竹の会というのは~これはある程度の知能ある子に限るのですが~ある期間の指導を経て~一気に開花するというのが一般です。他塾では大手であれ個人塾であれ1年2年も通って何の力もつかずに成績不振か゜露呈して終わるという子たちが大勢いるはずです。これは多くの親たちが誤解していることなのですが、小学であれば小4、小5、中学であれば中2まで、この期間の勉強というのは基本的に易しい、いや塾の方でもわざわざ難しいことは教えないで避ける、そうすることによって「頭の悪い」子たちも平均的な成績をとりますので親はついていっていると安心するわけです。中学の場合はやや違うのですが、つまり教科書レベルでいいということがありますが、その教科書レベルでさえもついていけないという子たちもかなりいるのでそこから問題化はします。
小学でも中学でも竹の会の指導というのは1年後2年後の開花を想定していますから、つまり一人の子を大成させるのに相当の期間をかけてじっくり作り上げていくという思想です。
中学でも中1からわたしの指導の流れに乗った子たちが過去の成功者、合格者たちであったということです。じっくりと育て上げる、育て上げていく、ということです。夏期や冬期というのがわたしの予定した必然の指導期間であることはもちろんです。夏期欠席という場合、指導の流れは崩れます。竹の会では退塾とされているのも指導が中断するからです。
小学ではやはり小4までに入会した子たちの成功率が高いのも訓練に時間がかかるからです。
計算を縦横無尽にこなし、「割合」を自在に使いこなし、思考を深めていく過程というのは、少なく見積もっても2年は必要です。小5の1年間で基本的な思考訓練をじっくりやっておくということです。もちろん小6になっての開花を見越しての指導です。
ところが、小5の2月、3月の入会となるとこれはもうある程度の知能のあることを前提としても、時間はガチガチで余裕はないと思います。
とはいっても、小5の2月入会でも、8か月経ち、9か月経って、一気に開花する子たちのいることをわたしは知っています。いつも私には強敵の母親の干渉がなければ、子どもがわたしの指示のみに素直にしたがって、かつ実行してくれるのであれば、一気に花咲かせる子たちも出てくるということです。
わたしの指導というのはそれはもう基本のところにじっくりと時間をかけるというのがひとつあります。小5の1年間をこの基本訓練に使えればと思います。小6になって一気に開花することを想定しての日々の地味な練習のくり返しが竹の会の指導です。
願わくば、早くに早くに竹の会に来てほしいというのが私の思いです。そしていったん入会したら、夏も冬も「中断」することなく休まず勉強を継続してほしいというのが竹の会の願いです。
ひとたび走り出したらもう走り続けるしかないというのがわたしの基本的な考え方です。家族行事(長期の旅行など)、個人的な習い事、お稽古事で長期の中断を頻繁にやるのなら、受検などはしないのがいいと思います。勉強には「中断」が最大の敵です。
どんなことがあろうともいつも塾にいて勉強を黙々としている、それが一番です。勉強が一番という揺るぎない信念の子こそが成功する子です。
もう一度強調しておきます。
竹の会というのは、1年、2年とかけてじっくりと基本から鍛えていき、将来の開花を想定しての長期的な見通しにたった指導をする塾です。
そのことはもう1年、2年と竹の会で勉強を続けてきた小学生、中学生がいちばん実感していることと思います。
現中2の女子は、小4の5月の入会ですから、もう5年近く竹の会に通っています。
これはもう長期の訓練計画です。中3の時期の開花をもちろん想定しての指導です。
小学では正直ある程度の知能は必要です。算数を解かせてみるとやはりもともとの知能というものが微妙な色彩のちがいのように表れます。
「割合」の概念を無垢な子どもの頭の中に設定していくわけですが、ここで設定が成功したかどうかは、やはり用意したリトマス問題で試すしかないわけですが、ここでもう知能の濃淡が反映されてくるわけです。どこまでが許容範囲なのかという問題は当然あります。将来の開花を見据えての正念場です。正直「見通しの立たない」という子も出ます。算数では次々とステップを踏んで問題が出されるわけですが、自分の頭で考えて正解の考え方ができるという子が将来の開花を約束された子です。この段階でズルをする子もいました。わたしの目を盗んでできる子にこっそり聞いたりするわけです。自滅行為だということがわからない分、賢くないということですけどね。いずれはわたしに必ず見破られます。
わたしの中では毎回の指導がいつも子どもの能力判定の真剣勝負の連続ということです。1問解かせてその度に能力判定しています。「わかりません」が多い子は能力判定中ということです。竹の会の子たちというのは、不断にわたしの実は鋭い能力判定の目にさらされているということですが、実は本人たちにはそういう意識はないと思います。
わたしが子どもたちがわたしの予期を破って「解いたりすると」わたしは「解いたの?」と感嘆することがありますが、これはわたしが能力判定しているということの証拠です。
わたしはだれよりも説明はうまいと思っています。わたしの説明で子どもたちが「わかる」のは、理由があります。説明がわかるには説明がわかるように設定する必要があるのです。割合の問題を説明するのなら、割合の基本枠組みというものはまず子どもたちの頭の中に設定しておかなければならない。その上で説明するのです。いきなりそういう基本設定のない子に説明してわからせるなどということはできるはずもないのです。説明の技術とはそういうものです。
しかし、説明して「わかる」というのは、わたしの中の能力判定はマイナスにはたらくわけでわたしにはあまり気分のいいことではありません。
1問1問のやりとりを重ねて子どもたちは成長していくものです。このような指導を重ねていく中から子どもたちのかすかな変化を感じつつも、ジビアに能力判定をしているのが本当のところです。子どもたちに能力の限界を見るのは辛いことです。ですからこれが限界なのかどうかはいつも躊躇があります。なんとか指導の力でなるのではないかという優柔不断さを見せるのもこのときかもしれません。子どもに向上心のある限り見捨てることはできないというのがわたしの思いでもあります。
わたしは指導に際しては常に能力判定、能力判断をしています。子どもたちの真の能力を見極めることに気を注いでいます。子どもたちの能力を、能力の真実を知ることが、より的確な指導を可能にするからです。
指導とは、能力判断です。向上心のない子の指導は不可能です。「できるようになりたい」という思いが、そういう思いが指導を可能にする前提なのです。
偽りのある子には指導は無理です。「偽り」とは自分に対する「偽り」であり、その裏返しとしての大人に対する「偽る」行動のことです。子どもは親にウソを言うものです。結論というか、ああしたい、こうしたいということは親に訴えますが、その理由はたいていウソです。本当の理由は別のところにありますが、親にはもっもらしいウソを言うものです。特に頭いい子というのはウソの理由もなかなかのものです。子どもたちの心というのは懸命になにかを護る力学がはたらいているのです。できない自分の実体が表面化しそうになると「回避する」「逃げる」という力学がはたらきます。勉強しない理由、やる気のなくなる理由はもっともらしいことをいっても、実は本当の理由は別のところにあるのは力学が教えてくれます。たとえば自分より下と思っていた人間に負けるのが現実となればここで「逃げる」というのも力学のなせる業です。子どもが微妙な友だち関係の中の力学的なバランスで行動の方向を決めているということです。いやそういう子たちがいるということです。
渋谷教室では、教室と指導室は分離しています。指導はもう1対1の真剣勝負です。子どもたちは気がついていないかもしれませんが、わたしはいつも子どもたちの真の能力がどこにあるのかを判定・判断しているのです。子どもたちの「わからない」は私には子どもたちの能力の判定で目まぐるしく頭の中が回っているときです。問題のレベルの判定、「分からない」という子どもの能力段階の推測、基本的なものの理解の再チェックとわたしはもうそれはいろいろと頭をめぐらしています。
医師が重篤な患者に匙を投げるように、私も匙を投げる、いやそういう気持ちになることもあります。すべては能力判定の為せる業です。わたしはもう27年もそういう仕事をやってきました。もちろん最初は能力判定などということなど思ってもいませんでした。ただがむしゃらに説明を尽くして教えるばかりの時代がありました。能力云々より「教える」ことでなんとかなると漠然と楽観したものです。オール1の子を教えたときはさすがに絶望しました。中学だともう正負の数、それも整数まで限界でしたね。能力の問題にいきなりパンチを食らわせられた感じです。
それからもういろいろな能力の子どもを相手にしてきました。ほとんど喋らない自閉症の子は男女ひとつりずつ経験しています。首を縦と横に振るだけで言葉はほとんど発しないのです。それでこういう子の扱いは何か得意で二人とも高校に合格していきましたっけ。男の子は最後の日に「世話になった」と一言言って立ち去りました。精一杯の言葉だったのですね。
塾の先生というのは能力との真剣勝負なんですね。
竹の会
i-タウンページ
小学でも中学でも竹の会の指導というのは1年後2年後の開花を想定していますから、つまり一人の子を大成させるのに相当の期間をかけてじっくり作り上げていくという思想です。
中学でも中1からわたしの指導の流れに乗った子たちが過去の成功者、合格者たちであったということです。じっくりと育て上げる、育て上げていく、ということです。夏期や冬期というのがわたしの予定した必然の指導期間であることはもちろんです。夏期欠席という場合、指導の流れは崩れます。竹の会では退塾とされているのも指導が中断するからです。
小学ではやはり小4までに入会した子たちの成功率が高いのも訓練に時間がかかるからです。
計算を縦横無尽にこなし、「割合」を自在に使いこなし、思考を深めていく過程というのは、少なく見積もっても2年は必要です。小5の1年間で基本的な思考訓練をじっくりやっておくということです。もちろん小6になっての開花を見越しての指導です。
ところが、小5の2月、3月の入会となるとこれはもうある程度の知能のあることを前提としても、時間はガチガチで余裕はないと思います。
とはいっても、小5の2月入会でも、8か月経ち、9か月経って、一気に開花する子たちのいることをわたしは知っています。いつも私には強敵の母親の干渉がなければ、子どもがわたしの指示のみに素直にしたがって、かつ実行してくれるのであれば、一気に花咲かせる子たちも出てくるということです。
わたしの指導というのはそれはもう基本のところにじっくりと時間をかけるというのがひとつあります。小5の1年間をこの基本訓練に使えればと思います。小6になって一気に開花することを想定しての日々の地味な練習のくり返しが竹の会の指導です。
願わくば、早くに早くに竹の会に来てほしいというのが私の思いです。そしていったん入会したら、夏も冬も「中断」することなく休まず勉強を継続してほしいというのが竹の会の願いです。
ひとたび走り出したらもう走り続けるしかないというのがわたしの基本的な考え方です。家族行事(長期の旅行など)、個人的な習い事、お稽古事で長期の中断を頻繁にやるのなら、受検などはしないのがいいと思います。勉強には「中断」が最大の敵です。
どんなことがあろうともいつも塾にいて勉強を黙々としている、それが一番です。勉強が一番という揺るぎない信念の子こそが成功する子です。
もう一度強調しておきます。
竹の会というのは、1年、2年とかけてじっくりと基本から鍛えていき、将来の開花を想定しての長期的な見通しにたった指導をする塾です。
そのことはもう1年、2年と竹の会で勉強を続けてきた小学生、中学生がいちばん実感していることと思います。
現中2の女子は、小4の5月の入会ですから、もう5年近く竹の会に通っています。
これはもう長期の訓練計画です。中3の時期の開花をもちろん想定しての指導です。
小学では正直ある程度の知能は必要です。算数を解かせてみるとやはりもともとの知能というものが微妙な色彩のちがいのように表れます。
「割合」の概念を無垢な子どもの頭の中に設定していくわけですが、ここで設定が成功したかどうかは、やはり用意したリトマス問題で試すしかないわけですが、ここでもう知能の濃淡が反映されてくるわけです。どこまでが許容範囲なのかという問題は当然あります。将来の開花を見据えての正念場です。正直「見通しの立たない」という子も出ます。算数では次々とステップを踏んで問題が出されるわけですが、自分の頭で考えて正解の考え方ができるという子が将来の開花を約束された子です。この段階でズルをする子もいました。わたしの目を盗んでできる子にこっそり聞いたりするわけです。自滅行為だということがわからない分、賢くないということですけどね。いずれはわたしに必ず見破られます。
わたしの中では毎回の指導がいつも子どもの能力判定の真剣勝負の連続ということです。1問解かせてその度に能力判定しています。「わかりません」が多い子は能力判定中ということです。竹の会の子たちというのは、不断にわたしの実は鋭い能力判定の目にさらされているということですが、実は本人たちにはそういう意識はないと思います。
わたしが子どもたちがわたしの予期を破って「解いたりすると」わたしは「解いたの?」と感嘆することがありますが、これはわたしが能力判定しているということの証拠です。
わたしはだれよりも説明はうまいと思っています。わたしの説明で子どもたちが「わかる」のは、理由があります。説明がわかるには説明がわかるように設定する必要があるのです。割合の問題を説明するのなら、割合の基本枠組みというものはまず子どもたちの頭の中に設定しておかなければならない。その上で説明するのです。いきなりそういう基本設定のない子に説明してわからせるなどということはできるはずもないのです。説明の技術とはそういうものです。
しかし、説明して「わかる」というのは、わたしの中の能力判定はマイナスにはたらくわけでわたしにはあまり気分のいいことではありません。
1問1問のやりとりを重ねて子どもたちは成長していくものです。このような指導を重ねていく中から子どもたちのかすかな変化を感じつつも、ジビアに能力判定をしているのが本当のところです。子どもたちに能力の限界を見るのは辛いことです。ですからこれが限界なのかどうかはいつも躊躇があります。なんとか指導の力でなるのではないかという優柔不断さを見せるのもこのときかもしれません。子どもに向上心のある限り見捨てることはできないというのがわたしの思いでもあります。
わたしは指導に際しては常に能力判定、能力判断をしています。子どもたちの真の能力を見極めることに気を注いでいます。子どもたちの能力を、能力の真実を知ることが、より的確な指導を可能にするからです。
指導とは、能力判断です。向上心のない子の指導は不可能です。「できるようになりたい」という思いが、そういう思いが指導を可能にする前提なのです。
偽りのある子には指導は無理です。「偽り」とは自分に対する「偽り」であり、その裏返しとしての大人に対する「偽る」行動のことです。子どもは親にウソを言うものです。結論というか、ああしたい、こうしたいということは親に訴えますが、その理由はたいていウソです。本当の理由は別のところにありますが、親にはもっもらしいウソを言うものです。特に頭いい子というのはウソの理由もなかなかのものです。子どもたちの心というのは懸命になにかを護る力学がはたらいているのです。できない自分の実体が表面化しそうになると「回避する」「逃げる」という力学がはたらきます。勉強しない理由、やる気のなくなる理由はもっともらしいことをいっても、実は本当の理由は別のところにあるのは力学が教えてくれます。たとえば自分より下と思っていた人間に負けるのが現実となればここで「逃げる」というのも力学のなせる業です。子どもが微妙な友だち関係の中の力学的なバランスで行動の方向を決めているということです。いやそういう子たちがいるということです。
渋谷教室では、教室と指導室は分離しています。指導はもう1対1の真剣勝負です。子どもたちは気がついていないかもしれませんが、わたしはいつも子どもたちの真の能力がどこにあるのかを判定・判断しているのです。子どもたちの「わからない」は私には子どもたちの能力の判定で目まぐるしく頭の中が回っているときです。問題のレベルの判定、「分からない」という子どもの能力段階の推測、基本的なものの理解の再チェックとわたしはもうそれはいろいろと頭をめぐらしています。
医師が重篤な患者に匙を投げるように、私も匙を投げる、いやそういう気持ちになることもあります。すべては能力判定の為せる業です。わたしはもう27年もそういう仕事をやってきました。もちろん最初は能力判定などということなど思ってもいませんでした。ただがむしゃらに説明を尽くして教えるばかりの時代がありました。能力云々より「教える」ことでなんとかなると漠然と楽観したものです。オール1の子を教えたときはさすがに絶望しました。中学だともう正負の数、それも整数まで限界でしたね。能力の問題にいきなりパンチを食らわせられた感じです。
それからもういろいろな能力の子どもを相手にしてきました。ほとんど喋らない自閉症の子は男女ひとつりずつ経験しています。首を縦と横に振るだけで言葉はほとんど発しないのです。それでこういう子の扱いは何か得意で二人とも高校に合格していきましたっけ。男の子は最後の日に「世話になった」と一言言って立ち去りました。精一杯の言葉だったのですね。
塾の先生というのは能力との真剣勝負なんですね。
竹の会
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