草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

結局、算数力が基礎となる

2015年10月04日 08時45分18秒 | 
 おはようございます。本日は指導日です。気温20℃、秋らしい気配が漂いつつも窓を締め切るとやや蒸し暑い、そういう微妙な気候です。今日は、10月最初の指導日になります。
 小6にとりましては、この10月、11月は、ほんとうに最後の、実力を伸ばすための勉強の機会になるのかと思われます。
 実は、合否というのは、11月にはほぼ決まっているものです。12月というのは、それまでに培ってきた実力を不動のものにするための期間と考えていいと思います。さらに、1月にはもはや新しく学んでどうというときではないということです。 竹の会の子たちは、1月はそれまでにやってきたレジュメをひたすら見直す、解き直すということをやっている、それが理想の直前期の過ごし方ということになります。
 これまでに幾度となく申し述べてきましたが、ほんとうに勉強できる期間というのは、8月までです。このときまでに思い切り勉強しておかねばならない。この夏の竹の会の小6の勉強時間を尋ねると、もちろん指導のない日、一日フリーの日のことですが、4時間前後というのが、もっとも多い。この程度の勉強時間なら落ちても嘆くに当たらないと考えます。
 9月以降になると、受検生ならみんな猛勉強します。もうこの時期からは自分だけが勉強しているのではない。みんなやっているということです。
 このわたしの言葉を真摯にとらえて頑張り通してきた者のみが、2月9日の掲示板の前で誇らしげに立つことができる。 残念ながら去年の小6では悔いなくやりきった者は、1名しかいませんでした。
 今年の小6はどうか。正直かなり頑張っているという小6に対しても、まだまだ足りない、そういう認識を持っています。
 話しは変わりますが、現在竹の会では、将来、これから3年後と言っていいかと思いますが、進学重点校を受けることになる、進学重点校志望の小学生を募集しています。 
 日比谷、西、戸山クラスをめざす小学生です。正直、小6だと今からでは遅いかもしれません。小5であればかなり時間がある。小学生の間に、じっくりと基本を鍛える、思考力をつける、勉強に対するスタンスをつくりあげておく、そういうことが将来、中学生になって、無理なく、勉強する生活に溶け込んでゆくことになる、そういうコンセプトです。
 まず、勉強しようかというところで考える、そういう子では、中学はうまくいかないと思います。勉強するかどうかという過程はないのです。勉強することは当然であるという認識、そこから後は群を抜いた実行力しかないということです。どこまで実行するか、それだけです。
 勉強を先送りする、回避するという行動をとる、それだけで中学になってからの将来は予想できます。先送り、回避の後は、勉強そのものから逃避するようになる。落ちこぼれる子たちのいつも通ってきた、お決まりの道です。
 ある種の子どもたちには、小学生なら習い事、稽古事、中学生なら部活でしょうが、そういうものが、勉強回避の大義名分になっている側面がある。勉強嫌いな、あるいは勉強から自分が試される、真実をあからさまにされるということを避けたい子どもたちには、安息の場、機会になっているのかなと思います。
 課題を中々出してこないという子たちについて、親御さんも心配されて、いろいろと腐心されているようですが、基本、こういうものは強制してやらせても限界がある、いや無理にやらせればきっと心は持たない、そういう気がします。やらない、出さないというところで、そういう子たちは心のバランスというか、緊張を維持しているような気がするのです。
 まあ、実のところ、勉強がそれほど好きではない、そういうところに行き着くのでしょうけれど、勉強することに、喜びを見いだすというのは、一部の限られた子たち、その意味では選ばれた子たちなのかもしれません。そういう喜びというのは、勉強する、無心に勉強する中から生まれるもので、回避したいという意識がある限り巡り会うことのない感情です。
 勉強に抵抗を示す子たちというのは、わからないという事態がきっかけになるのは確かかもしれませんが、それ以上に、幼心を誘惑して止まない、子どもたちを惹きつける物事が多すぎるということでしょう。テレビ、音楽、漫画、ゲーム、映画、パソコン、スポーツ、ピアノ、バレー、・・とにかく子どもたちを夢中にする材料に事欠かない。勉強どころではないわけです。そういう中で子どもたちが、勉強を唯一として選ぶことは至難です。勉強というのは、脳を使う。わからないという、脳にとっては耐えられない苦痛である。それに長時間机についてただひたすら読む、書く、考えるなど耐えられないことです。そういう難行苦行に等しいことを嬉々としてやるはずもないわけです。 娯楽は受け身でいい。頭を使わなくて楽しませてくれる。 習い事や稽古事だって真剣にやればそれなりの成果がある。だから面白い。勉強ほど苦しいものはない。人間は苦しいものからは避けたがる。積極的に、能動的に脳を使うというのは、苦しいことです。しかし、その苦しいことを避けてばかりいれば、結局本当の、脳の本当の喜びというものを知らないままに、人生を過ごすことになる。 
 幸いにして、世の中というのは、勉強した者のみが、大人になって、よりよい道を歩むようにできている。いちおうそうなっている。横道や回り道はあるにしてもそうなっている。
 これは世の中を批判するのではなく、世の中も実は何がもっとも大切なことなのかということを知っていてその前提でうごいているということではないか。
 竹の会は昔から数学で有名であった。竹の会の子たちは、数学ができる、そういうことが近隣で評判になった。事実ある時期には代々木中学など近隣の中学の数学5を取っている子が竹の会で占められるということもあった。わたしは別に数学の専門家ではない。「わからない」という視点を常に忘れずに数学を教えてきただけである。数学の専門家ではないが、首都圏の偏差値55以上の高校ならどの高校も十数年以上の過去問をすべて解き尽くしてきた。常に自分で考えて自分の解き方にこだわってきた。できる限りシンプルで明快な解法にこだわってきた。ただそれだけのことである。
 数学なら何をどの程度教えればいいのか、そういうところを経験で学んできた。
 これは算数についても同じである。ただわたしが算数に開眼したのは、平成17年以降のことである。しかし、それまでに首都圏の中学入試の問題という問題は解き尽くしてきてはいた。
 算数というのは、数学とはちがう。もちろんである。算数というのは、つまるところ、割合と比で解く科目である。世のお父さん、お母さんが子どもに訊かれてやるように方程式は御法度である。方程式思考もアウトである。算数には算数の持ち場があるということである。幸いに昨今の問題は方程式を使うと難解になるような問題ばかりである。算数で考えろ、ということである。
 算数は割合と比で解くといったが、もっといえば、思考の妙で解く、そこに算数の面白さがある。つまり、算数を極めるということは、思考術を会得するということに同値である。
 こうなってくると、算数を極めることが、すなわちすべての基礎になるということになろうか。

 
 
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