草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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判断

2012年12月20日 10時22分49秒 | 
 今年も残り少なくなりました。気持ちのいい青天です。低温に耐えるベランダの植物たちは「強い」ですね。気温が下がるこれからの時期は人間には辛い季節です。高齢者が迎える冬は死と隣り合わせなのかもしれない。冬になると力尽きる人も多い。地球が僅か23.4度傾いていることが、冬期には太陽高度を大きく下げることになる。低くい角度から斜めにさす日光は弱い、薄い。人間には過酷な環境となる。
 福島第一原発では溶融した燃料棒がどのようになっているのかまったくわからないままにただ延々と水をかけている状態が続いている。高濃度の放射能に汚染された水がこれから先地中深く垂れ流され続けていく。ひとたび水を止めればたちまち大爆発してしまうという、こんな恐ろしいモノが人間のコントロールの外にあるのに人々は無知なのかバカなのかもう関心を失いつつある。
 これから原発を造り続けてきた自民党政権が順次再稼働を進めていくという。次に事故が起きたときはもう日本は「ない」。その覚悟がこの国民にはあるということなのか。活断層の真上に原発を造り、政治的判断で「活断層ではない」とする国である。3.11のとき政府は東日本の壊滅を覚悟したという。東北の人々の死を覚悟したという。それほどのことであったのである。朝日新聞から「東電テレビ会議」の一部が出版された。わたしたちはこんなド素人の集団に原発を任せていたのかと思うとゾッとする。東大工学部大学院を出たという全くのド素人であった。国民の命、人の命を軽視する、切り捨てることをこのド素人たちは平気でするのだということである。
 考えてみると、わたしたちは、専門家というレッテルを貼られた人間たちが、実は机上の学問だけで専門家として威張っているだけの「心」の小さい、「心」のない人間たちだということを知ってか知らずかあげてこの愚者たちに預けてしまって普段は知らんぷりしてきたのである。確かに医者がいなければ困る。弁護士も必要だ。技術者も必要だ。そういう人たちが専門家としてさまざまな国家の許可証をもって適切な判断を代替してくれると思っていた。しかし、実は多くの人が「なにかおかしい」と経験しているのではないか。大病院に入れたのにどうも治療がおかしいという経験はなかったであろうか。重病の患者を薄いパジャマ1枚で真冬に暖房の効かない廊下に放置していた病院があった。そのことが原因かどうかはわからないがその晩に患者は肺炎を起こして死んでしまった。あるいは、高齢の患者を感染症で死んだ患者のベットに移したらすぐ重篤な病変を起こしたという事例もあった。弁護士は勝てる訴訟も訴額が千万単位でもすぐ裁判官の勧めによって和解で終わらせようとする。実は大半の弁護士は信用できない。なにしろ原発訴訟でほとんどの裁判官たちが被告の国や電力会社のパンフに書かれたとおりのことを判決理由にして原告敗訴とやってきたのであるから何が専門家なのかさっぱりわからない。身近な例ではわたしは専門家と称する人間たちのド素人な判断というものをいくらでも体験してきた。わたしの住んでいる部屋の給湯器が故障したことがあった。最終的に原因を特定して解決するまでに何か月かかったことか。わたしは最初から「水が大量に漏れているのはおかしいのではないか」と云っていたけれど、それは関係ないと一蹴してきて、最後に今度は別の水道の技術者が水道の修理の必要性をいい、修理したことで、解決した。結局、給湯器そのものの故障はなかったのである。専門家というのは確かに原因がわかっていればそのための技術は優れている。素人よりも比較にならないほどうまい人がいる。中には不器用な技術者もかなりいたけれど。が、問題は、その技術を使う前の段階の「判断」である。ここでははっきりとド素人と見た方がいい。医者の判断からしても患者の家族が「その判断はおかしい」と思っていることがあたっていることがよくある。よく弁護士がテレビなどで下らない人生相談で意見を述べていることがあるが、彼らは法律の専門家である。人生についての専門家ではない。特に順風満帆で人生の辛酸をなめたこともない若い弁護士や医師がその肩書きで人生相談、判断をやっているのは片腹痛い。かれらは人生ではド素人なのである。法律だってその前提となる判断を誤れば負けである。専門知識と判断は別である。
 福島第一原発の専門家・技術者集団が、判断を迫られたときやっていたことは、そのへんのおじさん、おばさんのやっていることと大差なかった。「コンビニに行ってコンセント買ってこい」だからなにをやっているのか。ふざけるのもいい加減にしてほしい。買ってきたコンセントが「合わない」といって為す術もないというのであるからなんともあきれるばかりである。東大工学部っていったい何なんですか。
 教育の専門家というのもおかしいのがいっぱいいる。まず教育というのは理系とちがう。つまり、原因と対策(技術)で原因というのは特定などできない。百家争鳴状態である。原因の確定が難しいから判断も種々である。対策(技術)のところですぐれていることを謳う予備校や大手進学塾も多いが、そして確かにすぐれているとは思うことも多々あるが、これらの予備校においても、原因、そして「判断」についてはド素人であることは間違いない。
 必要なのは「判断」の専門家である。ところが、世の専門家というのは、決して「判断」の専門家ではない。知識の専門家であり、判断はド素人である。だからここを見誤ってはならない。専門家というものが決して正しい判断をできるものではないということである。かれらは判断においてはそこらのド素人と変わらないということである。
 もちろん専門家の中にもすぐれた判断を示される人もいるという前提で話している。そして素人と云われる人たちの中には専門家と云われる人たち以上にすぐれた判断をする人がいるということも前提している。ところが、世の中の人たちというのは、専門家の判断は信じるが素人の判断は信じない。「専門家の云うことだから」と白旗を揚げて従うのである。福島第一原発の専門家の判断を見れば愚かな判断であることが自明であるのに。
 さてこうして大切なのは「判断」であることがわかります。人はそのときどきに、いや毎日のようになんらかの判断を迫られている。そういう判断について考えることが必要なのだということです。3.11の津波のとき、逃げた人と逃げなかった人の判断の差が生死を分けた。人は「想定外」の判断を「打ち消す」判断をする。そのまま動かないという判断を圧倒的多数の人がする。周りの人の判断を真似する。自己の判断が「ない」、「持たない」のである。そういう人たちが世の人たちなのである。真似なんかしてられない。
 上田秀人の時代小説に語られる。
 「人を救うというのは、むつかしいことでござる。金を撒けばいい、食いものを施せばすむというものではありませぬ。金や物を与えるのはもっとも簡単でございますが、それこそ悪手。人は弱い。一度の施しが、いつでももらえると思い込み己で努力することを止めてしまう。働かなくても、・・喰える。金がもらえる。そうなってしまえば、人は終わりでございまする。真の意味で人を救うというのは、心を助けること」
 これは悪人の僧に語らせているセリフであるが、内容は濃い。
 「働く」、「生きる」ということでもひとつの哲学が示されているが、教育の場面でもあたる。
 「もの」を買い与えるばかりの親は、子どもに「もの」を買い与えて歓心を買う親は、「心の弱い」子どもに育てる専門家である。
 「教える」というのも同じである。「教え与える」と知識を「もらう」、いつでももらえると思い込み「己で努力することを止めてしまう」。昨今は親も子も「もらう」意識である。だから学校の教師を教師とも思わない親子が増えている。そういう親から見れば教師も「もの」であり、取り替え可能なのである。
 「教える」のではない。「指導」するのである。「判断する」のは子どもである。最後に判断する余地は子どもに残しておかなければならない。なのに、塾の受験専門家かなにかは知らないが、最後のところまで平気で判断してやって、これを「教える」、「教え方がうまい」などと誤解しているバカ講師がうようよいる。子どもから判断する力を奪っておいてなにが専門家だ。子どもは場面場面で判断させなければ育たない。説明はする。事の理を説いてやる。しかし、最後に判断するのは子どもでなければならない。
 だから基本は放って置いてひとりでやらせるのである。判断させるのである。ただ判断の前提のところで迷っている子に助け船を出すのはかまわない。とはいっても判断とその前提がはっきりと区別できるわけではない。前提の中でも判断は連鎖的になされるからである。だから指導というのはある判断の前段階での認識をクリアーにしてやることである。そこで判断したら、また次の判断の前提で迷う、これが指導の本質ある。

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後記
 6日あたりからレジュメ制作を優先させてきた。それで時間をとられるブログは当分「書かない」と決めた。しかし、正直に云えば気分的に書く気分ではなかったということである。今日は久しぶりに書いてみた。わたしには「草枕」の読者像というものがどうもつかめない。多いときは一日に1500人以上の人が「草枕」を読まれている。竹の会の会員の親御さんが読者の大多数というわけではもちろんない。竹の会のOBやOBの親御さんも読まれることがあるのかもしれない。巷の塾の関係者も読んでいるかもしれない。そして学齢の子どもさんをもたれるお母さんやお父さんが読んでいるということもあるかもしれない。読者の反応が今ひとつわからないままにアクセス数だけは伸び続けている。
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