草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

なんでもない平凡な日々が・・・

2012年04月30日 08時17分19秒 | 
 どんなに遅く寝ても朝6時半には目が覚めてしまいます。うちはたいてい午前2時の就寝ですから、6時半だとどうしても眠くなります。それで休みの日などは転た寝がなんとも云えずに心地よい。うとうとしながら寝てしまうのが大好きです。かみさんは食事に支度にとりかかるのが遅いからいつも夕飯は真夜中です。もともと私が仕事を終えて家に帰り着くのが午後10過ぎというところからきています。子どもたちが小さい頃は親につきあってなかなか寝ない。12時ぐらいまで起きている。それで学校の先生にはあくびばかりしていると言われ、近くの眼科のおばあちゃん先生には親が叱られたものです。あの先生は私が一人で診てもらったとき私の砕けた服装を見ながら「あなたねぇ、もっと本をよまなきゃだめよ」と説教しました。どうも私を遊び人かなにかと思った節があります。私は「はぁ~」と言っただけでしたが、・・。あの先生はそれから数年して死んでしまいました。  そういえば渋谷区西原にかかりつけの小児科のおばぁちゃん先生がいたのですが、休日にまだ幼かった長男が高熱を出してしまい妻が連れて行ったことがありました。先生はゴホンゴホンと辛そうに私の息子を診てくれたそうです。その日は休診の日でしたが、無理をして診てくれました。二人いた患者の最後の一人が長男でした。その先生が翌日心筋梗塞で死んだことを2,3日して知りました。何年かして竹の会にそのおばぁちゃん先生のお孫さんが偶然竹の会にいたことがありました。  わたしが小学校の頃、PTAの会長は内科医院のN先生でした。先生にはきれいな娘さんがいました。その子は私の同級生でした。裕福な家に生まれていつも綺麗な服を着ていたその子とは中学、高校とずっと同じでした。大学はどこへ行ったのかちっとも知りません。なにしろ私の通った高校は1学年605人もいまして、国立5クラスと私立6クラス就職1クラスに分かれていまして、その子は私立クラスで私は国立でしたからね。その女の子とはとうとう小学から高校までまともに口をきいたことが一度もないままに終わりました。お互いに遠くから見つめるばかりでした。N先生はよく往診もしましたので私が熱を出したりするとよ私の家にもやってきたものです。京大出の昔風の先生でしたが、私と娘さんが同級生だとうことはよく知っていて娘さんのことをたまに話しました。二十代になってもその子は美しく、しかしずっと結婚もせずに三十代、四十代といつも昔風の医院にいました。先生が亡くなり医院を廃業したことを風の噂で知りました。息子さんが一人いたのですが、医学部には行かずに九大の文学部に進んだと聞いたことがあります。私の憧れたその子とは今はもう会うこともなく月日が矢のように過ぎ去りました。あの頃のガキ大将が今は東京の片隅でぽつんと一人塾の先生をしていると知ったらあの子はなにか言ってくれるでしょうか。  私はよく思うのです。「無為に時を過ごしてはいけない」と。なんでもない平凡な日々こそが私たちにはいちばんかけがえのないものなのだと。高校を出るとすぐに父親に逆らって九州から東京へ飛び出しました。あの頃は高度経済成長期で人がいくらでも必要だった。私は大型免許を高校卒業と同時に取りました。それですぐ運送会社ではたらくことができました。東京と横浜間を6トン車で往復しました。田舎で免許を取ってきた若者が突然東京のど真ん中で大型トラックのハンドルを握ったのです。使いものになるわけがありません。それで1日で助手に格下げになりました。それが飲んだくれの運転手の助手になったおかげてじつはいつもハンドルを握らされていたのです。私は1週間ほどで運転技術をマスターしました。横浜の倉庫街では倉庫の中に1回で入れることが、腕のいい運転手とされました。私はよく倉庫の入口にぶっつけて謝りました。輸出貨物の木箱を壊したこともありました。1か月もすると私は名人級になっていました。はたらき始めて1週間で私は腕が動かせないほどの過労に見舞われました。トラック便は仕事から帰ってくると翌日のために荷物を積み込む作業があります。これが辛いのです。なにしろ6トン車いっぱいぎりぎりまで荷物を積み込むのですから。運転手たちは協力して何台分も積み込まなければならないのです。途中で出されるラーメンの美味しかったこと。  私はあの若い貴重な時間がたっぷりあった時代をなんと無駄にしてきたことでしょうか。  私が九州大学に入ることになる前夜の若気の至りでした。  私はなんでもない平凡で抑揚のない日々に耐えられなかったのです。いや今思えば私はただ苦しい勉強から逃げ出したかっただけなのだと思います。毎日学校から帰ると教科書をあたりまえのように開いて勉強に没頭する、そういう生活が私にはできなかったのです。柔道をやったり、空手をやったりと今から考えれば無駄なことばかりをしていました。いちばん大切なのは、平凡な日常に真摯に向かいあい、「無為に時を過ごすことなく」、一生懸命に生きてゆくことでした。  大学を受験した日から合格発表のある日までの10日間あまり、私は狂ったように本を読みました。国立一期校の入試は、3月の3、4,5日の3日間と決まっていました。そして発表は16日ぐらいでした。私が死にものぐるいで勉強した6か月、そうでした。三畳間に籠もって朝から晩まで勉強しました。いろいろと馬鹿な体験をしなければ現実がわからない馬鹿な私でした。  なんでもない平凡な日々こそがかけがえのない大切なものだということを知るまでに時間がかかりました。  思いを寄せたひとを遠くから思い続けることしかできない私でした。  
この記事についてブログを書く
« 元代々木教室の頃 第3回 | トップ | 都立中高一貫校と共に歩む »