おはようございます。梅雨の季節特有の蒸し暑さというものが覆い尽くす時節です。真夏の蒸し暑さは夜など寝付かれずこのまま熟睡できないのではないかという不安さえ過ぎります。まだこの時期は雨の醸し出す冷気が救いです。6月の指導もいよいよ明日1回となりました。7月に入るとすぐ竹の会の小6は模試を受けることになっています。結果なんか気にしないで今の自分の現実というものを虚心坦懐に受け止めることです。わたしは大学に受かる前、一度だけ模試を受けましたが、結果は惨憺たるものでした。ここで腐ってもしかたないでしょ。
表題は山本七平という人が言っていることです。「なる」論理をとると自分は結局なにもしないことになる。実は「する」論理が必要なのに「なる」論理ですませてしまう、というような主張でした。たとえば、大学に事件が起きる、すると機動隊を入れるべきか、という話しになる。もし大学に火事が発生するとどうか。やはり「なる」論理では消防隊を入れるべきかどうか、と議論するのであろうか。
山本さんは、「なる」論理をとっているとこういう変な話しになると言っているのである。
この話しを読んでいて、わたしはプラス思考とマイナス思考ということを考えた。「なる」論理はどうもマイナス思考と重なるように思う。
頭のいい子は模試を受けても今の自分の力ではどうにもならないから受けてもしかたないと考える。裏には、成績の悪い、みっともない結果を晒したくないという心が隠れている。頭のいい子は結果が見えてしまうのでこの「なる」論理をとると結局何もしないことになる。逃げる、回避する道ばかりを選ぶことになる。
勉強しても頭が悪いから意味がない、だからやってもしかたない、と考えるのも「なる」論理である。
山本さんは、「なる」論理をいつもとっていると結局なにもしない人間になる、と言っている。
「する」かどうかではないか、と言う。「勉強する」という意思、「模試を受ける」という意思の問題だ、と言うのである。
「なる」論理で考えているとすべてやらないで終わることになる。すべて自分とは関係のないところで起きることで自分の問題は何もしないというのが「なる」論理である。
考えてみれば、今の国、地方自治体、会社などの組織のやっていることは「なる」論理で片づけていることばかりである。
原発だって、廃炉にすれば電気がなくなる、という「なる」論理である。年金は払わなければ老後はなく「なる」である。
経済政策が二極構造で貧困を必然的に生み出す構造なのに、貧困は自己責任というのはおかしな話しである。「なる」政策をとっていて、「する」の発想が全くないからである。
さて、わたしは塾の先生ですから、勉強、受験に関して少し述べておきます。
ふだん子どもたちがどのような考えで勉強に取り組んでいるのか、ということに関します。
勉強は「する」か「しない」か、のどちらかです。ここではき違えてはいけ
ません。「しない」とう選択をした人が、実は「なる」論理の結果、つまりはマイナス思考、運命論の結果、「しない」ということで納得、得心しているのではないか、と思われることです。こういう人は、これから中学、高校へ進み、大学へ進むかどうかは別として、社会に出ても、いつも結果は先読みして、「なる」論理で人生で結局「する」論理をとることなく終わってしまうのではないか、ということです。
子どもたちの思考にこの「なる」の論理が支配しているとどうしても勉強「する」ということにはならないのではないか。
もっと言えば、勉強しない子の親というのが、この「なる」論理で子どもに日夜影響、いや洗脳していることさえありうるのである。
子どもというのは、日常の家庭で繰り広げられる、親の言動によって、ものごとに対する判断の方向というものを学んでいくからである。
外堀を埋められた結果「なる」論理で行動する人になってはならない。
発想の転換がいる。「する」論理で行動する人こそ幸いあれ。
表題は山本七平という人が言っていることです。「なる」論理をとると自分は結局なにもしないことになる。実は「する」論理が必要なのに「なる」論理ですませてしまう、というような主張でした。たとえば、大学に事件が起きる、すると機動隊を入れるべきか、という話しになる。もし大学に火事が発生するとどうか。やはり「なる」論理では消防隊を入れるべきかどうか、と議論するのであろうか。
山本さんは、「なる」論理をとっているとこういう変な話しになると言っているのである。
この話しを読んでいて、わたしはプラス思考とマイナス思考ということを考えた。「なる」論理はどうもマイナス思考と重なるように思う。
頭のいい子は模試を受けても今の自分の力ではどうにもならないから受けてもしかたないと考える。裏には、成績の悪い、みっともない結果を晒したくないという心が隠れている。頭のいい子は結果が見えてしまうのでこの「なる」論理をとると結局何もしないことになる。逃げる、回避する道ばかりを選ぶことになる。
勉強しても頭が悪いから意味がない、だからやってもしかたない、と考えるのも「なる」論理である。
山本さんは、「なる」論理をいつもとっていると結局なにもしない人間になる、と言っている。
「する」かどうかではないか、と言う。「勉強する」という意思、「模試を受ける」という意思の問題だ、と言うのである。
「なる」論理で考えているとすべてやらないで終わることになる。すべて自分とは関係のないところで起きることで自分の問題は何もしないというのが「なる」論理である。
考えてみれば、今の国、地方自治体、会社などの組織のやっていることは「なる」論理で片づけていることばかりである。
原発だって、廃炉にすれば電気がなくなる、という「なる」論理である。年金は払わなければ老後はなく「なる」である。
経済政策が二極構造で貧困を必然的に生み出す構造なのに、貧困は自己責任というのはおかしな話しである。「なる」政策をとっていて、「する」の発想が全くないからである。
さて、わたしは塾の先生ですから、勉強、受験に関して少し述べておきます。
ふだん子どもたちがどのような考えで勉強に取り組んでいるのか、ということに関します。
勉強は「する」か「しない」か、のどちらかです。ここではき違えてはいけ
ません。「しない」とう選択をした人が、実は「なる」論理の結果、つまりはマイナス思考、運命論の結果、「しない」ということで納得、得心しているのではないか、と思われることです。こういう人は、これから中学、高校へ進み、大学へ進むかどうかは別として、社会に出ても、いつも結果は先読みして、「なる」論理で人生で結局「する」論理をとることなく終わってしまうのではないか、ということです。
子どもたちの思考にこの「なる」の論理が支配しているとどうしても勉強「する」ということにはならないのではないか。
もっと言えば、勉強しない子の親というのが、この「なる」論理で子どもに日夜影響、いや洗脳していることさえありうるのである。
子どもというのは、日常の家庭で繰り広げられる、親の言動によって、ものごとに対する判断の方向というものを学んでいくからである。
外堀を埋められた結果「なる」論理で行動する人になってはならない。
発想の転換がいる。「する」論理で行動する人こそ幸いあれ。