草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

こころのかたち

2015年09月12日 17時41分29秒 | 
 こころはかたちがない。君はこころを見たことがあるだろうか。
 恐怖の心。たぶんわかると思う。
 悲しみのこころ。それは知っている。だって泣いているから。
 怒りの心。それも知っている。恐い顔、大きな声、・・
 苦しみの心。それもわかる気がする。苦悶の表情が教えてくれる。
 喜びの心。目はやさしく、口はほころぶ。
 悲しみの心はどんなかたちをしているのだろうか。
 恐怖の心はどんなかたちをしているのだろうか。
 悲しみのこころはどんなかたちをしているのだろうか。
 怒りの心は、どんなかたちをしているのだろうか。
 苦しみのこころはどういうかたちをしているのだろうか。
 喜びのこころはどういうかたちをしているのだろうか。
 こころは見えない。自分のこころも、他人のこころはなおさらみえない。
 
 かたちがないから一層かたちにこころを求めるとはいえないか。
 ものとは何だろうか。
 よく思う。ものはこころのかたちなのではないかと。
 ひとはこころのかたちをものにみているのではないか。

 犬を愛する人がいる。実は犬はそのひとのこころのかたちなのではないかと。
 京都の名刹。古寺に魅入る。仏像に心を奪われる。きっと荘厳な寺門、彫塑の躍動感・力強さは、そのときその一瞬のこころのかたちを見たということではないか。
 趣味のいいものを高いカネを出して買う人がいる。それはそのひとがそのものに自分のこころのかたちを見たのではないか。
 ひとはかたちがないからかたちにあてはめようとする。
 こころそのものにかたちはない。

 いいこころとはなにだろうか。
 電車で老人に席を譲るこころはいいころなのだろうか。
 大人は子どもたちにそう教えてきた。
 
 老人がいつも座ってばかりいたら足腰は弱っていかないだろうか、そこまで考えないのだろうか。
 手取り足取りの老人ホームではあっという間に老人は寝たきりになるときいたことがある。
 わたしたちはもういいかげんに自分のことばだけでこころのかたちを見てはどうであろうか。

 こころにはかたちがない。変幻自在なこころに自分の言葉でかたちを描いてはどうだろうか。
 ものなんかではないんだ。
 こころにかたちを与えるのはことばなんだ。
 ことばを大切に意味をしっかり理解して自分のことばで考えること。それがこころのかたちなのではないだろうか。
 だったら勉強しなけりゃーね、学ばなければね。
 いつか自分のこころを自分の言葉でかたちにしてほしい。

 あべ たけひこ

 
 
この記事についてブログを書く
« 都立中合格に求められるもの | トップ | 独自校正答率からわかること »