いやそんな解決策なんか絶対にないのではないか。不可能ということばが浮かぶ。表題にあるはのは、今人気の半沢直樹の中に出てくる近藤のセリフである。
今毎日2~3題はナンプレを解く。レベルは「超難問」である。前はよく途中でわからずに放り出してはまた考えるということを何日かやっていたが、アンドロメダ130問を解いたあたりから、1問30~40分で解けることが多くなった。ナンプレをやっているとよく不可能じゃないかと思うことがある。今気に入って解いているシリーズは、「世の中には仮定法で解かなければ解けない悪問があふれているが、この本は必ず理詰めで解けるもののみである」と言った主旨のことが書かれてあったので、信頼してしまったシリーズである。
小説さ最後に「ふれ腐れているだけ時間の無駄だ。・・どこかに解決策はあるはずだ」で結んでいる。
「わからない」と言ってふて腐れる子というのは昔はたまにいた。「わからない」のは、教え方が悪いからだと必ず他人のせいにする親子もいた。
わたしは「わからない」と思うとき、何日も解決策を探すときと、一瞬で「諦める」ときがある。後者はわたしには「捨てる」、つまり解決する価値もない問題であり、別段窮地にはなかったともいえる。
ナンプレというのは、「諦めないで最後まで考え続ける」ことの意義を教えてくれる、最高の教訓書と思う。
ナンプレの醍醐味がわかるのは、やはり「超難問」を理詰めで解くときなのではないか。数を縦横にスライドさせるだけで解けるレベルのものは正直面白くないし、思考訓練にはなってはいまい。
わたしは竹の会の子どもたちにはナンプレをやれとことあるごとに言っている。物事を単純に一面でしか、狭い視野でしか見れない子どもたち、窮地にあるとすぐ「わからない」と言って、そこそこにしか考えない子どもたちのありようを憂えてのことである。
やはり今年の小6は「解けない」という危惧が現実になってきた。すぐに「わかりません」といってもってくる子たちには真の思考力というものは決してつかない。
「わからない」、つまり窮地にあってもあきらめないで覚悟してどこまでも考える子というのが「強い」のである。
ナンプレをやっていて「わかりません。教えてください」では、意味がないことはわかるでしょ。ナンプレは答えを知るのが目的ではない。答えはどうでもいいのである。答えを見つける過程、そこに価値がある。
極端なことを言えば、「わからない」、それならそれで「終わりだよ」ということである。
答えを聞いて平気で「先生、次のレジュメをください」などと言う。いったいあなたはいつ自分で解くの?と言いたくなる。問題を見ては「わかりません」、解説を読んで「わかりました」、それで「次のをください」で、なにかいいことあるのか。
ナンプレの答えを知ることほど無意味なことはない。答えに価値はない。過程だ、解く過程にこそ意味がある。
「わからないなら」、窮地にあるのならなんとかして答えを探し出せ、簡単にあきらめるな、簡単に浅読みして「わかりません」というのなら、問題なんかやる意味はない。
わたしはわからなければ一日中考えている。中学のとき、鉄橋を渡る列車の問題がどうしても分からずに何日も考えたことがあった。別に机について考えているわけではない。日常のいろんな場面でなにかにつけて考えるのである。
小6に入試読解という読解問題をやったら全くできない。相変わらずわたしの作った解説を読んで「わかった」をやるだけである。
何が問題何のか、よく考えてほしい。
簡単にあきらめるな、どこまでも解決策を探してみろ、というのが、一番の特効薬である。
よく「できない」ということで相談されることがあるが、「できない」に解決策なんか「ない」。
「できない」から「なんとかしてくれ」ではなくて、「できない」のならとことん考えよということなのではないか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/34/a2400d1c8b4f85ed8622242abb90d804.jpg)
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今毎日2~3題はナンプレを解く。レベルは「超難問」である。前はよく途中でわからずに放り出してはまた考えるということを何日かやっていたが、アンドロメダ130問を解いたあたりから、1問30~40分で解けることが多くなった。ナンプレをやっているとよく不可能じゃないかと思うことがある。今気に入って解いているシリーズは、「世の中には仮定法で解かなければ解けない悪問があふれているが、この本は必ず理詰めで解けるもののみである」と言った主旨のことが書かれてあったので、信頼してしまったシリーズである。
小説さ最後に「ふれ腐れているだけ時間の無駄だ。・・どこかに解決策はあるはずだ」で結んでいる。
「わからない」と言ってふて腐れる子というのは昔はたまにいた。「わからない」のは、教え方が悪いからだと必ず他人のせいにする親子もいた。
わたしは「わからない」と思うとき、何日も解決策を探すときと、一瞬で「諦める」ときがある。後者はわたしには「捨てる」、つまり解決する価値もない問題であり、別段窮地にはなかったともいえる。
ナンプレというのは、「諦めないで最後まで考え続ける」ことの意義を教えてくれる、最高の教訓書と思う。
ナンプレの醍醐味がわかるのは、やはり「超難問」を理詰めで解くときなのではないか。数を縦横にスライドさせるだけで解けるレベルのものは正直面白くないし、思考訓練にはなってはいまい。
わたしは竹の会の子どもたちにはナンプレをやれとことあるごとに言っている。物事を単純に一面でしか、狭い視野でしか見れない子どもたち、窮地にあるとすぐ「わからない」と言って、そこそこにしか考えない子どもたちのありようを憂えてのことである。
やはり今年の小6は「解けない」という危惧が現実になってきた。すぐに「わかりません」といってもってくる子たちには真の思考力というものは決してつかない。
「わからない」、つまり窮地にあってもあきらめないで覚悟してどこまでも考える子というのが「強い」のである。
ナンプレをやっていて「わかりません。教えてください」では、意味がないことはわかるでしょ。ナンプレは答えを知るのが目的ではない。答えはどうでもいいのである。答えを見つける過程、そこに価値がある。
極端なことを言えば、「わからない」、それならそれで「終わりだよ」ということである。
答えを聞いて平気で「先生、次のレジュメをください」などと言う。いったいあなたはいつ自分で解くの?と言いたくなる。問題を見ては「わかりません」、解説を読んで「わかりました」、それで「次のをください」で、なにかいいことあるのか。
ナンプレの答えを知ることほど無意味なことはない。答えに価値はない。過程だ、解く過程にこそ意味がある。
「わからないなら」、窮地にあるのならなんとかして答えを探し出せ、簡単にあきらめるな、簡単に浅読みして「わかりません」というのなら、問題なんかやる意味はない。
わたしはわからなければ一日中考えている。中学のとき、鉄橋を渡る列車の問題がどうしても分からずに何日も考えたことがあった。別に机について考えているわけではない。日常のいろんな場面でなにかにつけて考えるのである。
小6に入試読解という読解問題をやったら全くできない。相変わらずわたしの作った解説を読んで「わかった」をやるだけである。
何が問題何のか、よく考えてほしい。
簡単にあきらめるな、どこまでも解決策を探してみろ、というのが、一番の特効薬である。
よく「できない」ということで相談されることがあるが、「できない」に解決策なんか「ない」。
「できない」から「なんとかしてくれ」ではなくて、「できない」のならとことん考えよということなのではないか。
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