草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

11月で課題レジュメの配付を終了します!

2015年10月21日 08時28分06秒 | 
 おはようございます。10月下旬に突入し、一気に10月も終わりそうです。本日は10月第6回目の指導日です。
 次第に気温が下がりつつあります。本日はそれでも16℃でした。風邪が気になる季節に入りました。小6のみなさんは学校はもちろんそろそろ塾でもマスクが必要でしょう。
 力をためる勉強ができるのは、11月までです。 12月、1月はこれまでひたすらやってきたことの繰り返し、解き直しに専念します。
 中には、わたしの指示をほとんど聞き流して課題レジュメを先延ばし、先送りしてきた子たちもいましたが、もうやれるのはあと1か月あまりです。
 レジュメをやりきることは実は大変なことだということがわかったことと思います。 何に代えてもレジュメを優先させる生活をしてこなければできないことだからです。
 模試でいい成績がとれなくても嘆くにはあたりません。落ち込む理由もないはずです。だって指示どおりにやってはこなかったのですから。
 よく本番の掲示板の前で番号がなくて泣く子がいますけど「あなたはそれほどなにものにも代えて勉強にのみ専念したきたのですか」と訊きたくなります。それなら泣いてもいいでしょう。
 竹の会で成功するには、わたしの指示を決して聞き流さないことです。わたしは特に力を込めて指示の言葉を言うわけではありません。いつも静かに一言「理科社会を始めなさい。中3になる前に終わらせなさい」と言うだけです。わたしの言葉を受けてそれを実行するのはあなたたちです。わたしの言葉を真摯にとらえて胸に秘めて黙々と努力する子、そういう子が成功する、それだけのことです。
 実行する子が受かる。それだけのことです。やらない子が受かるということはありません。そういう奇跡は起こらないのです。
 特に、大手に子どもを通わせる親たちというのは、今の時期は、都立にしても、私立にしても、自分の子どもの「伸びない」「力がつかない」ことに焦りを感じ、しだいに奇跡が本番当日に起きると真剣に考えるようになる。なぜか自分たちの選択した大手は疑うこともない。大勢が通うことで組織を疑うことはなく、できないのはすべて自己責任とあっさり認めている。
 この時期に大手の子たちは伸びない理由がわからない、ないしわかっていない。 授業を「受ける」、わかりやすく「教えてもらう」、説明を「受ける」などの受け身の脳を作り上げてきたことの失敗に最後まで気づかないのです。「考える」時間を十分にとることもなく夏も「習う」、与えられる課題を結局「習う」ということをやってきたつけです。
 特に、都立中受検の子には、計算力が全く「ない」、割合をあいまいに型でしか理解していない、だから思考力が浅い、そういう子がたくさんいます。大手などは基礎はいい加減なままに応用ばかりやらせている。単位あたり量も割合も満足に理解していない子に何を教えようというのでしょうか。
 いや小学生の間に身につけておかなければならないことがある。
 勉強するスタンスです。机について3時間でも4時間でも勉強する、考える習性というものは小学のときに身につけておかなければならない。
 それから素養です。計算の素養、割合の素養といったものをきちんと理解し身につけておかねばならない。
 私立中ねらいで大手塾に通う子たちはもちろん割合なんかはやっているわけです。しかし、ほどほどの能力はあるのにある一定のレベルの問題までしか解けない子というのがたくさんいます。それ以上は上へいけないのです。割合を型で理解し、型に応じて解き方を覚える、という勉強をするのが大手の子の特徴です。ですから、型から外れた問題、見たこともない問題に出会うと突然フリーズします。これが伸びの限界です。型のはまった問題だと解くのがもうメチャクチャに速いのも特徴です。大手失敗型の子たちは大手の80%を占めるはずです。こういう型思考の人間は公立中に行っても伸びないものです。
 受検しないから、塾には行っていないという子もそれなりにいるかと思います。その中には学校では「よくできる」という子もいるでしょう。
 しかし、こういう子たちも訓練されていないということが致命的になる。
 計算はやりかたを知っているだけでは使いものにならない。割合に到っては真に理解している子などほとんどいないと見ていい。
 少なくとも竹の会のような指導をしている塾で訓練してこなければ絶望的と言える。
 塾ならどこでも同じということはまずない。お仕着せのテキストを目次にしたがって進める塾などお話にならない。
 わからない問題をわかりやすく説明してくれる塾など百害あって一利なしだ。
 個別指導とか個人指導か知らないが、いや家庭教師は場合によっては最悪で、こういう過保護、過干渉型のかまってやる、教えてやる偽指導を何年もやっていたら、りっぱなバカ息子、バカ娘ができあがるのは目に見えている。小学生の間から「かまってやる」、素養を身につけさせるということで様々な習い事や稽古事をやらせる親が多いけれど、それが大人になって社会に出てどれだけのものかということである。一人の子どもをじっくりと考える思考型、勉強と向き合う人間に仕上げていく、それは生半可のことではできない。孟母三遷の精神がなければできない。勉強は捨ててゴルフだけ、野球だけ、スケートだけ、そういう人生を親が仕込むのはいいでしょ。 成功する確率はほとんどないけれど。しかし、ほとんどが普通の人なのだから、才人ではないのだから、なんでもかんでも素養をつけてやるというのはどだい無理な話でしょ。勉強とはあまりにも深淵で奥深い。そういうものを「ながら」でやれるはずがない。自分の生活のすべてを捧げなければ、それでもだめかもしれない。
 勉強には適当にしか取り合ってこなかったのに、できないからといっていちいち落ち込んでほしくない。 ちょっとの努力でできないからと落ち込むほど勉強というのは簡単ものではない。勉強を舐めているから落ち込むのだ。ほんとうに勉強し始めたら、いくら勉強してもいくら勉強しても届かない、それほど勉強は深い。
 だが、試験は不完全な人間というものが作ったものにすぎない。もちろん真剣にそればかりに心をとらわれなければ成功しないかもしれない、けれど試験は試験である。不備に満ちた人間の作った制度である。きちんと実行していけば成功するようにできている。
 竹の会では12月からは、課題というものはない。しかし、指導日には指導レジュメはやる。しかし、8月までに実は結果は出ている。わたしが何気なく、「やりなさい」ということを軽く流さないことである。
 勉強は実行と表裏である。わたしの指示を受け流してきた子たちはその重大性に気づくこともなく、またこれからも指示を流していくことであろう。
 来年の2月9日がもうすぐそこに迫っている。

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