草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

直感な人たち

2007年07月15日 11時31分42秒 | 
 竹の会の指導は, 高校生は対象外としています。高校生については, 小学・中学からの継続という形でしか受け入れていません。確かに, かつては高校生コースというものが,ありまして, そこで私は数学や英語の講義をしていたわけです。講義をするというのは実は大変な事前の準備が必要でありまして, 毎日のように英語や数学の研究をしてノートにメモをしていた時期がありました。こうして蓄積された厖大なメモをもとにテキストを書き上げたりもしたわけです。しかし, 高校入試と中学入試で大学入試にまで手が回らなくなり, 思い切って大学入試を切ったわけです。私は, 小学生や中学生を仕上げることのほうに魅かれたということです。以後高校生を指導することはめったになくなりました。
 それでもいつも1人か2人はいましたけどね。慶應大学総合政策に現役合格したTさんもその1人でしたし, その2年後に慶應大学理工学部に合格したY君もその1人でした。いずれも小学生のときから, 竹の会をたよってきた子たちばかりで, 高校でもやりたいといわれれば,断ることも出来ませんから, 引受けることになったわけです。ですから, いきなり高校生を入会させるということはまずないわけです。
 ところで話しは変わりますが, 夏休みなどの長期休暇などに竹の会をお休みするという方も少ないですが,例年いたわけです。特に私立小・中の方に多かったわけですが, そういう方たちは夏などは海外に行ったりとレジャー優先でなかなか忙しいようで, 去年は思い切って, 夏を必須として不参加者についてはすべて退会していただいたわけです。そしてそういう方たち特に私立の方については今後は入会させないという方向で対処してきました。おかげで塾の中は, 勉強に熱心な方たちばかりの集まりとなり, かなりに集中した指導ができるようになりました。
  今年の夏は自由参加としましたが, 不参加者につきましては,やはり竹の会の指導コンセプトとは合わないかと思っています。勉強に対する思い入れというかスタンスの問題です。
 今日のテーマは, 「直感な人たち」ということです。私はHPの中でいろいろなことを書いているわけですが, 「心の指導」の中の西岡棟梁の考え方を紹介した部分をとらえて, 「男は外ではたらき, 女は家を守る」といった趣旨のことを棟梁がいっておられたのをとらえて, 私をそういう考え方の人間と考えた人もいたようです。現代の共働きがほとんどの生活実態とはかけ離れたかつての古き良き時代の棟梁の思いです。その考え方は法隆寺や薬師寺といった古代建築を再建してきた名人がその仕事に没頭して子どもたちに必死に働く後姿を見せてきた, そして家の中のことは妻が一心に守ってきたという自分の生活スタイルを実感として述べたものです。私は自分がそういう考え方をとるというのではなく, 古き良き時代を自分の昭和30年代に投射して棟梁の考え方を理解したといっているのです。私というものを理解するためには, たった一片の文章をとらえて, それがすべてだという理解をしてほしくはないのです。棟梁の思想が封建的な徒弟制度時代の思想に根ざしていたとしても, 自分の人生を古代の釘1本, 木のくせ, かんなくずの姿に一喜一憂し全身全霊で生きている姿に私は感動せざるを得ないのです。偽装がはびこる政治や社会の中で打算もなくこれだけまじめに生きるということが現代人にできるでしょうか。たとえ男女平等を第一に謳う現代人であっても, 封建的な男尊女卑は軽蔑する現代人であっても, 平気で偽装するのが現代人です。女卑ではなく人間を卑しめているのが現代人なのです。私は, 少なくとも身の丈だけで生きている西岡棟梁に, 嘘偽りのない西岡棟梁に, 偽装のない薬師寺を再建した西岡棟梁にたとえ棟梁の考え方が現代にそぐわないと批判されてもそれでも棟梁の肩を持ちたいと思います。その棟梁がいった人生の重みを抱えた言葉に耳を傾けたいと思います。毎日毎日かんなで木を削り一人前になるのに十年、二十年という世界で身の丈の人生をひとつのことだけに捧げてきた西岡棟梁の一つ一つの言葉に重みを感じているのです。
 人間は, 人の一面をとらえて, 直感的にそれをその一面をその人間の全人格のように理解してしまう。人をステレオタイプとしてしか理解しないといってもいい。ステレオタイプ的思考をとる人間はあまり頭を使わない人間だと思う。その人のことをあれやこれや詮索するよりも, この人はこういう人だと決めつけて理解したほうが当の当人にはいたって楽に違いないからである。
 しかし, 人間の心とは実に多面的な意識の集合体である。もちろんその人の生き方というものは意識の集合体としてとらえてもある一定の方向性をもって現れる。このことまでを否定するわけではない。実はひとりの人を理解するということは大変なことであって, 私は丸山真男が好きでよく読んだ。また漱石が好きでよく読んだ。丸山や漱石を理解するために1つの本を読んでも何もわからない。「全集」を読むしかないのである。つまりひとりの人を理解するのはそれだけ大変なことであってましてやたった一片のいいまわしでその人のすべてがわかるほど簡単ではないと言いたいのである。
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