今は指導のない日は必ず都立中適性検査問題を見るのが習慣になってしまった。適性問題全国版と都立中の問題は質的に異なる。これは明確である。だから漫然と全国版をやることがそのまま都立中対策になるかといえば「否」なのであろう。ただ全国版をやることが適性対策にならないとまでは云えないことも確かである。全国の適性問題に通暁することが無益だとはとても云えないからである。
ただこれまで「ふつうの小学生」たちには全国版はあまりに重荷であったようである。ここで「ふつうの小学生」とはどの程度の小学生を言うのかがまた問題であるが、学校の授業で「ふつうに」割合を理解できないのが「ふつうの小学生」なのではないかと思っている。これまで竹の会にやってきたほとんどの小学生というものが割合を満足に理解しきれていなかったという事実において私はそう確信している。
一般的にみて全国版のほうが都立よりも易しいと思える。その易しい全国版さえも満足に答えられないのが「ふつうの小学生」ということである。
私はここで適性対策というものを新たな視点で見直す必要に迫られている。
竹の会では「割合」の理解を通して思考力を鍛えるということで小学生の「考える」力の開花することを待つ指導が長くとられてきた。が、もちろんそれだけでは適性には対応できるわけはない。さらには持って生まれた知能がなければ、指導によって思考を開花させるといっても限界があるということである。
問題はそうした知能を備えるにしても適性問題は容易ではないことにある。読み違い、読み誤り、読み取りそのものができないなど子どもたちが適性問題で見せる未熟で幼稚な対応はいつも失望の対象であった。
私は最近思考力そのものとは別に子どもたちを適性の「或くせ」に即して訓練するのが実は合理的な方法なのではないかとの疑念を持ち続けてきた。都立特有の「くせ」に即してその「くせ」に即した練習をまるでドリルを解くように何回も訓練しておくなどという指導法がこれまでのような失望しかもたらさない方法よりはいいのではないか。
ところで、都立の問題を見ると、すぐにわかるのは都立適性特有の共通した問い口である。
私はその問い口に思考というものの本質を見る気がする。
私たちが問題を読んで思考するというとき、私たちは実は「比較する」ことしかやっていないのではないか。いや実は「比較する」ことこそ思考するということの本質なのではないか。人間というものは、2つのものを比較するときにおいてこそ最も思考をはたらかせることができるのではないか。これには2つの裏読みがある。1つはまず1つのものを本物かどうか考えるのは不可能であるという前提である。私たちは2つのものを比べて、あるいはほんものと偽物を比べて初めて本物のよさを知る。2つは3つ以上のものを「比較する」のは苦手ということである。比較は2つに限るのである。3つ以上の比較は視点が定まらず、気が散るだけである。
「思考する」とは「比較する」ことである。
読解問題について。読解文というのは、「言い換え」の文である。したがって、読解するとは、言い換えが、何を何に言い換えたかを理解する思考のはたらきである。「言い換え」を理解するとき、原文と言い換えられた文との「比較」をする。だから思考とは比較である。
適性問題によく出る「特徴を答えよ」は、「比較する」ことから当然に見えてくる結果のことである。
現在子どもたちを指導するのに制作・実践している「竹の会入会テスト」レジュメは、次第に難しくなり、もはや「入会テスト」としては使えなくなってきた。実はこのシリーズが今私が思い続けている疑念を具体化する都立適性対策のための試作品であることはだれも知らない。
※次回テーマ「前提を問え」
ただこれまで「ふつうの小学生」たちには全国版はあまりに重荷であったようである。ここで「ふつうの小学生」とはどの程度の小学生を言うのかがまた問題であるが、学校の授業で「ふつうに」割合を理解できないのが「ふつうの小学生」なのではないかと思っている。これまで竹の会にやってきたほとんどの小学生というものが割合を満足に理解しきれていなかったという事実において私はそう確信している。
一般的にみて全国版のほうが都立よりも易しいと思える。その易しい全国版さえも満足に答えられないのが「ふつうの小学生」ということである。
私はここで適性対策というものを新たな視点で見直す必要に迫られている。
竹の会では「割合」の理解を通して思考力を鍛えるということで小学生の「考える」力の開花することを待つ指導が長くとられてきた。が、もちろんそれだけでは適性には対応できるわけはない。さらには持って生まれた知能がなければ、指導によって思考を開花させるといっても限界があるということである。
問題はそうした知能を備えるにしても適性問題は容易ではないことにある。読み違い、読み誤り、読み取りそのものができないなど子どもたちが適性問題で見せる未熟で幼稚な対応はいつも失望の対象であった。
私は最近思考力そのものとは別に子どもたちを適性の「或くせ」に即して訓練するのが実は合理的な方法なのではないかとの疑念を持ち続けてきた。都立特有の「くせ」に即してその「くせ」に即した練習をまるでドリルを解くように何回も訓練しておくなどという指導法がこれまでのような失望しかもたらさない方法よりはいいのではないか。
ところで、都立の問題を見ると、すぐにわかるのは都立適性特有の共通した問い口である。
私はその問い口に思考というものの本質を見る気がする。
私たちが問題を読んで思考するというとき、私たちは実は「比較する」ことしかやっていないのではないか。いや実は「比較する」ことこそ思考するということの本質なのではないか。人間というものは、2つのものを比較するときにおいてこそ最も思考をはたらかせることができるのではないか。これには2つの裏読みがある。1つはまず1つのものを本物かどうか考えるのは不可能であるという前提である。私たちは2つのものを比べて、あるいはほんものと偽物を比べて初めて本物のよさを知る。2つは3つ以上のものを「比較する」のは苦手ということである。比較は2つに限るのである。3つ以上の比較は視点が定まらず、気が散るだけである。
「思考する」とは「比較する」ことである。
読解問題について。読解文というのは、「言い換え」の文である。したがって、読解するとは、言い換えが、何を何に言い換えたかを理解する思考のはたらきである。「言い換え」を理解するとき、原文と言い換えられた文との「比較」をする。だから思考とは比較である。
適性問題によく出る「特徴を答えよ」は、「比較する」ことから当然に見えてくる結果のことである。
現在子どもたちを指導するのに制作・実践している「竹の会入会テスト」レジュメは、次第に難しくなり、もはや「入会テスト」としては使えなくなってきた。実はこのシリーズが今私が思い続けている疑念を具体化する都立適性対策のための試作品であることはだれも知らない。
※次回テーマ「前提を問え」