草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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もっとも信頼できる人間の言葉がいちばん信用できない、という世の中

2015年08月09日 11時34分58秒 | 
 おはようございます。 台風14号が太平洋沖を通過している影響で今日は幾分涼しげです。天井を知らない最高気温の日が続くと台風も一服の清涼剤になることはこれまでも経験してきました。
 明日、明後日と指導が続くとお盆休みに入ります。お盆休みは5日とりました。この5日間を勉強に捧げるのも想定の内なら、その他の余暇を楽しむことに使うのも想定の内です。どうか自由に算段されてお過ごしくださればと思います。ただひとつ子どもたちの心の中に「勉強しないと心配」という気がかりがあれば、それがわたしの僅かな希望です。親御さんがそのわずかな希望さえも踏みつぶすことのあるのも想定の内です。勉強しないということの危険負担はすべて自分が一身に引き受けるのだということの真実知るのは来年2月9日に掲示板の前に立ったときです。いみじくも本年桜修館の掲示板の前で「もっと勉強しとけばよかった」とつぶやいた女子の如しです。
 セウォル号転覆事故のとき、船内アナウンスは、何度も「そのまま待機してください」と呼びかけたそうです。一説によるとあれは生徒が甲板に出ても救命ボートが一隻もないので救助船が来るまで待たせたということらしいです。だれがそう判断しそういうアナウンスを流させたのか、それは闇の中です。人間というのはこういう誤った判断をああいう危機的状況でやるわけです。
 韓国は2003年に地下鉄火災を起こしている。このときは280人以上が死亡した。この火災のとき、火災列車に隣接した列車の車内放送は「軽い事故が発生したので車内で持つように」だった。「しばらくお待ちください」というアナウンスが流れた。決して緊急事態を告げて「避難しろ」とは言わなかった。そういえば福島の事故のとき、水蒸気爆発が起きても政府は国民に緊急事態を告げることもせず避難命令も出さなかった。そのまま広島級の原爆の何百倍もの放射能を浴びてください、と言ったようなものだ。
 なにか事が起きると必ずまず体裁を繕う、「たいしたことはない」と告げるのは、どういう心理なのだろうか。
 セウォル号にしても、韓国の地下鉄火災のときも、「公」を醸すアナウンスというものが、確実に乗客を制御していた。福島のときの制御は意図的であった。パニックを懼れたというが、結果として多くの人が放射能を浴びた。東京の人はその自覚はないのか、喉元過ぎれば熱さ忘れるそのままである。実は自然界に濃縮された放射能が食品などを通してわたしたちに体内に浸透しつつあることなどどこ吹く風である。放射能禍などは一切無関係のように魚介類が売られている。寿司屋も事故前と変わらぬ盛況である。テレビは相変わらず自らの使命を忘れてグルメ番組を垂れ流している。まるで亡八の如くに。ぼうはちと読む。八は、仁義礼智信孝悌の八つを言う。この八つを失った人間の意。悌とは、年長者に従順なこと。テレビは現代の亡八である。自らの使命を忘れてカネで仁義礼智信孝悌を売るから。国民に命の危険を知らせないで、バカ番組を垂れ流す。
 なにもかも軽いことのように見せかけてそれでいいのか。安保法案はさすがに国民の80%は反対しているが、安倍はいかにも軽い話しのようにしゃべくりかえす。根拠もないのに「明快に申し上げておきたい」を繰り返す。「一国の首相が断言しているのですから」と言うがアホか。
 アメリカにオスプレイを買わされて、これでアメリカは莫大なオスプレイの開発費をお人好しの日本にすべて出させることに成功した。アメリカはオスプレイの開発でどうしても欲しかったデータがあり、それを結局はただ同然で手に入れて、オスプレイという試作品、失敗品をはるかに凌ぐ高性能ヘリを安価に新たに作る計画らしい。オスプレイよりずっと安い、高性能のヘリがすでにあったのに、あえてオスプレイを安倍に買わせた。安倍は5000億円以上の買い物をしてアメリカ議会でドヤ顔で演説をしてきた。
 アメリカにとって日本というのは、日本国民というのは、いったい何なのか。
 広島は原爆実験だったが、長崎は水爆実験だった。ひどいものである。人間を核の実験の対象とした国である。
 さて、今日はそのような愚痴を言うことが本意ではない。
 試験問題を解くときの心理について少し述べておいたほうがいいのかなと思ったのである。
 試験というのは、判断を迫られる、それは時間的制約の中での究極の選択を迫られる、というところに本質がある。こういうことを考えているときに、あのセウォル号のアナウンスが浮かび上がったのである。人間というのは、公共というか、何かを通して流される言葉に弱い。何か天の声、神の声にでも聞こえるのだろうか。自信のない人というのは、権威に弱い。教授だとか、博士だとか、警察だとか、とにかくそういうものの言葉は鰯の頭も信心からなどという諭しはまずいらない。虎の威を借る狐のような人間も腐るほどいる。
 よく試験では最後に2つに絞れるのだが、そのどちらかの判断ができない、ということがある。マイナー思考の人は恐ろしいほどの確率で間違った方を選んでしまう。そもそもマイナー思考が誤判断に結びつくという思考はかなりに素朴科学的であったかもしれない。
 センター試験の国語の問題を解いてみるとわかると思いますが、選択肢の中から1つ選ぶ問題だと必ず正しそうなのが2つある。しかし、センターの国語の場合は、本文という客観的資料がある。これが司法試験となるとまた事情はちがう。2つにしぼった後どうするかは、センター試験の国語とはちがうのである。
 わたしが最近気になっているのは、「正常性バイアス」という言葉である。バイアスは、biasという英語である。偏りとか、偏見とか、そういう意味が一般であろうか。
 危機管理の文脈で使われる場合、バイアスは、正常性バイアスという言葉で語られ、「ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっている」心のメカニズムと定義されている。このようなメカニズムは、人間がエネルギーのロスと過度な緊張におちいる危険を回避する、心の防御システムにあるといえよう。
 つまり、人間というのは、常に、心に遊び空間をもつようにはたらいている。それで心の平衡が保たれるからだ。
 この正常性バイアスのために、異常を異常と感じないとしたら、それは本来保存のためのメカニズムが、人間の存在そのものを消滅させる諸刃の剣としてはたらくことを意味する。
 異常を異常と感じない、これが人間には致命的となる。
 正常性バイアスはテレビ、新聞、政府の広報などによって、実は不断に麻痺させられる危険瀕している。
 処方箋は、「疑う」ことである。なんでもかんでも疑うことである。
 特に、もっとも信頼できる人間の言葉がいちばん信用できない、と肝に銘じておくことである。
 

 
 
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