草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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合格掲示板に番号を見つける

2011年10月26日 09時52分20秒 | 
 お早うございます。本日は指導日です。ベランダから見える空は青空で冷たい風が吹きつけるせいか雲は吹き散らされて霧散してしまったようです。こういうのを秋晴れというのでしょうね。やがて来る紅葉の時期も待ち遠しい。いつか奈良の紅葉、京都の紅葉を見てみたいと思いながらも果たせずにきた。私の京都の記憶は京都大学を受験するために訪れた凍えるように冷たかった3月3日4日5日のことしかない。奈良は中学の修学旅行の記憶がおぼろげにあるばかりだ。  心静かに奈良の紅葉、京都の紅葉を愉しむ日はくるのであろうか。  受験の日はいつも冷たかった。肌を刺すような張り詰めた空気がいつも私のほろ苦いあの頃の記憶を甦らせる。私は冬の朝の冷たい空気が好きだ。  とうとう来てしまった受験本番の日。来し方の努力をいつも思う。自分は納得のゆく勉強をしたのか。大晦日、お正月と人々が浮かれるときに私はいつもと変わりなく黙々と勉強していた。文机(ふづくえ)がひとつあるのみの何もない三畳の間で私は黙々と参考書に読み耽っていた。その参考書も簡素だった。そうだった。朝起きると文机の左側に高く積まれた参考書があった。一日決めたノルマを読み進め今度は右側に積んでいくのだ。これを私は毎日ただ黙々と繰り返していた。そうだった。英語は赤尾の豆単と原仙作の英標だけだった。数学はZ会の「数ⅠⅡB問題集」1冊だけだった。漢文は何だったか忘れたが1冊のみ、古語1冊、新釈現代文1冊、古文読解法1冊。あ~そうだ、山川の世界史用語集1冊、日本史用語集1冊だった。あと数研の薄い生物問題集1冊もあった。あのときの記憶が甦る。山川用語集は1語覚えるたびに黒いボールペンで塗り潰していったっけ。赤尾の豆単で単語を1万は覚えたな。あのときは朝9時~12時、1時から5時、7時から9時、そうだった、判で押したように土曜も日曜も月曜も祭日も同じことを繰り返したのだった。姉は嫁に行き、両親は転勤していない、私は祖母と弟の三人で静かに平和に暮らしていた。いや弟は高卒と同時にNTTに就職していたから昼間は私と祖母しかいなかった。祖母がいつも昼食と夕食の準備をしてくれたのだった。  あんなに私の世話をし、私の心配ばかりしていた祖母であったが、私が大学に合格した年の夏にこの世を去っていった。祖母にはいつも済まないと思い続けてきた。  それでもテレビで映し出される合格掲示板に私の番号を見つけた母と祖母は二人で泣いたそうである。二人には本当に心配ばかりをかけてきたのだと思う。高校の頃の私は荒れてどうしょうもなかった。合格したときそれまでのさまざまな思いが私の胸に溢れた。夜ひとりになったときなぜか涙が溢れて止めようがなかった。  私にとって受験とは、それはそれは青春の時間のすべてかけるほどに努力を重ねてようやく合格掲示板に番号を載せることができるものだという思いが強い。私が子どもたちを指導するときいつも心の底のどこかにそういう「受験の厳しさ」というものがあった。だから「土日は10時間以上勉強してほしい」という思いが止められない。普段だって勉強してほしい。若い時の「何もしない」という時間ほど後々自分にマイナスになって返ってくるものはない。鉄は熱いうちに打たなければだめなのだ。正月に人々が楽しげに楽しんでいるときに私は自分の甘い心を責めた。自分は人並みに楽しむ資格などないのだと言ってきかせた。掲示板に名前が「ない」という衝撃を悲嘆を思い知らなければならないと思った。だから私は黙々と勉強した。九州大学の数学は私には劇的であった。私は数学的センスはないのだと思った。100点満点の5題構成で1題20点。試験時間は120分だったか。1題の答案用紙はA4の大きさの白紙であり、そこにびっしりと数式を書き込むのだ。私は試験終了前30分でまだ3問も解けていなかった。うまい解答が思いつかずに原始的な解をとるか迷っていたのだ。もし代入するとしたら大変な計算になる。それが0にならなければ失敗だ。私は決めた。とにかく書くしかない。私は必死で解いていった。1問やりあげる。0になった。さらに1問なんとか書き上げる。残り5分。順列組み合わせ問題の小問が2題。その一つを解いたところで終了の鐘がなる。結局私は難関の数学で90点もとれた。国立は数学で決まる。私は充実した気持ちで試験第一日目を終えて帰途についた。国立は3日間試験がある。それで私は旅館に泊まりがけで福岡にやってきたのだった。  また子どもたちのことを考える。のんびりとだらだらと親に言われるままに勉強していてもだめなんです。大切なのは自分の「思い」なのだから。合格へかける「思い」です。そして合格するためにはどんな勉強だってしてみせる、耐えてみせるという思いです。ただ黙々と努力する。勉強する。本当に合格したいのなら、勉強以外のことで時間をどんどん潰していくのはだめなんです。現実はシビアです。努力しただけの結果しか返ってこない。いくら奇跡を期待してもそういうものはないんです。運なんかない。あるのは自分がどれだけ努力したか、それだけなんです。  私はそれを知っているだけなんです。だから冬の冷たい刺すような空気が私にはちょうどいいのです。努力もしないのに合格を期待する、そういう気持ちを冬の冷たい空気は戒めてくれるような気がするのです。
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