草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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一度覚えたことは、すべて確実に自分のものとしていった、・・

2015年10月03日 21時50分46秒 | 
 鈴木英治の小説「天才といってよかった。技ののみ込みは早いとはいえなかったが、一度覚えたことは、すべて確実に自分のものとしていった。さらに、技に工夫を加えることを忘れず、常に上達しようとする気持ちを抱いていた」。今も矍鑠(かくしゃく)とした80を越えるであろう、老道場主がかつての弟子の天才ぶりを回顧する。
 ここには、見事に、勉強の秘訣が語られている。
 ただのみ込みの早い、遅いについては、いろいろ諸説もありえようか。
 頭の回転の速さというのは、やはりある。 いくら説明しても頭の中でつながらない子というのもいる。
 わたしなどは、決してのみ込みの早いほうではなかったように思うが、それでも中学時代のクラスの中では、理解が早いとされていた。が、井の中の蛙大海を知らず、の譬えの如く、進学校というのは、たくさんの中学のトップ・クラスが集まってくる、だからそういう連中のわかりのよさと比べると、わたしなどはとてものみ込みがいいとは言えなかった、と言っているのである。
 「一度覚えたことは忘れず」というのは、真理と思う。できない子というのは、最初覚えたことを片っ端から忘れていくようで、竹の会では、そういう子には、繰り返し繰り返し、基本が体の感覚の一部になるほどまでに練習させる。 
 できる子というのは、一度覚えたことを決して忘れない。問えば、きちんと答えられる。できない子というのは、何度問うてもまともに答えられることがない。
 勉強というのは、ある意味この「確実性」を体現できることである、と思念する。
 あいまいにする子ほどできないものである。よく定期テストでがんばって勉強したけれど点が悪いという子がいるけれど、勉強というものがわかっていない。知識を曖昧にしたままに終わらせるところで致命的といえる。
 勉強の極意は「確実に自分のものにする」こと、これである。
 「技に工夫を加えることを忘れず」とは、確実な知識を前提に、「考える」ことである。
 「考える」ということが、やはり決定的である。
 「考える」ということが、どういうことなのか分かっていない子が多すぎる。「技に工夫」というが、考えるとは、工夫である。もっと言えば、簡単に暗記するのは敗北であり、考えること、知恵をはたらかすことで、暗記しなくていい知識として割り振る工夫、これが考えるの内容である。
 まず、共通なものを整理する、これは実は覚えなくていい。共通でくくれないものが当面の暗記の対象になる。ただし、そのときになぜ例外なのかを考えることによって、「なるほど」ということで、暗記はずっと楽になる。頭のいい子は、「なるほど」という言葉に馴染む子である。「なるほど」と思えない子は理解の世界の外にある。
 さらに、「常に上達しようとする気持ちを抱いている」ことが大切である。
 これは、向上心である。受験に成功する子というのは、類い稀なる、合格へ強い信念の持ち主であった。

 強い意思、合格への強い意思が、奇跡を起こす、これもまた真理であろう。
 
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