草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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 合格で証明

2008年04月22日 09時07分54秒 | 
 世の中が「できる」子ども・「わかる」子供だけであるならば苦労はしない。といっても森羅万象の中に無垢な子どもを放り出すのだから, 「わかる」ということのほうが異常だ。だからここではそういう条件の中で「わかる」ということが比較的すんなりとできる子どもたちを「できる」子どもというだけのことである。子どもの能力は生まれながらにしてこの能力に差がある。これはいたしかたないことである。実は大半の子どもたちはこの「わかる」という能力はそれほどすぐれているわけではないと思う。「大半の」というが, 直感を恐れずにいうならば, 9割近くではないか。もちろんその9割の子どもの能力段階も千差万別だ。そして全体の数%だと思うがおよそ理解ということが不能と思われる子どもがいることも認めざるを得ない。塾というのは特に竹の会のような小塾では実はこういう残りの9割の子どもたちを相手にしているというのが現実なのである。1割の天才は大手に集まる。そしてこのもともと「できる」子どもを指導して合格させるのは実は楽な仕事なのである。大手が自慢するのは大手のノウハウがいいとか, いい講師がいるとか, 合格実績がいいとかそんなところであると思うが, 実は別に大手のおかげて受かったのでもなんでもないということだ。もともと能力の高い子が自分の力で受かったにすぎないということである。私はかつて筑波大駒場の中学生を指導したことがある。その子は開成・ラサール・慶応とすべてに合格した子だ。ラサールや開成などは通っていた大手が宿泊代から交通費までだして頼まれて受けたというものだ。大手は優秀な子どもに合格実績を作るためにそういうことをやる。だから1人があちらこちらに合格しそれをのべで合格何人などとやるわけだ。それはともかくとしてその子は数学などは中1ですでに高校の確率を理解して高校の問題を解いた。難点は英語でこれは苦手だったが。こういう子どもたちを集めて世に「合格しました」と出すのならこれはなんとも馬鹿げた話ではないか。またこれに飛びつく親も親である。
 私が早稲田に受からせた子は大手で全体の真ん中くらいの子だった。その大手では落ちこぼれかもしれない。しかし, 私にしてみれば得難い逸材に思えた。これほど私からみればできると思える子が大手では「できない」に分類されるのである。トップクラスの子たちがどれほど能力が高いのかと驚くばかりである。私の塾に集まるのはなにやらの問題をかかえた子たちばかりである。それが普通の状態なのである。大手で「できる」子どもが「あたりまえ」として通過するところで「わからない」で悩む子ばかりである。大手は「あたりまえ」として教えたりしないことですむ子が集まっている。もちろん大手の巧みな宣伝に「できない」子たちが群がっているのも知っている。彼らは大手の営業を支える協力者としてうまい具合に取り込まれた失敗予備軍である。話はもどるが, この「あたりまえ」としてできる子がすますところで, 実は9割の子どもがつまずく。指導とはこういうレベルにある子を開花させることだろう。これなら「合格させました」と胸を張ってもいい。言い方は悪いが「できる奴ばかりを集めて大手は胸を張る。できる奴・わかる奴を教えるのなら苦労はしない。竹の会はその他大勢に教えられてきた。「わからない」そして「わからない」が様々な症状を訴える。子どもたちの悩みは「わからない」である。そしてこれは母親の悩みである。能力のある子どもには「あたりまえ」でもその他の多数の子どもたちには「むつかしくてきわまりない」ことなのである。そういうことと日常的に接してきたのが私の仕事なのである。
 どこに「あたりまえ」の線を引くのか。「あたりまえ」としてカットしてレベルの高いことだけを教えるというのは楽かもしれない。大手がそうだ。しかし, これは教えられる側の能力にほとんど依存したものだ。指導の技術とか工夫というのはほとんど要らない。理解の進度に従って普通に問題を「与える」だけでどんどん伸びていく。これで指導者の側が指導の仕方がよかったなど威張れるものは何もない。世の中にはこれを誤解した講師がたくさんいる。大手で教えてきたなどと吹聴して宣伝する。しかし, 優秀な奴を教えてきただけなのならそんな講師は役に立たない。東大でました, 慶応でましたの講師が何になるのか。たしかに当の自分たちは「できる」のだろう。だが「できる」先生に教わる子どもたちは, そのできる先生が「あたりまえ」として悩みもしなかったことに「悩む」子たちばかりなのである。アルバイト講師で1年2年やったところで彼らに何が教えられるというのか。かれらにできるのはもともと「できる」奴に難しい問題を説明することだけである。これは受験を乗り越えてきた彼らには得意なことなのだから。しかし, 指導というのは長年やればやるほど奥深いものである。指導の対象は世の中の「できる」奴が「あたりまえ」とするところを「あたりまえ」にできない子たちを対象にして初めて真価を発揮するものである。大半の子どもたちは大手が必死に集めたがっている一部の天才が「あたりまえ」とするところで躓(つまず)いている。私はここのところで研究をせざるを得なかったのだ。なにもかもが「説明しなくても」わかる人間に指導は必要ない。そういう子は放っておいても結局上に立つ。
 竹の会の日常は「あたりまえ」のことをどう説くかで充ち溢れている。大手の難解なテキストや宿題とはかけはなれている。これを見て「はー, こんなものをやっているの」と簡単に「すべてわかった」というような顔をして結局大手に行く親たちをこれまで何度も見てきた。竹の会でやる天声人語をプリントにしたものを見て「これなら家で新聞を読ませればいいではないか」「わざわざ塾にやることもない」と思ったかどうか。割合を教えるのに様々に格闘しているプリントを見て「竹の会のことがなにもかもわかった」ような顔をして安心して大手に行くのであろうか。竹の会が「あたりまえ」のことをどう説明するかで腐心しているということはわかってもらえまい。「あたりまえ」のことをわからないという子たちが多数派なのにこの「あたりまえ」のことを真剣に説く竹の会は「なんだ」と不審がられるのである。指導とは奥深いものである。子どもが千差万別なら指導もそれに応じて千差万別の様相を呈する。その一断面をとらえて「竹の会のすべてがわかった」などというような顔をしてもらいたくない。よく大手がやる体験学習というのが「ないのか」という問い合わせがある。いきなりやってきた子にその子の能力も未知数なのにいったい何をやれというのか。いきなりきた子に指導などできっこない。その子の能力段階を把握するのにどれほどの期間を要することか。はじめてその子のためになる指導の処方箋を書けるのはずっと先のことだ。体験の意味はむなしくも何もない。だからきっぱりと断る。大手は与えたテキストが「わからない」とこれが合格レベルに達するためのテキストだという前提のもとにそのテキストを「わかる」ための「努力をせよ」と押しつける。しかし, 竹の会では, 仮にテキストを使うことがあっても, そのテキストが「わからない」というのであればそこで指導する側がそのテキストを疑い別の指導を考える。これができなければだめだといって押しつけることはしない。大手に通う子どもは大手から与えられたテキストは絶対理解しなければならないものとしてそのために別の塾をかけもちしたり, 家庭教師を頼んだり, 個人指導塾にいったりと大手の要求にまるで奴隷のようにしたがう。悪いのはすべて子どもたちという前提である。大手は指導なんかしていない。合格に必要だというハイレベルのテキストを「理解しろ」と高圧的に押しつけるだけだ。その子どもにとってそのテキストが無理だなどとはまるで頭にない。合格するためにはこれ以外はないという態度だ。
 竹の会の指導が傍目に見て, 「あたりまえ」過ぎることをやっているように見えるのなら, そしてそれが家庭でもやれることだと思うのなら, 私には大成功である。多くの見学者たちに竹の会の指導が彼らの見た傍目に「なんだ」ととられても, 竹の会には関係のないことだ。私の指導の証明は合格でする。小塾の竹の会がその指導の証明をするには合格で証明するしかない。「あたりまえ」で悩む子どもたちを「合格」させる。これは竹の会がずっとやってきたことだ。竹の会の合格実績はその戦跡でもある。


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