いようです。ただそういう子でも中3になって部活に翻弄されるという子は結局良質都立には行けない場合が多いと思います。
 もうお分かりのことと思います。中学で部活に力を入れるのはやはり勉強嫌いの生徒、つまりはもともとの能力に限界のある子たち、自分で限界を感じている生徒たちが中心であるということです。そういう子たちが勉強しないというのであればその学力たるや推測に難くありません。
 公立中学というのは、ごく少数の、ほんの一握りの知能優秀な子たちだけがまじめに勉強していると思っていて間違いではないと思います。そういう子たちの中から西、日比谷にいくトップ・エリートが出てくるのです。竹の会でも中3期の、つまり仕上げ期の生徒の学力というものは、たとえば高校入試のない国立中学の子たちのはるか上をいっている、あるいは早稲アカ、サピなどの大手のトップ層にも引けを取らないほどに仕上がっていると思います。いやわたしなら知能の高い生徒を西・日比谷レベルに仕上げることができる。知能が高ければあたりまえではないかと思われる人もいるかもしれないが、知能が高くても西・日比谷は別格です。そう簡単ではないということです。
 それから、ここはしっかりと認識・覚悟していなければならないと思うのですが、いや都立中高一貫校受検の方たちのことです。受検というのは水ものです。みんなが受かるわけではない。合格を期待されている子だって落ちます。そういうときの覚悟もしておいてくださいということです。そういう覚悟がなければ受検なんてできるわけがないのです。
 都立中を落ちたらもうすべて終わりではない。あたりまえです。高校入試があるのです。しかし、これはラスト・チャンスです。今、竹の会でやっている訓練は別に都立中学合格というだけのことで意味があるわけではない。割合を訓練し、思考を鍛え、適性問題でさまざまな能力を鍛えていくということが、仮に公立中へ進むことになっても無駄になるというわけがないでしょ。
 現に今年不運にも不合格となった子が今竹の会で勉強していますが、勉強中心の生活を送り、学年約150人中でも一ケタの順位にあります。それでもまだ本来の力を発揮できているわけではありません。まだまだ伸びしろがあっての学年1ケタです。
 あなたたちが今竹の会で徹底して訓練を受けていることは将来都立中でも公立中でも必ずあなたたちを助けてくれる血となり肉となっているということです。
 特に、竹の会で来る日も来る日も受けてきた「割合」訓練は必ずや将来にあなたたちの能力を飛躍的に伸ばす原動力となるはずです。

 「未知は道に通じる」
 わたしの適性指導を通して得た指導コンセプトです。
 適性というのは、本番に初めて遭遇する、いわゆる初見の問題に対したときの「対応」が問われています。よく大手などでたとえば今年出た問題と類似の問題などを作って「そっくり模試」などというものはやりますが、あれはナンセンスです。近頃は、どの子どもたちも親が書店から過去問を買ってきて子どもに解かせるものですから、過去問で「初見」のチェックをすることもできなくなりました。必ず「やったことがある」問題で解き方までしっかり覚えているのですからもうだめです。本来、受検直前に初見させて力を見るということに使えたのに、そしてそれがかなり有力な合否資料になりえたのに、今ではそれはまず無理です。それでわたしはとにかく模試で合格判定をとってこい、と言うわけです。私立受験の模試のように偏差値試験では番狂わせというものもよくあります。ところが、偏差値で測れない適性試験は、近年は完成度も高く、合否判定にはかなり有力のように思われるからです。
 わたしは昔からつまり高校受験でも大学受験でも中学入試でも、つまりは偏差値測定試験においては、数学や算数では、「発見」こそ成功の極意だと言ってきました。
 それは初見問題に対して何かの「発見」こそが解決の糸口になることが普通のことだからです。
 そしてこのことが実は適性問題においても同じであるということがいえるのです。ここでも初見の、つまりは未知との遭遇が常態であること、その上でその未知の中に道を見つける能力が問われているということです。そこで訓練すべきは徹底して未知との遭遇における対応、耐性、免疫能力であるということです。わたしが今作っているレジュメはそういうコンセプトに満ち溢れた作品ばかりです。子どもたちに徹底して未知を体験させること、そしてその中から「道」を「発見する」力を培っていくこと、これです。
 網羅的に知識を与えるのは子どもたちの脳を破壊するだけです。「これを、この知識を徹底して理解し、あなたの血となり肉となること」、これです。だから知識は選んで与えるのがベストです。これが私立受験だと「これだけ覚えなさい」と言って大部のテキストを渡すだけになります。これはもう能力のある子だけを相手にするということです。
 少しの知識でいい。その代わりあなたの血となり肉となるべし。

 「合格を信じて努力する」姿は美しい。
 高々10歳、11歳の子たちが何時間も机について黙々と勉強しているのです。わたしは人間が本来やるべきことをやっている情景がいちばん心が安らぎます。おしゃべりをし続ける、騒ぐ、大声を出す、ふざけるなどと踏み外すのも同じ10歳、11歳ですが、これが本来の幼い子どもたちの姿なのかもしれません。だからこそ勉強に集中できる能力というのは希少の天分ともいえます。それにしても年端のゆかない子どもたちが、じっと割合を考えている風景は人間の能力は訓練すればするほどに高まるのだということを確証するほどに感動的です。能力は鍛えれば鍛えただけ高まるというのは真理です。しかし、すべての子どもたちが天分に恵まれているわけではありません。なかにはまじめな精神の持ち主なのに、いくら考えてもわからないという子もいます。それはわたしには辛い光景です。ただ「合格を信じて努力する」姿は美しい。願わくばその純粋な心が永遠にそのままにあらんことをと祈る気持ちです。
 中学という年頃はいと恐ろしげな年頃です。思春期、自我の目覚め、子どもから大人へと体も変わります。反抗期という避けては通れない精神形成における山もあります。こういう時期の子どもたちが勉強に気が向かないのはあたりまえかもしれません。知能が高い子でもその抑えきれない情動に転落していった子たちをたくさん見てきました。この時期に心静かに勉強に専念できるというのはある意味奇跡なできごとのようにも思えます。ただとにかく勉強に没頭するほどに夢中な子だけがその激動の思春期に翻弄されることなく、気がつけば心静かに勉強する精神を獲得しているのではないかという気がします。
 勉強しない子、部活に夢中な子というのは、その時々の環境に左右されやすく、影響を受けやすく、情緒はいつも不安定で、主体を欠く、根無し草のような精神のありようではないかと思います。なにかの行事、サプライズにばかり気をとられて、なにか面白いことはないかと生活に軸がないのではないか。
 
竹の会
 
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