草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

自信家ほど失速し易い

2012年12月04日 11時24分50秒 | 
 今年の冬は大雪が降るかもしれない。昨日は外に出ると正直「冷たい」と思った。急に気温が下がると慣れるまでタイムラグがある。低温と乾燥は人間には最悪の環境に違いない。しかし、人間には類い希な順応力がある。人間の武器は人類の長い歴史の中で培った順応力と免疫力なのではないか。まだ原生林に覆われていた江戸時代の日本列島、その中で人々は今では簡単に治る細菌による風邪でもそれこそ多くの人々が死んだという。江戸時代の赤ちゃんの生存率は100人に1人と聞いたことがある。そういう時代を強かに生き抜いてきた私たちの先祖から伝えられた現代人の順応力や免疫力が弱いはずがないではないか。
 江戸の人口100万人に対して東京は1千万人ですから、細菌やウィルスの伝播可能性はその比ではない。江戸の頃とは比較にならないほどの温かい服を身につけ、暖房の効いた家に恵まれてもいる現代人の自然環境への順応力が弱まるのは当然か。同時に免疫力も失われていく。抗生物質と延命医療が生きながらえさせてくれてもそれが幸せなことなのか私にはわからない。ただ人間の生命力は確実に劣化しつつある。医療と薬が人間から本来の生命力を奪っていく。
 鈴木英治の時代小説の中にこんな一節があった。
 ;(以下引用)如才ないから物覚えは相当よい。だが、そのために、このくらいでよかろう、と物事を甘く見るところがある。適当にやって、わかったような気になってしまうのだ。対して不器用な者は、最初はなかなかうまくいかない。物覚えも悪く、落ちこむことが多いが、あきらめずにがんばっていると、不意に要領がつかめることがある。がんばって得たものだけに、不器用な者はその要領を決して忘れない。(以上引用)
 鈴木英治の想定しているのは、職人や剣術のようですが、宮大工の故西岡常一さんも同じようなことを言っていました。
 これが勉強となるとそのまま「あたる」とも言いにくいのですが、「あたっている」ところもあります。「如才ないから物覚えは相当よい。だが、そのために、このくらいでよかろう、と物事を甘く見るところがある。適当にやって、わかったような気になってしまう」というのは、頭のいい子にはよくあることです。「小石川に行きたい」という子たちを何人か見てきましたが、いろんな意味で自信家が多い、プライドが高い、自尊心が強い子ばかりでした。中には、割合もろくすっぽ理解もしていないのに憧れだけで言っているのではないかという子もいたように思います。そういう子というのはたいてい小6になって中途から突然言い出すという子がほとんどなんです。できる子でも「このくらいでよかろう、と物事を甘く見るところがある」子が多い。努力を加減するわけです。真剣に小石川をめざしてがんばっている子たちがいる中で、加減するわけですから、その落差はかなりのものです。早晩その較差は確定的なもの、もはや逆転できないほどに強固な差となって立ち現れることになるであろうことはあまりにも明らかなことなのです。
 自信家というのは「見通しが甘い」分、挫折する蓋然性が非常に強いと言えます。
 鈴木英治のいう「不器用な者」というのは、勉強ではなんとも言えない気がします。表現は悪いですが、「頭のいい悪い」というのは、確かにあります。俗に言う「のみ込み」が悪いというのは、のみ込めば「できる」というつもりで親は言うのでしょうが、そういう子は自分の頭で解決することができないのですから、伸びていくかというと否定的です。
 小学生だともう残酷なほどに知能の差というのはあります。小3にわかって小6でもわからないということはよくありうることです。
 特に、算数というのは能力差というのが出ます。これはもう方法とか要領とか「こつ」とかなんかではない。しかし、親というのは自分の子の能力は問題ないのだけれど、要領が悪いので、やりかたさえ教えてあげればできるようになると思って疑わないものですからますます深刻になる。
 現実問題として、いろんな塾を短期間に転々としている親子が夥しい数いるはずである。どこに行ってもできるようにはならない。大手でだめなので今度は個人塾に行ってみるが、そこもすぐ止めて、今度は個別指導、個人指導そして家庭教師もやってみる、それでもよくならないということで途方にくれるという親子がたくさんいるのではなかろうか。
 これはもうお気の毒としか言いようがない。塾云々以前の問題ということに気がつかないのか、気がつきたくないのか。
 こういう子が救われるかどうかはその子の資質次第である。静かに言われたことを黙々とやれるほどの集中力という資質を持ち合わせた子なら望みはある。さらに向上心のある子ならさらにいい。しかし、たいていは、すぐに飽きっぽく他のことに気をとられるというのがほとんどではないかと思います。
 わたしも竹の会では、その辺のところで決めています。
 
 
竹の会と中学生
 このへんのテーマについてももう何度か書いていますので、新しいことは実は何もないのかもしれませんが、最近の竹の会の中学生のことにからめて少しく触れてみたいと思います。
 まず中学から竹の会へ入るというのは普通は厳しいと思います。
 まず竹の会のシステムということがあります。これまで横並びの授業スタイルしか知らない生徒には竹の会の「指導」システムというものがなかなか馴染まないと思われるからです。
 次に、竹の会に入会するとして、その入会審査基準ではねられることになるのではないかと思います。
 竹の会では「勉強しない」中学生はまず資格がありません。家庭学習が3時間に満たない中学生では無理です。1、2時間は勉強したとは言いません。宿題をやるのは勉強ではありません。私立や国立の生徒はまず無理です。結局、公立中の生徒に限られることになります。その中で通知表でいえば、9科目4以上が最低の譲歩条件です。22年に都立富士の推薦に合格した女子は中2の4月の入会ですが、入会時9科中5は4、5個あったと記憶しています。中3の12月には5は7個までになっていました。平成13年に都立西に推薦合格した男子は5が8個でした。同じ年に都立国際に推薦合格した女子は、5が9個、つまりオール5でした。都立西や日比谷クラスの受験者はオール5が普通です。
 竹の会の中学生は伝統的に学年トップクラスをよく出してきました。実は現在いる中学生は3人なんですがそのうち、2人は学年1番、残り一人も2番から5番の間です。
 竹の会のレジュメをきちんとこなして家庭学習を十分にやる子であれば(もちろんもともとの知能も必要ですけど)、これまでたいていトップにまで上り詰めてきましたから。
 ところが、国立や私立の子というのは、竹の会に来てもレジュメは一切やらないで宿題ばかりやっています。それで成績がいいのかといえばむしろ中の下です。私立も国立も内進塾というのがあるらしいのです。これは例えば暁星小だと学校の近くに暁星小専門の内部進学のための塾があり、暁星小の子ならほとんどそこに行くということらしいのです。しかし、ほとんど全員行くというのなら、序列は学校の序列がそのままに維持されるだけのことではないかと思うのですが。つまりできるようにはならない。もともと頭のいい子ができることには変わりがないわけです。こういう学校に行っている人というのはどうしょうもない、ある層には落ちていくしかないスパイラルに巻き込まれてしまっている。もしこういう人が竹の会に来るのであればそれこそレジュメだけでみっちり鍛えるほうがいいに決まっていますが、赤信号をみんなで渡っている国立の親たちにはそれはできないわけです。そのまま赤信号を渡るしかない人たちです。
 今いる中学生というのは、小学生の4、5年生から竹の会に「いた」という子たちだけです。
 世間では部活を楽しみ勉強はほどほどにという中学生が溢れていますが、竹の会には無縁な人たちです。
 竹の会は勉強する中学生を応援します。
 
竹の会
 i-タウンページ
 
この記事についてブログを書く
« 「適性問題の型と答案のスタ... | トップ | 「竹の会にきて成績が上がり... »