草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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もし勉強する道を選んだのなら

2011年06月01日 09時04分15秒 | 
 お早うございます。今日は指導日です。外は曇り空です。昨日から気温は12℃ほどらしくやや肌寒いくらいです。今日からいよいよ6月です。受検まで7か月です。
 今日は、「勉強する」という道を選んだことの意味を少し考えてみたいと思います。小学生というのは、1日にどれくらいの勉強をするものなのでしょうか。2時間もやればもう「勉強した」という気持ちになる子が多いのではないかと推測しています。小学生はいろいろと習い事が多いので勉強だけという子は少ないと思います。これが、中学生や高校生だと部活というのがありますから、それで時間と体力が尽きて勉強は限りなくゼロに近いという生徒も少なからずいます。
 ところで小学生が受検ということで、とにかく「勉強する」という道を選んだのなら、「勉強する」こと以外にいろいろと時間を使うことは、失敗する可能性が高いということを覚悟してほしいと思います。「ながら」勉強で成功することはほとんど不可能です。勉強をすればするほど自分の未熟を知るはずですし、そうなればいくら時間があっても足りないはずです。学ぶことは際限もなく多いのに、学べる時間はほんとうに限られています。竹の会で長時間「考える」ということに集中することを経験することは、「勉強する」ということの意味を悟る、勉強が習慣となることなのです。実際、竹の会で「勉強することの意味が初めてわかった」という人たちがたくさんいました。そしてそういう人たちが竹の会から離れた後もひとりでこつこつ勉強する姿勢だけは失わなかったという話しをよく耳にします。
 今年は、指導時間中もおしゃべりばかりして、勉強に集中しない子が、今は、男子にそういう子が多いのですが、おいおい勉強に集中するようになるであろうかとは思っています。今年の男子は勉強すれば合格できるのではないかという可能性を持った子が複数はいますから。そして、夏の長時間を経験した後には、土日10時間の勉強もそう無理ではない、つまり実行可能なのではないかと思っています。小学生というのは、竹の会の指導を通して、「勉強する」ということの意味を身も心も「悟る」べく改造してしまうことになると思っています。「受検」というきっかけが、小学生を将来においても「勉強する」意思のある子に変えてしまうということです。
 運良く受検に成功しても、実は合格後は、それまで以上に「勉強」しなければ脱落するのが現実です。中学や高校に入った喜びから、勉強に一瞬の隙を見せれば、それは将来において、回復不能な禍根を遺す選択となるでしょう。特に、都立中高一貫校の授業レベルは高く、とても部活をしながらいい成績を遺すなどということは凡人にはもちろんたとえ秀才であったとしても不可能と思います。学ぶことは際限がなく、学べる時間はいくらもないからです。「少年老い易く学成り難し」(朱熹「偶成」)というのは、真理です。月日のたつのは早く、まだ若いとおもっているうちに年をとってしまうが、学問はなかなか成就し難い。若いうちから、「一刻もむだに過ごさず学問に励まなければならない」という教えです。
 ほんとうに真剣に勉強をやりだしたら、ほんとうにいくら時間があっても足りないくらいです。高校は特に科目が細分化、専門化し、1つ1つの科目をマスターするにはあまりにも時間が少ない、そういう真実に気がつくのが、実は高3になってからだということです。高1や高2のときは、「まだ時間が無限にある」ような錯覚をしがちです。しかし、現実に勉強に取り組んでみればすぐにわかることなのですが、まず時間が足りないということです。仮に7時間毎日するとしても高校では定期試験の科目数及び範囲が厖大ですから、受験のためだけに時間を費やすことはできないのです。それで浪人をすることになる。これがまた大きな過ちを犯すきっかけとなる。浪人したとします。そのとき、予備校からもらうテキストに専念できますか。もし高校のときに学年1番で運悪く落ちたという人なら、それまで使ってきた参考書を続けてやってもいいし、予備校のテキストに専念してもいい。しかし、高校で勉強してこなかった人はどうなのでしょうか。予備校のテキストは1年後に大学合格を予定して作られています。予備校のテキストではレベルが高すぎて意味がないという人もいるはずです。予備校のテキストが合うのはそれまで十分勉強してきた人なのです。それで浪人すると本屋で参考書を買ってやる人が多い。これが地獄の始まりです。1年後失敗したとき、「参考書が悪かった」と考える。そしてまた新しい参考書を買って始める。新しい参考書をものにするには時間がかかる。4月から始めて8月になっても終わらない。しかし、9月になればセンター試験の準備がもう始まる。この恐怖の中途半端な繰り返しが、結局浪人しても合格しないというリズムを作り出してしまうのです。高校性のとき、今は勉強できなくても、浪人すればなんとかなるというのは、実はただの幻想です。高校の時に勉強しなければもう終わってます。
 以上に述べたことは、中学についても、同じです。特に公立中の生徒は、部活優先の子が多くて、成績が低下気味です。中学生で1番をとるくらいの子だとやはり「勉強する」という覚悟ができています。「勉強しなければ」将来が「ない」ということも弁えています。優秀な子ほどいくら勉強しても勉強する時間がないということを痛感しています。1つ1つの科目の理解を極めたいと思えば思うほど学ぶことが増えていくはずです。勉強には際限がありません。そして時間は確実に有限です。学園生活を「楽しまなければ」という考えの親子ならそれはそれでよろしいのかと思います。
 高校入試の現実は、生徒の振り分けです。都立西などへ進んだ子と底辺校へ進んだ子はここで明確に振り分けられます。能力はあっても、部活で時間を潰した子は底辺校へ行くことになります。高校で将来が振り分けられるというのが現実です。それがいいか悪いかという以前に現実です。明治の頃だって、帝大や旧制高校へ進むか否かが将来を決めたのは同じです。社会の中で生活する以上「振り分け」は避けられません。そして、結局は、小学生のときから、「勉強する」という道を選択したのなら、もう「勉強する」ことに没頭するしかないのです。部活を楽しみながらというのは、結局「振り分け」られてしまうのです。
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