遅くなりました。朝から仕事に追われましてようやく区切りがつきまして、ブログに入れそうです。今日は雨予想でしたが、はずれでした。それで少し所用も済ませることができました。
このところの忙しさは尋常ではなく追い詰められてきているということをひしひしと感じます。
ただ根を詰めると必ず体に来る、血圧もそうですが、免疫力はかなりに低下する、そういうことかわかっておりますので、苦しくなったら横になる、あるいは睡眠をよくとるようにと気をつけています。
冬期が始まるまでに『都立独自校数学』をある程度の量は書き上げておきたい。それから、小6のために冬期用のレジュメをある程度書いておきたいということもあります。加えて、「割合」新たな構想で体系化した指導レジュメを書いてみようか、という気持ちもおきまして、さらに忙しくなってきたわけです。現在の竹の会のミクロマクロ思考法というのは、画期的な割合指導のための枠組みだと思います。ただこれでも割合に抵抗を示す子たちの存在も見逃せない。かねてより割合の導入を倍数論で説き起こしていくというアイデアを温めてまいりましたが、そろそろ原稿を起こそうかなと思った次第です。
これは特に女の子によく見られる傾向なのですが、女の子というのは、お母さんとの密着度が高い、それで日常的に、幼い頃から、何事にも正解というか、答えを教えられてきたということではないのかと思うのです。
算数がなかなか解けない、苦手という女の子というのは、どうもまず答えを求めるという性向が強いと思うのです。問題見ていきなり答えを書こうとする。それで問題文なんかもほとんど読み取っていないように思います。
文章をなぞって読んだだけなのです。不思議なのは読むほどにいろいろと疑問というか、「問い」というものが生じてくるはずなのですが、一向にそういうことは気にならない。もともと幼いときから「問いを発する」というように育てられていないのではないかと思うのです。
問いを持つ前におそらく正解がいつも与えられてきたのではないか。それは発する言葉を聞いてみるとすぐわかります。既成の概念というか、しくみ、制度というものに全く疑念を持たない。あるものはすべて正しい。答えは常に正しくて、その答えを幼いときから教え込まれてきた。
ところが、「考える」という作用は、問いを発することですから、そのそもそもの問いが生まれなければ思考は先へ進まないわけです。算数の文章を読んで、書かれてあるとに何の問いも生まれてこないというのがそもそもの問題です。
たとえば、Aという食塩水が300gで8%します。このとき濃度のわからない食塩水400gにAから100gとって混ぜる、さらにそのBから100gとってAに移す。そうしたらAが7.2%になった。このときBはもとも何%であったか。
こういう問題があります。このとき、この問題を考える子どもが脳の中でどれだけ「問い』というものを発したかです。「わからない」という子を見ていると、ほとんど何も考えてないことがわかります。Bに移したのこりのAの食塩水はどうなっているのか。食塩は何g残っていたのか。そういう「問い」が全くないのです。Bから100g移したときのその食塩水には食塩は何gあったのか、とかいう問いなんかもない。解けないという子の頭の中には「問い」が生まれてこない。そもそもの疑問が起きないのです。
「問い」というものをもってこなかった子、世の中にはすべて正解があり、正解はこれだよ、これしかない、と教えられてきた子には、思考を抹殺することではなかったか。
「女の子はこうあるべきだ」「男の子はこういうものだ」とか、ありとあらゆるものに答えを与えてくることが教育だとしたら、しつけだとしたら、もっとも大切な何か、考える、疑う、という思考の素を摘んできたことにはならないか。
大人というものが、すべて答えのわかった人たちだなどという誤解をもって大きくなっていくこと、もしそういう子が大人になったら、ガチガチに人の意見に耳を貸さない子にならないか。。
答えなんかないのだ。だから問いを発して考えていくのだ、それが思考ということなのだ。考えるというのは、終わりのない「問い」の連鎖の中に没頭することにほかならない。
このところの忙しさは尋常ではなく追い詰められてきているということをひしひしと感じます。
ただ根を詰めると必ず体に来る、血圧もそうですが、免疫力はかなりに低下する、そういうことかわかっておりますので、苦しくなったら横になる、あるいは睡眠をよくとるようにと気をつけています。
冬期が始まるまでに『都立独自校数学』をある程度の量は書き上げておきたい。それから、小6のために冬期用のレジュメをある程度書いておきたいということもあります。加えて、「割合」新たな構想で体系化した指導レジュメを書いてみようか、という気持ちもおきまして、さらに忙しくなってきたわけです。現在の竹の会のミクロマクロ思考法というのは、画期的な割合指導のための枠組みだと思います。ただこれでも割合に抵抗を示す子たちの存在も見逃せない。かねてより割合の導入を倍数論で説き起こしていくというアイデアを温めてまいりましたが、そろそろ原稿を起こそうかなと思った次第です。
これは特に女の子によく見られる傾向なのですが、女の子というのは、お母さんとの密着度が高い、それで日常的に、幼い頃から、何事にも正解というか、答えを教えられてきたということではないのかと思うのです。
算数がなかなか解けない、苦手という女の子というのは、どうもまず答えを求めるという性向が強いと思うのです。問題見ていきなり答えを書こうとする。それで問題文なんかもほとんど読み取っていないように思います。
文章をなぞって読んだだけなのです。不思議なのは読むほどにいろいろと疑問というか、「問い」というものが生じてくるはずなのですが、一向にそういうことは気にならない。もともと幼いときから「問いを発する」というように育てられていないのではないかと思うのです。
問いを持つ前におそらく正解がいつも与えられてきたのではないか。それは発する言葉を聞いてみるとすぐわかります。既成の概念というか、しくみ、制度というものに全く疑念を持たない。あるものはすべて正しい。答えは常に正しくて、その答えを幼いときから教え込まれてきた。
ところが、「考える」という作用は、問いを発することですから、そのそもそもの問いが生まれなければ思考は先へ進まないわけです。算数の文章を読んで、書かれてあるとに何の問いも生まれてこないというのがそもそもの問題です。
たとえば、Aという食塩水が300gで8%します。このとき濃度のわからない食塩水400gにAから100gとって混ぜる、さらにそのBから100gとってAに移す。そうしたらAが7.2%になった。このときBはもとも何%であったか。
こういう問題があります。このとき、この問題を考える子どもが脳の中でどれだけ「問い』というものを発したかです。「わからない」という子を見ていると、ほとんど何も考えてないことがわかります。Bに移したのこりのAの食塩水はどうなっているのか。食塩は何g残っていたのか。そういう「問い」が全くないのです。Bから100g移したときのその食塩水には食塩は何gあったのか、とかいう問いなんかもない。解けないという子の頭の中には「問い」が生まれてこない。そもそもの疑問が起きないのです。
「問い」というものをもってこなかった子、世の中にはすべて正解があり、正解はこれだよ、これしかない、と教えられてきた子には、思考を抹殺することではなかったか。
「女の子はこうあるべきだ」「男の子はこういうものだ」とか、ありとあらゆるものに答えを与えてくることが教育だとしたら、しつけだとしたら、もっとも大切な何か、考える、疑う、という思考の素を摘んできたことにはならないか。
大人というものが、すべて答えのわかった人たちだなどという誤解をもって大きくなっていくこと、もしそういう子が大人になったら、ガチガチに人の意見に耳を貸さない子にならないか。。
答えなんかないのだ。だから問いを発して考えていくのだ、それが思考ということなのだ。考えるというのは、終わりのない「問い」の連鎖の中に没頭することにほかならない。