おはようございます。 秋らしい気配とは言いつつも強かな蒸し暑さというのはぬぐい去れない気候です。
鬼怒川氾濫というのは、想定されない災難だったのでしょうか。
江戸時代、治水というのは大きな問題であったと聞いております。国の政治というのは、治水のことであったとも聞きました。
堤防で弱いところがわかっていてもいくらでも工事を先延ばしする国、地方の行政の構造というのは、少しも変わっていないように思います。今度の決壊場所については、すでにこの部分が決壊したらどうなるか、というシュミレーションまでコンピューターで出されていた、そして実際の被害の範囲とそのシュミレーションの被害範囲とがほぼ一致していたということです。
起きるわけがない、と高をくくる様子は、福島の原発事故と同類です。使うべき所に予算は使われず、どうでもいい道路、ハコモノ、港、空港など無駄なことにばかり税金を注ぎ込む構造は少しも変わりません。制度と組織のみが肥大し、何のための組織か、制度か、本末転倒の愚行をまことしやかに、あるいは秘密裏に、強行する、それが今の世の中なのでしょう。
法曹界も、医学界も、学者社会も、あらゆる部分社会が、利権にまみれ、権力に癒着し、ねじ曲げられている状態、これがローマの衆愚政治の時代とどこがちがうのか。
社会のあらゆるところで病巣がほころびて、顕在化しています。司法試験の問題を教えるなどというモラルの欠片もない人間が、その部分社会では権力風を吹かせていたわけです。
利権にまみれた国立競技場のでっち上げ見積もりにはさすがの利権に巣くう害虫連中も世論の批判を躱すことはできなかった。しかし、根が腐っているからいくらでも利権狙いの代案をでっち上げてくる。まるで特殊法人が名前を変えて、中身は全く変わらないままに再生産される仕組みと同じではないか。
さて、水曜日の指導が台風18号の近畿通過で延びてしまいましたが、明日13日、中6日おいての指導日です。
竹の会のみなさんは、しっかりと家庭学習を進められたでしょうか。
しっかりと家庭学習のできる子が、実は「できる」子だということです。
都立中合格に何が求められているのか、考えてみました。
まず、文章を正確に、素直に「読み取る」能力が、求められていることは疑いないでしょう。
適性問題が「解けない」という小学生の多くは、このレベルですでに排除されています。
「問いにこたえていない」ということで0点に近い点を多くの受検生が取っているはずです。
適性問題というのは、長~い文章を読ませます。その文章というのは、おそらく小学生がこれまでに考えたこともない知識について、説明を与えながら、理解をしながら読み進むことを求め、最後のところで、漠然とした、曖昧な雰囲気を実に見事にカモフラージュし、問いをもってきます。受検生はここで、判断に迷うよにしかけられています。なんとか迷わせる。ここで、素直な子が、深読みしないですんなり意味を理解する。ちょっと気の利いた子だと穿った理解をして墓穴を掘る。
ちょっと迷う、意味がとれない、どちらともとれる、何を言っているのかわからない、そういう状況を実に見事に演出している。
そして、ある程度の算数の知識がなければ解けない仕組みです。
億単位の統計数字の割り算をさせて、四捨五入で答えを求める。ここでも計算ミスをなんとかさせようとする意図がが見える。
割合の意味をしっかりと理解しているかも、ちゃんと確かめている。
時には、中学受験の勉強をしていない、わからないような、ちょっとした知識が成否を分けることもある。
面積の問題はほとんど出ないのに、出たときは、それなりに難しい。
社会はもっぱら資料の読み取りだが、理科は判断力問題にしやすいのか、それなりに絡んだ問題が多い。
今年の桜修館では、適性問題ぽい問題を「傾向が変わった」と言い、わからず時間がなくなった、という子がいましたが、ちょっと待ってください。適性問題は、竹の会の「入会テストシリーズ」レジュメなんか、すべて適性問題で、十分やってきたでしょ。
問題はそういうところになかった。
問題点が、あるいは問題の意味が、読みとれずに、答えようがなかった、ということでしょ。
どんな難しい問題も、問いが明快である限り、件の天才少女は解いてきたわけです。
ところが、適性問題というのは、何が問題なのか、問いなのか、そもそも問題文が何を語っているのかさ、不分明なことが多い。それはそうでしょ。
適性問題というのは、そこのところを曖昧にして、小学生に機微を判断させる、というのが本質だからです。
だから、そこのところがもっとも訓練しておかなければならないところなのです。
明快な問いに答える、そういう能力は求められていない。
漠然とした曖昧な状況の中で、出題者の機微を捉えて、的確に何が問いであるかをつかみ、その問いに答えることのできる小学生が求められている。
漠然さと曖昧さの中にも必ず揺るぎない明確な一義的な何かが隠されている。それを機微としてとらえてつかみ得た者のみが適性ありということなのである。
鬼怒川氾濫というのは、想定されない災難だったのでしょうか。
江戸時代、治水というのは大きな問題であったと聞いております。国の政治というのは、治水のことであったとも聞きました。
堤防で弱いところがわかっていてもいくらでも工事を先延ばしする国、地方の行政の構造というのは、少しも変わっていないように思います。今度の決壊場所については、すでにこの部分が決壊したらどうなるか、というシュミレーションまでコンピューターで出されていた、そして実際の被害の範囲とそのシュミレーションの被害範囲とがほぼ一致していたということです。
起きるわけがない、と高をくくる様子は、福島の原発事故と同類です。使うべき所に予算は使われず、どうでもいい道路、ハコモノ、港、空港など無駄なことにばかり税金を注ぎ込む構造は少しも変わりません。制度と組織のみが肥大し、何のための組織か、制度か、本末転倒の愚行をまことしやかに、あるいは秘密裏に、強行する、それが今の世の中なのでしょう。
法曹界も、医学界も、学者社会も、あらゆる部分社会が、利権にまみれ、権力に癒着し、ねじ曲げられている状態、これがローマの衆愚政治の時代とどこがちがうのか。
社会のあらゆるところで病巣がほころびて、顕在化しています。司法試験の問題を教えるなどというモラルの欠片もない人間が、その部分社会では権力風を吹かせていたわけです。
利権にまみれた国立競技場のでっち上げ見積もりにはさすがの利権に巣くう害虫連中も世論の批判を躱すことはできなかった。しかし、根が腐っているからいくらでも利権狙いの代案をでっち上げてくる。まるで特殊法人が名前を変えて、中身は全く変わらないままに再生産される仕組みと同じではないか。
さて、水曜日の指導が台風18号の近畿通過で延びてしまいましたが、明日13日、中6日おいての指導日です。
竹の会のみなさんは、しっかりと家庭学習を進められたでしょうか。
しっかりと家庭学習のできる子が、実は「できる」子だということです。
都立中合格に何が求められているのか、考えてみました。
まず、文章を正確に、素直に「読み取る」能力が、求められていることは疑いないでしょう。
適性問題が「解けない」という小学生の多くは、このレベルですでに排除されています。
「問いにこたえていない」ということで0点に近い点を多くの受検生が取っているはずです。
適性問題というのは、長~い文章を読ませます。その文章というのは、おそらく小学生がこれまでに考えたこともない知識について、説明を与えながら、理解をしながら読み進むことを求め、最後のところで、漠然とした、曖昧な雰囲気を実に見事にカモフラージュし、問いをもってきます。受検生はここで、判断に迷うよにしかけられています。なんとか迷わせる。ここで、素直な子が、深読みしないですんなり意味を理解する。ちょっと気の利いた子だと穿った理解をして墓穴を掘る。
ちょっと迷う、意味がとれない、どちらともとれる、何を言っているのかわからない、そういう状況を実に見事に演出している。
そして、ある程度の算数の知識がなければ解けない仕組みです。
億単位の統計数字の割り算をさせて、四捨五入で答えを求める。ここでも計算ミスをなんとかさせようとする意図がが見える。
割合の意味をしっかりと理解しているかも、ちゃんと確かめている。
時には、中学受験の勉強をしていない、わからないような、ちょっとした知識が成否を分けることもある。
面積の問題はほとんど出ないのに、出たときは、それなりに難しい。
社会はもっぱら資料の読み取りだが、理科は判断力問題にしやすいのか、それなりに絡んだ問題が多い。
今年の桜修館では、適性問題ぽい問題を「傾向が変わった」と言い、わからず時間がなくなった、という子がいましたが、ちょっと待ってください。適性問題は、竹の会の「入会テストシリーズ」レジュメなんか、すべて適性問題で、十分やってきたでしょ。
問題はそういうところになかった。
問題点が、あるいは問題の意味が、読みとれずに、答えようがなかった、ということでしょ。
どんな難しい問題も、問いが明快である限り、件の天才少女は解いてきたわけです。
ところが、適性問題というのは、何が問題なのか、問いなのか、そもそも問題文が何を語っているのかさ、不分明なことが多い。それはそうでしょ。
適性問題というのは、そこのところを曖昧にして、小学生に機微を判断させる、というのが本質だからです。
だから、そこのところがもっとも訓練しておかなければならないところなのです。
明快な問いに答える、そういう能力は求められていない。
漠然とした曖昧な状況の中で、出題者の機微を捉えて、的確に何が問いであるかをつかみ、その問いに答えることのできる小学生が求められている。
漠然さと曖昧さの中にも必ず揺るぎない明確な一義的な何かが隠されている。それを機微としてとらえてつかみ得た者のみが適性ありということなのである。