草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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元代々木教室の頃 第1回

2012年04月26日 09時02分20秒 | 
 来年1月元代々木教室は閉鎖することになりました。昭和60年(1985)10月から平成25年(2013)1月までの27年と4か月の間元代々木教室でがんばってきました。ほんとうはもう元代々木教室を閉鎖するときは塾を廃業するつもりでした。しかし、竹の会のような小塾でも都立中高一貫校の指導では大手をはるかに凌ぐことができるということがわかりました。私立中高一貫校受験では大手の資本力にとても太刀打ちできません。早稲アカ、サピックス、日能研、四谷大塚などの大手は自ら創造した偏差値という洗脳呪文によっていとも簡単に世の教育ママたちをマインド・コントロールしてしまったのです。講師を何人も用意し、偏差値基準によて知識を羅列化したテキストを子どもたちに勉強させて、集団を見事に偏差値によって色分けし、上位から順位をつけることによって子どもたちを能力の高い順に分類(仕分け)していったのです。
 こうした偏差値世界では、大手塾は強力な支配者であり続けたのです。大手塾は、もともと能力のある者が成功するように前提されたシステムです。別に大手に行ったから受かったというわけではない。世の中の親たちの誤解は悟られないままに、それほど能力もない子たちが大手の合格実績を見て「大手ならだれでも合格できる」となんとも自分に都合のいい思い込みをして大手に集まる信仰ができあがってしまったのです。
 大手というのは、もともと能力のある者が集まり、効率よく偏差値によって分類された知識を修得して合格していくだけのところです。そういう中にもともと能力もない者が入り込んでもうまくゆくわけはないのです。子どもは自分がいかにできないかということを日々知らしめられるだけです。頭の悪い子は苦しむだけです。
 竹の会が偏差値で仕切られた大手の支配に勝てるはずもない。中学受験と違い高校受験はむしろ竹の会のような小塾が力を発揮できる。河合塾や駿台でも都立高入試ならむしろ竹の会の方が合格には有利だと思っている。いや過去の事実がそう教えてくれた。それどころではない。竹の会のような小塾でも難関高校の受験では大手と互角か、それ以上だということも次第に見えてきた。私立高校受験には理科と社会がないから、中学受験のようなこともない。いや高校入試の理科と社会は都立のみであり、範囲もレベルも標準であり、大手の独占にはできないのである。しかし、大手の資本力を駆使した人集めにはとてもかなわない。
 かつての中傷には竹の会の実績がたいしたことはないのに大きなことを言うなみたいなものがありましたが、最初から頭のいい子だけを相手にする大手といっしょにしてほしくないと反論もしたものです。
 竹の会に昭和60年の12月に中2の男子がやってきました。上原中の子でした。当時の竹の会はかなり貧乏でしたから手書きのガリ刷りのはがきでした。そのはがきをもってやってきたのは都内の有名塾を転々としてきたという受験戦士でした。育ちのいい素直な子でした。この子が竹の会初めての昭和62年の高校入試で青山学院高等部に合格することとなるのです。彼は市川高校にも受かっています。偏差値は62ほどでしたから当時青学の偏差値69からはとても合格できたものではなかったのです。そのため担任には不可能だと言われたそうです。合格したときその担任は「塾の先生は神様ですね」と言ったといいます。お母さんは「竹の会大明神と言って手を合わせていました」っけ。
 昭和63年ではひとりの男子が国学院久我山高校に合格しています。この男子は中2の入会でしたが、当時の偏差値は38でしたっけ。中3の受験直前には55ほどにはなっていました。ただ彼が偏差値65の国学院久我山を受けるといったときにはびっくりしました。例によって担任は不可能だを連発し、入れるところを受けろと説得したそうです。このときは数学5問中3問しか解くなと作戦を命じました。そして例年必ずでる二次関数と立体と確率にだけしぼって徹底して練習させました。彼が補欠2番で繰り上がり合格したとき、彼のお母さんが元代々木教室の玄関に座り手をついて頭を下げたときには私も思わず座り込み頭を下げました。
 平成元年の都立国際の合格も感動的でした。この年は都立国際開校の年でした。渋谷区だけでも各中学で校長推薦を受けた各校7人ほどの子たちが推薦入試を受けました。倍率はなんと21倍にもなりました。内申はみないい子たちばかりですから、作文勝負でした。私は「問題意識を掲げて論じろ」とその子に教え込み100通ほどの作文を書かせて添削しました。合格の報が例によってもたらされました。渋谷区ではただ1人の合格でした。渋谷に竹の会ありと名前が轟いた瞬間でした。
 
 

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