草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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勉強しない子はそれほどシンプルではない

2013年09月05日 21時38分28秒 | 
 どこやらの塾のチラシに「勉強嫌いが治った」というのが大きく喧伝されていた。それを可能にするのが学力向上サイクルというのだそうな。授業で講師がその子に合わせた演習問題を出題し、中に解けない問題もあえて入れるのだそうな、難しい問題に直面しても、物怖じせず自力で挑戦する。講師のヒントを頼りに懸命に努力し、一人で問題を解くことができたときの喜び、・・・そしてそれは自信に、さらに「やる気」へとつながっていくのだそうな。
 ちょっと待てよ。「勉強嫌いな」子が、なんで素直に「解けない問題」を物怖じせずに懸命に努力して問題を解き、喜びを知ることになるのだろうか。
 「勉強嫌い」なら家庭学習だってやりはしないだろう、ノートなんか汚い字でとればまだいい方で、「読んでまとめる」なんかまずやりっこないのではないか。
 そもそも「勉強嫌い」とひとくくりにできるほど単純ではない。実際の子どもたちというのはそれぞれに問題を抱えていて単純に「なにか」で解決できるほどバラ色の方法なんかない。
 例えば、能力的に低いために、勉強への関心が極端に薄いという子もいれば、能力はあっても努力が嫌いで英語を怠けてきたために「わからない」という子もいれば、部活にはまりすぎて勉強をろくすっぽしてこなかったために学力最低という子だっている。家庭環境もある。家庭での勉強の地位が低いと、子どものと意識も低調である。中には家庭的な問題で勉強しないとう子だっている。私立中に失敗して反抗的になり勉強しなくなったという子もいた。
 講師がなにかやったらやる気を出したなどというのは、いったいどういう場合を想定していっているのか。
 現実はリアルである。
 子どもが10人いたら10人みな反応が違う。簡単に「講師がその子に合わせた演習問題を出題し」などというが、「合わせた」はずが「合っていなかった」らどうなるのか。そもそもそう簡単に「合わせられる」ものなのか。
 大学の勉強に追われる学生講師だとそんな芸当ができるなんてとても想像できない。要するに「うそ」なのである。
 わたしはもう28年以上にわたってそれは様々な子どもというものを見てきたが、「勉強しない」子というのは、そんなに単純ではない。無気力であり、宿題なんかはまずやらないし、時には無意味に反抗的であり、約束は決して守らない、つまり意思が弱い、心がいつも揺れ動いている、プリントはよくなくすし、口約束はいつも空しい約束に終わる。家庭の事情なんか強く反映していたりする。つまり、塾の「教え方」だけで解決できるほど単純ではないということである。するとこの塾、そういう問題のない精神的にも安定していて、ただ問題が解けないで悩んでいる子だけのことをいかにも一般的にやる気を起こさせる方法でなんとかすると言っているのである。アホか。
 ところで、竹の会の子たちが「勉強しない」子たちかといえば、少なくとも塾に来ているときは、7時間みっちりと勉強していることは確かであるが、家庭学習となるとかなり差が出てきそうに思う。
 中にはいろいろと習い事やお稽古事をやっている子もいるやに思う。これも能力との兼ね合いで、能力のない子だとお稽古事なんかやっている余裕なんかないと思うこともある。いや能力があったって勉強のほかにピアノをやったり、珠算をやったりと勉強だけに専念しないのなら、それはそれでまた覚悟の上と思うほかない。失敗してもそれほど悲しむこともないはずであるが、勉強に専念した子の方が潔く切りかえがいいのに比べて、人一倍悔やみ嘆くのを見てきた。
 凡人があれこれやっていてものにできるほど甘くはないと言うことである。
 竹の会では、「勉強しない」子はまず入会できないしくみになっている。
 「勉強する意思」のある子だけが、くればいい。勉強しない子を矯正する教育はまた別のことである。そういうことにエネルギーを使うところもあるだろう。ただ竹の会はそういうところではない。件の塾は、そういう心の問題を塾のシステムでなんとかするといっているのだから、なんとも薄っぺらな塾であることか。
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