竹の会塾生の親御さんの「草枕」の日ごとの読書率が、100%であることはまちがいないと思います。本日は予備の指導日でしたが、台風26号の襲来で急遽中止しました。その旨を草枕」に載せただけで完全に連絡網として機能しました。実はわたしは3時半から4時半までは教室に待機していたのですが、全員にまちがいなく伝わったことを確認しました。「草枕」恐るべしです。「草枕」は今では毎日500人前後の訪問者がありますが、その中で竹の会に所属している親御さんというのは、20人に満たないのですが、そしてわたしの書く内容は竹の会という小社会に限られることも多いのですが、それにしても多くの方たちが、読んでくださっているのだと改めて再認識しました。
○試金石
試金石という黒い石があります。金の純度を調べるために用います。この石に金を欠片を擦りつけてその条痕の色を予め純度のわかっている金を擦りつけた場合にできる条痕と比較する方法で金の純度を調べるます。江戸時代にはこの試金石を用いてかなり正確に純度がわかったということです。転じて、価値や力量などを判定する材料となるものごとのことを試金石と呼ぶようになりました。
本年、白鴎に合格した女子にわたしはずいぶん早くに「このままいけば合格する可能性が強い」という主旨のことを言っております。また同じく本年、小石川に受かった女子にも「受かると信じています」と伝えました。
なせこのようなことが言えるのか。
それはわたしのレジュメが合格する力量を判定する試金石となっているからだと思います。
特に、9月以降に制作するレジュメは合格へ導く道案内、道標の意味があります。わたしはレジュメにする問題を選定し、その選定にはわたしの「知」を総動員して、センサーに感知する問題を選りすぐります。その上でわたしはまずその問題を自ら解いてみます。そうしてわたしの琴線に触れるテーマを見つけると、再構成して、再編成して、レジュメ化します。それは子どもたちの能力で超えられかどうかという視点から常に問い直して、問題化します。鋭利な刃物で「核」をえぐり出し、新たな偽装を凝らします。
わたしの問題は試金石にほかならない。わたしは試金石を作り出しているのです。ですから、小石川に合格した女子が、わたしの試金石に素直に真価を発揮したことをとらえて、「わたしは合格すると思います」と言ったにすぎないのです。
今の小6の都立中受検生がわたしのこの試金石に明確にいい結果を出していないことはわかっています。しかし、いずれにせよこの試金石に明瞭に条痕を遺せなければ、それはそれまでの力ということになるのかと思います。
自分の「知力」をふりしぼって考えぬいてほしいと思うのです。そう簡単にたいした偽装でもないのに騙されてどうするのかと思います。
試金石でいい結果が出せなければ、それはしかたのないことです。だからといって涙を流してみても客観的な力量はそのままです。
わたしはただ冷徹な試金石の提供者でしかないのです。いやわたしは迷える子どもたちを「導く」道標を要所要所に確かに打ち込んでいます。ここを、この道を通りなさい、といつも子どもたちを先導しています。
指導というのはそういうものです。いつか「心の指導」の中に書いたかもしれませんが、指導というのは、指導される側に「意思」がなければ成り立たない関係です。「勉強する意思のない」子を指導することはできない相談なのです。
せっかく道標を立てているのに、わざわざ道標から外れる子というものもいます。親も同じです。考えてもみてください。せっかく道標を立てて、「こちらですよ」と言っているのに、引き返す、脇道へそれる親子にわたしに何ができるというのですか。
「道」は自分で歩くものです。親が手を取って、いや家庭教師が手を取っていっしょに歩くものでもありません。わたしは道標を遠くから、離れているところから、示すだけです。
転がり落ちていく子を助けることもできません。わたしは子どもが道標を、次の道標をと次第に逞しく成長して独力で確かな足取りで歩くようすを離れているところから見ていることしかできません。
子どもたちは自分の力で「できるようになる」にすぎないのです。わたしが手助けした部分などはほんとうに微々たるものにすぎないのです。
わたしはただ歩むべき道を妨害する子を排除し、子どもたちが純粋に自らの意思で歩むことのできるように道を整えてやることしかできないのです。
たまに道を歩きたくないという子も出ますけどそういう子は無理に道を歩かなくてもいいのです。
道、それは「学問の道」。道、それは「自分の夢へつながる道」のことです。
そういう道を歩きたいと思うなら、それはあなたたちが、自らの本能に導かれて生き抜くセンサーの特にすぐれた人であることの証拠です。
○試金石
試金石という黒い石があります。金の純度を調べるために用います。この石に金を欠片を擦りつけてその条痕の色を予め純度のわかっている金を擦りつけた場合にできる条痕と比較する方法で金の純度を調べるます。江戸時代にはこの試金石を用いてかなり正確に純度がわかったということです。転じて、価値や力量などを判定する材料となるものごとのことを試金石と呼ぶようになりました。
本年、白鴎に合格した女子にわたしはずいぶん早くに「このままいけば合格する可能性が強い」という主旨のことを言っております。また同じく本年、小石川に受かった女子にも「受かると信じています」と伝えました。
なせこのようなことが言えるのか。
それはわたしのレジュメが合格する力量を判定する試金石となっているからだと思います。
特に、9月以降に制作するレジュメは合格へ導く道案内、道標の意味があります。わたしはレジュメにする問題を選定し、その選定にはわたしの「知」を総動員して、センサーに感知する問題を選りすぐります。その上でわたしはまずその問題を自ら解いてみます。そうしてわたしの琴線に触れるテーマを見つけると、再構成して、再編成して、レジュメ化します。それは子どもたちの能力で超えられかどうかという視点から常に問い直して、問題化します。鋭利な刃物で「核」をえぐり出し、新たな偽装を凝らします。
わたしの問題は試金石にほかならない。わたしは試金石を作り出しているのです。ですから、小石川に合格した女子が、わたしの試金石に素直に真価を発揮したことをとらえて、「わたしは合格すると思います」と言ったにすぎないのです。
今の小6の都立中受検生がわたしのこの試金石に明確にいい結果を出していないことはわかっています。しかし、いずれにせよこの試金石に明瞭に条痕を遺せなければ、それはそれまでの力ということになるのかと思います。
自分の「知力」をふりしぼって考えぬいてほしいと思うのです。そう簡単にたいした偽装でもないのに騙されてどうするのかと思います。
試金石でいい結果が出せなければ、それはしかたのないことです。だからといって涙を流してみても客観的な力量はそのままです。
わたしはただ冷徹な試金石の提供者でしかないのです。いやわたしは迷える子どもたちを「導く」道標を要所要所に確かに打ち込んでいます。ここを、この道を通りなさい、といつも子どもたちを先導しています。
指導というのはそういうものです。いつか「心の指導」の中に書いたかもしれませんが、指導というのは、指導される側に「意思」がなければ成り立たない関係です。「勉強する意思のない」子を指導することはできない相談なのです。
せっかく道標を立てているのに、わざわざ道標から外れる子というものもいます。親も同じです。考えてもみてください。せっかく道標を立てて、「こちらですよ」と言っているのに、引き返す、脇道へそれる親子にわたしに何ができるというのですか。
「道」は自分で歩くものです。親が手を取って、いや家庭教師が手を取っていっしょに歩くものでもありません。わたしは道標を遠くから、離れているところから、示すだけです。
転がり落ちていく子を助けることもできません。わたしは子どもが道標を、次の道標をと次第に逞しく成長して独力で確かな足取りで歩くようすを離れているところから見ていることしかできません。
子どもたちは自分の力で「できるようになる」にすぎないのです。わたしが手助けした部分などはほんとうに微々たるものにすぎないのです。
わたしはただ歩むべき道を妨害する子を排除し、子どもたちが純粋に自らの意思で歩むことのできるように道を整えてやることしかできないのです。
たまに道を歩きたくないという子も出ますけどそういう子は無理に道を歩かなくてもいいのです。
道、それは「学問の道」。道、それは「自分の夢へつながる道」のことです。
そういう道を歩きたいと思うなら、それはあなたたちが、自らの本能に導かれて生き抜くセンサーの特にすぐれた人であることの証拠です。