空は青く澄み渡りどこまでも青い。冷たい空気が大地に流れ込む。太陽は遠く降り注ぎ、陽は頼りない。しかし、植物たちはほんの一瞬の天の恵みも見逃さない。納屋味邸の植物たちも冷たい冬をじっと耐える。地球は秒速30kmの速さで公転軌道を進むという。春という駅に着くのはもう1月の辛抱であろうか。地球はただ公転しているだけなのに、確実に時間は経過している。考えてみれば、時間とは不思議なものだ。
我らが愛すべき納屋味先生は、相変わらずごろ寝が好きである。先生が居間でグーグーといびきをかいている間に、迷羊君は書斎に所狭しと散乱する本を片付ける。迷羊君は、先生の書斎を片付けるのが好きだ。先生はすごい量の本を読む。その本のひとつひとつを手にとりながら、書名を読んではふむふむと感心する。
ふと気がつくと先生の声がする。あわてて居間を覗くと、居間では、げんさんと先生がなにやら話しこむ。先生は熱いほうじ茶を美味そうにすすっている。
げんさんは難しい顔をして話しを続ける。
「それがですね、先生。知り合いの銀行員なんですが、突然、肺がんと言われちまいましてね、奥さんが可哀想に相当落ち込んでいましたんで。へい。」
「お歳は何歳なんですか。」と迷羊君が入り込む。
「五十五、六というところですかね。たばこは吸わねんで、原因ってのがわかりやせん。」とげんさん。
先生は気の毒そうな顔をされてポツリポツリと話し始めました。
「原因ですか。ふん、ストレスですかね。たばこを吸うと肺がんになるなんていいますけど、たばこはストレスを解消するために吸うということもある。いくら吸ったって病気にならないという人もいますしね。だから一概にだめだというのも勇気がいる。まあ、たばこの話しはそれくらいにして、最近は、ストレス性のガンというのが多いいらしいですね。こういうのには、クスリなんか使うよりも、ストレスをなくしてやればいいといいます。これですっかりガンがなくなったという報告もあるようです。
翻って考えてみれば、現代ほどいろいろなストレスが人間を苦しめる時代はないといえるかもしれません。というか現代だからこそストレスが身体に変調きたすともいえます。人口はもはや限界を超えて増え続けています。社会には人が蔓延し、好むと好まざると人との接触が様々な摩擦を生みます。人が生きていくということは、このような社会の中に身を置いて葛藤するということなのです。
つまり、人はこのような社会の中で、常に心的なバランスを維持しつつ自己を保持し続けなければなりません。心が平安でストレスのない状態こそが理想なのですが、現実は多かれ少なかれ日々ストレスが人間を襲います。しかし、よくしたもので人間は自らの心的バランスを保つために様々な心的特性を駆使します。ものごとを正確に記憶しないということ、言い換えればいつも「曖昧」にしておくということも、人間にとっては自己を保護するためといえます。さらには、「忘れる」という能力がすぐれてストレスから自分を護る有力な武器です。都合の悪い事は忘れてしまう。これで心は平和です。人は様々な方法で自己の心的バランスを保とうとします。「思考しない」というのもそのひとつの方法です。「見ざる、聞かざる、言わざる」といいますが、人間が自分を護る方法ではないでしょうか。人間の心的バランスを維持しようという本能は自己保存本能だと思うのですが、人により様々なバランスのとり方があると思うのです。何かを買うときに予備を買っておくという人がいますが、これなんかは、「まだ一つある」という心的余裕がバランスを保持している例だと思います。保身という言葉がありますが、医師、弁護士、役人、会社員といった人たちが保身を図るために筋を曲げるというのは世の常です。こういう場合、保身はその人たちの心的バランスを維持するはたらきをしているのです。欺瞞という言葉があります。他人を欺瞞するというのが普通なんですが、自己欺瞞という言葉は、やはり心的バランスを維持するための方法なんじゃないですかね。あるいは、宗教なんかも、心的な平安を求める人間の行動の一つのような気がします。
世の中には、権威主義がはびこっていますが、権威というものが人を動かすのに有効だとわかれば、権威を利用する人が増えて蔓延していくわけです。権威主義というのは、権威もないのに権威をあたかもあるが如くに利用するやからのことです。この場合の権威とは、実体のない信仰みたいなものです。中身は何もないのに、とにかく人を黙らせてしまうのです。権威主義の跋扈はストレスの元凶かもしれません。権威主義に対して心的バランスを維持するのは至難です。
話しは少し変わりますが、完全主義というのも権威主義なんですよね。それに網羅主義もね。オタクと言われる人たちが陥る心的緊張状態というのも実は権威主義に根ざしていると思いますしね。昨今のブランド志向もやはり権威主義的な心的傾向が露わだと思います。
「自分さえよければいい」という本性も権威主義だと思います。弱肉強食、強者の論理、支配者の論理といったものが見え隠れしています。医師や弁護士、官僚といった人たちが自分を高みにおいて、ものを言うのはまさに権威主義の最たるものです。医は算術ですからね。医者も職人と同じで、技術の良し悪しで、「いったい、いくらで治してくれるんだい」といったほうが、わかりやすい。治せないなら、金なんかとるな、ということになる。力量もないのに手術やって、平気で人を殺す医者がごろごろいるからね。
人はそれぞれに自らの心的バランスを保持するために何かにすがろうとする。容赦なく襲いかかるストレスに耐えられなくなる人がでてもおかしくはない。精神の苦しみがやがて身体を蝕む。自分の心の持ちようの問題なんですけどね。会社なんかだと人間関係のしがらみがドロドロになってもう限界をはるかに超しているということもあると思います。難しい問題ですよね。」
そう言われると先生は、「ふぅー」とため息のような一息をされて、ほうじ茶を手に取りました。
黙って聞いていたげんさんが、「いや、先生の言われるとおりです。」とぽつり。
先生は、庭に出て植物のひとつひとつをいとおしむように眺めていました。
我らが愛すべき納屋味先生は、相変わらずごろ寝が好きである。先生が居間でグーグーといびきをかいている間に、迷羊君は書斎に所狭しと散乱する本を片付ける。迷羊君は、先生の書斎を片付けるのが好きだ。先生はすごい量の本を読む。その本のひとつひとつを手にとりながら、書名を読んではふむふむと感心する。
ふと気がつくと先生の声がする。あわてて居間を覗くと、居間では、げんさんと先生がなにやら話しこむ。先生は熱いほうじ茶を美味そうにすすっている。
げんさんは難しい顔をして話しを続ける。
「それがですね、先生。知り合いの銀行員なんですが、突然、肺がんと言われちまいましてね、奥さんが可哀想に相当落ち込んでいましたんで。へい。」
「お歳は何歳なんですか。」と迷羊君が入り込む。
「五十五、六というところですかね。たばこは吸わねんで、原因ってのがわかりやせん。」とげんさん。
先生は気の毒そうな顔をされてポツリポツリと話し始めました。
「原因ですか。ふん、ストレスですかね。たばこを吸うと肺がんになるなんていいますけど、たばこはストレスを解消するために吸うということもある。いくら吸ったって病気にならないという人もいますしね。だから一概にだめだというのも勇気がいる。まあ、たばこの話しはそれくらいにして、最近は、ストレス性のガンというのが多いいらしいですね。こういうのには、クスリなんか使うよりも、ストレスをなくしてやればいいといいます。これですっかりガンがなくなったという報告もあるようです。
翻って考えてみれば、現代ほどいろいろなストレスが人間を苦しめる時代はないといえるかもしれません。というか現代だからこそストレスが身体に変調きたすともいえます。人口はもはや限界を超えて増え続けています。社会には人が蔓延し、好むと好まざると人との接触が様々な摩擦を生みます。人が生きていくということは、このような社会の中に身を置いて葛藤するということなのです。
つまり、人はこのような社会の中で、常に心的なバランスを維持しつつ自己を保持し続けなければなりません。心が平安でストレスのない状態こそが理想なのですが、現実は多かれ少なかれ日々ストレスが人間を襲います。しかし、よくしたもので人間は自らの心的バランスを保つために様々な心的特性を駆使します。ものごとを正確に記憶しないということ、言い換えればいつも「曖昧」にしておくということも、人間にとっては自己を保護するためといえます。さらには、「忘れる」という能力がすぐれてストレスから自分を護る有力な武器です。都合の悪い事は忘れてしまう。これで心は平和です。人は様々な方法で自己の心的バランスを保とうとします。「思考しない」というのもそのひとつの方法です。「見ざる、聞かざる、言わざる」といいますが、人間が自分を護る方法ではないでしょうか。人間の心的バランスを維持しようという本能は自己保存本能だと思うのですが、人により様々なバランスのとり方があると思うのです。何かを買うときに予備を買っておくという人がいますが、これなんかは、「まだ一つある」という心的余裕がバランスを保持している例だと思います。保身という言葉がありますが、医師、弁護士、役人、会社員といった人たちが保身を図るために筋を曲げるというのは世の常です。こういう場合、保身はその人たちの心的バランスを維持するはたらきをしているのです。欺瞞という言葉があります。他人を欺瞞するというのが普通なんですが、自己欺瞞という言葉は、やはり心的バランスを維持するための方法なんじゃないですかね。あるいは、宗教なんかも、心的な平安を求める人間の行動の一つのような気がします。
世の中には、権威主義がはびこっていますが、権威というものが人を動かすのに有効だとわかれば、権威を利用する人が増えて蔓延していくわけです。権威主義というのは、権威もないのに権威をあたかもあるが如くに利用するやからのことです。この場合の権威とは、実体のない信仰みたいなものです。中身は何もないのに、とにかく人を黙らせてしまうのです。権威主義の跋扈はストレスの元凶かもしれません。権威主義に対して心的バランスを維持するのは至難です。
話しは少し変わりますが、完全主義というのも権威主義なんですよね。それに網羅主義もね。オタクと言われる人たちが陥る心的緊張状態というのも実は権威主義に根ざしていると思いますしね。昨今のブランド志向もやはり権威主義的な心的傾向が露わだと思います。
「自分さえよければいい」という本性も権威主義だと思います。弱肉強食、強者の論理、支配者の論理といったものが見え隠れしています。医師や弁護士、官僚といった人たちが自分を高みにおいて、ものを言うのはまさに権威主義の最たるものです。医は算術ですからね。医者も職人と同じで、技術の良し悪しで、「いったい、いくらで治してくれるんだい」といったほうが、わかりやすい。治せないなら、金なんかとるな、ということになる。力量もないのに手術やって、平気で人を殺す医者がごろごろいるからね。
人はそれぞれに自らの心的バランスを保持するために何かにすがろうとする。容赦なく襲いかかるストレスに耐えられなくなる人がでてもおかしくはない。精神の苦しみがやがて身体を蝕む。自分の心の持ちようの問題なんですけどね。会社なんかだと人間関係のしがらみがドロドロになってもう限界をはるかに超しているということもあると思います。難しい問題ですよね。」
そう言われると先生は、「ふぅー」とため息のような一息をされて、ほうじ茶を手に取りました。
黙って聞いていたげんさんが、「いや、先生の言われるとおりです。」とぽつり。
先生は、庭に出て植物のひとつひとつをいとおしむように眺めていました。