草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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実践指導講座(1)

2007年07月14日 19時26分47秒 | 
 いままで学校の勉強以外ほとんど勉強という勉強をしてこなかった子たちが, 急に思い立って公立中高一貫校を受けてみたいと言い出した。それが一般的な志望者の姿なのだと思う。まずいわゆる塾というものの経験がない子が大半である。分数の乗除も簡単な分数の通分さえもまだあまりやったことがないという子が多い。割合については学校でやったかどうかはっきりしないという実感をもつ程度なのである。総じて受験意識はかなり低い。
 昨今公立中高一貫校には大手進学塾で早くから中学受験をめざして訓練してきた子たちが鞍替えするケースが急増中である。今年の受験情報から推測しても, こうした子たちの中には東洋英和や久我山以上のクラスの偏差値を持つ子が相当数いることは推測に難くない。
 訓練されていない子たちには, 天敵といっても過言ではあるまい。竹の会は目下, この公立中ブームの渦中にある。勉強熱心な子であれば, 別に入会試験みたいなことはしないで, 入会を許可してるが, それにしてもスタートの遅さは深刻といえる。
 さて, 去年4月小4時に入会の現在小5が1年余の指導期間を経て1あたりをどうやらものにしようとしていること, あるいは去年の夏期指導(1日6時間指導)から参加した現在小6の子がほぼ完璧に1あたりをマスターしていることを考えると, 早期に指導を始めることが意味あることだと思わざるを得ない。
  特に4月以降入会の子たちが1あたりで四苦八苦していることを考えると時間をじっくりかけて指導をやれる小5の期間というものの重要性を思わざるを得ない。上にあげた小4の子は基本コースであったが, 小4夏・小4冬・小4春の講習と欠かさず指導を受けている。品川区という遠いところから通っているにもかかわらずほとんど休むこともなく続けている。その成果が表れてきたということである。この子は既に小6に伍して適性検査のための指導を受けている。先の小6にしても小5の時に夏期6時間×15日間を乗り切り, 以後特別コースで指導を受け続け, 冬の指導, 春の指導と実に熱心であった。そのかいあってか2月ころから開眼しメキメキと実力をつけてきた。既に慶應クラスの過去問に対等に思考できるまでに成長している。
 学校が休みのときに, 指導を集中して受けさせるか否か, あるいは継続して受けさせるか否かということは, その後のその子の能力の展開に決定的な差をもたらすことは疑いない。
 さてそうはいっても現在の竹の会の大半の子どもたちは公立志望にしても私立志望にしても1あたりあるいはその前段階の分数の四則からスタートせざるをえない。自分で考えるという習性を全くといっていいほどもたないままに過ごしてきた子たちには, つらい期間になることは想像に難くない。指導の度に「落ち込む」頻度も多いに違いない。
 今日のテーマは「実践指導講座」である。こういう子たちをいかにして1あたりのエキスパートにもっていくかという実践的指導方法論である。
 1あたりの思考ではふんだんに分数の処理をする。そこで分数のかなり高度な四則混合演算は使いこなせることが前提である。だから竹の会では計算がまだな子は徹底して計算から学ばせる。この間1あたりの指導は一切しない。指導そのものが無理だから。
 分数の四則混合がなんとか時間はかかっても計算できるようだと判断したら, そろそろ1あたりのしくみを説明していく。が, ここのところがいままで考えるという生活をしてこなかった子たちにはかなりの苦痛であると思われる。1あたりといいながら, 実は思考するという能力を切り開いているわけである。だからここのところは時間もかかり紆余曲折もある。挫折もあり絶望もある。ここのところを先の小4の子は1年以上をかけてこつこつと学んできたわけである。まさに継続こそが力になったわけである。時間のない現小6でもここのところは妥協できない。思考するという脳をいじめる時間はたっぷりととる必要がある。彼らのもっとも苦手とする事実分析はひとり算数だけの問題ではなく, 語彙力を中心とする国語読解力の問題でもある。あるいは日常の社会問題について一切考えることのない小学生には非日常にとまどうことばかりである。
 思考するとは, いったいどのようなことなのであろうか。
 いくら1あたりを練習しても, 未知のやや込み入った事実には, まったくといっていいほど思考停止してしまう子ら。
 彼らは事実を分解して, あらためてそれらの事実を意味あるものとしていわば一つのストーリとして構成することができないのだ。文脈は違うが, 養老猛司は「唯脳論」という著書の中で「じつは問題の立て方が誤っていると思う。誤った疑問からは, 正しい答えが出ないのは当然である。」というようなことをいっている。
 事実分析のできない子というのは, 事実に対して, まず問題が立てられない。問題を立てなければ正しい疑問が起こりようがない。正しい疑問を立てて, その疑問に対する正解を探そうとする。そこでいろいろ試行錯誤をくり返す。そのためには何が必要かという問題の立て方をする。そしてそのために必要なことを想像ないしは推理する。
 「4000円のお金をA,B,Cの3人で分けたところ, AとBの金額の比は, 4:3で, CはBの金額の2倍より100円多くなりました。Bの金額は何円ですか。」という問題がある。竹の会の指導で最近使ったものである。問題には「Aを1とすればBはどう表せますか?」「それではCはどう表せますか?」「最後にA+B+Cはどう表せますか?」というヒントを入れて1あたりの思考の手順を説明している。
 ヒントは問題の立て方を指示したものである。
 しかし, 思考停止する子にはこの問題の立て方さえもなんのヒントにもならない。ここでこのヒントに的確に意味を求め正解に達する子はすでに1あたりの作法をよく心得た子である。
 しかし, 問題の立て方を教えてもらっても, やはり思考は停止したままという子が普通にいるわけである。そこで問題はこういう子の指導である。問題の立て方がわからないという以上に, それ以前のなぜそのように問題を立てるのかというところでつまっているのである。
 「考える」というのは, 仮説と論証の積み重ねである。仮説とはつまるところ問題を立てる, あるいは正しい疑問をもつといことであり, 論証とはその答えを探すということである。思考停止する子はモノラルな思考回路しかないのである。「○円の△%は何円?」といった単純至極な疑問に短答することが精一杯なのである。そういう子を筋道を立てて思考の積み重ねをするまでに持っていけるかである。
 私は, よく指導するときに, 正しい疑問を投げかける。そしてその答えを考えさせる。その答えが出せたら, またまた正しい疑問を投げかける。またその答えがだせたら, さらに正しい疑問を投げかける。複雑な事実といってもせいぜい正しい疑問が3つもあれば問題は解決してしまう。私の普段の問題説明はそういうものである。思考停止する子には, こうした問題事実を何度も提示して, 正しい疑問とその答え探しの習慣を自覚させようとする。考える作法というものを私は日常の実践を通して彼らにたたきこんでいると思う。
 わからないとレジュメを持ってきた子どもに私は, 手ずから正しい疑問を投げかけ, その答えを考えさせる。いったん引き上げてその正しい疑問に対する答えを見つけてきた子に, 私は再び正しい次なる疑問を投げかける。さらに次の正しい疑問を投げかける前に正解にたどりつく子もいる。これが私の「考える」という作法を教え込む指導の実践の一こまである。レジュメという一つの思考のきっかけを通して, 考えるということはどういうことなのかということを子どもたちとのやりとりを通して教え込んでいく。これが実践指導講座の1である。
 指導とは, 特に小学生などの未熟な脳を指導するということは, ある意味真剣勝負である。彼らの脳をいかにして切り開くか, 私の日々の実践が苦悩に満ちたものであるということだけはいっておかなければなりません。
 


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