草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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部活と参考書

2009年07月20日 08時50分46秒 | 
 中学時代の部活は柔道だった。今考えると, ひょろっとやせ細ったあの頃の私にはいかにも無理があっった。体格のいいものが強かった。「柔よく剛を制す」などということばにあこがれた。
 高校は県下の御三家といわれたところに合格した。合格するとすぐに高校の柔道部長から, 入部の誘いがきた。そしてこれが私の転落の始まりであった。中学時代はトップクラスにいた。高校で東大・京大・九大に進むには, 部活はタブーであった。私は「文武両道」という東京教育大出の体育教師の甘言にのってしまったのだ。しかし, 私の能力は柔道にしても勉学にしても中途半端なものだった。勉強だけに力を注いだとしてもどうなったかわからない。高校は入学すると春休み中に試験があり,
入学試験の成績とその試験の成績で, 能力別にクラスが編成された。私の成績は悪くはなかった。その証拠に新クラスでいきなり文化委員に任命された。これは最初は成績のいい者が指名されたからだ。毎日のように激しい練習で家に帰り着くのは夜7時過ぎだった。身体がくたくたで教科書を開かないままに眠り込む日々が続いた。毎日何時間も勉強する同級生との差は次第に開いていった。成績は急カーブで落ちていった。
 
 私が真に勉強に目覚め始めたのは, 高校3年のころ, 級友たちが大学受験で夢中のときだった。そのとき私は初めて心から, 京大にあこがれた。九州では, 東大・京大に次いで, 九大が絶対的に崇拝されていた。早慶などの私立は滑り止めくらいの感覚だったのだ。私の本当の意味の勉強はそのときから始まったのだと思う。

 高校のころ, 塾らしい塾はなく, 当時高校の数学教師が密かに自宅で教えていた私塾が話題になる程度であった。学校の授業は充実した教師陣で固められていた。物理はその先生の授業ノートだけで東大を受験できるといわれた。学校ではプリントと副読本が配られ, 教科書はまともに習った記憶がない。教科書程度なら自分で読んで理解しろということなのだ。大量のプリントが蓄積されていった。数学などは解けない問題ばかりだった。みんなどうしていたのか。必ず解いてくるのが何人かいた。後々わかったことであるが, 種本がなにやらの参考書(数学ならチャート式など)ということが一般だったのだ。東大に進んだある者は決して自宅の自分の部屋に訪ねてきた友だちを入れなかったという。その友だちがちらっと部屋の中を覗いたとき, 本棚に参考書がなんでもそろっていたということを聞いたことがある。そうなのだ。当時の先生は参考書だったのだ。参考書を必要なだけ買ってもらい, それをそろえて勉強の助けにするということができるだけの裕福さが東大や京大に行くための前提となる環境であったのだ。
 東大進学者の親たちが裕福な階級に属するということが, 最近の調査であきらかにされている。そういえば, 司法試験も資本試験といわれて久しい。お金がある者しか勉強に時間をかけられないということなのだ。
 今の中学生たちが, 部活で勉強をそれはつまりは人生を結局はだめにしているのではないかという思いは強い。高校のとき部活で潰れた私でも中学では勉強に専念した。多くの凡人にはスポーツと勉強の両立などできない。よく親たちが「スポーツと勉強を試験を両立させたい」と言うのを聞いてきた。しかし, 入試失敗という悲惨な現実はそういう親子を水面下に沈めてしまった。スポーツ優先の親子がスポーツ推薦で進学することを考えるようになったのもその現実を知った上でのことだろう。
 私は受験で参考書1冊主義をとった。1冊を何十回も繰り返しやった。だが, それと「わからないところを調べるための参考書」とは別の話だ。わからないとき教えてくれる参考書が欲しかった。それは私の進んだ高校が教科書を教えてくれないで, 応用問題のプリント授業中心だったことが大きい。教科書は予習して自分で理解しておくものだった。毎日毎日応用プリントが配られた。「徒然草」や「枕草子」が配られ,英文解釈の参考書が配られ, そして大量の宿題プリントが配られた。授業はいつも配られたプリントの答えを出席番号順にあてられた者が黒板に書き, 先生はそれをチェックするだけであった。生徒はみな必死でそれをノートに写し取るのである。それが授業であった。すべてがそうであった。勉強とは自己責任だった。
 部活と参考書, 私には重い取り合わせである。
 
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