草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

不思議なことには理由がある

2015年09月29日 08時42分49秒 | 
 おはようございます。
 昨日は蒸し暑かったですね。それでも朝夕の冷え冷えとした空気は確実に秋が忍び寄っていることを実感させてくれます。
 台風21号が大暴れしながら台北へ抜けていったとか、最大瞬間風速80mを越えていたとか、台湾の人たちには気の毒ですが、日本列島を避けてくれたことには内心ほっとしたところもあります。  
 明日で竹の会を始めてちょうど満30年になります。
 10月から31年目に入るのですね。1985年の10月に竹の会はとにかくも始まったのです。
 手書きの文をガリ版刷りではがきに刷り込んで代々木中学と上原中学の2年生に出したら、代々木中学の女子生徒の母親3人が連れ立ってやってきました。まだ、机もいすない、9月のある日のことでした。わたしの手元には、学参という会社が出していた開成高校の過去問集しかなかった。そんな状況にもかかわらずその3人のお母さんたちはわたしと話しただけでわたしに絶対の信を置いてくださりました。当初は1回2時間で週2回、授業形式で進めました。初めて塾というものをやりましたが、次から次に起こる、初めての事態に、その度に苦慮して、失敗しながら、経験を積み重ねっていきました。
 竹の会はたちまち代々木中に広まり、あっという間に竹の会の中にはできない生徒とできる生徒が30人近くも集まったのです。当時はまだ少子化の前でどこの学校もたくさんの生徒がいました。
 わたしは勉強することばかりでとにかく朝から晩まで本を読み問題を解きました。高校入試を経験するたびに過去問を解いてきたおかげで首都圏の高校ならほとんどの高校の過去問を、10年分以上解き尽くしました。中学受験の子がくれば中学受験のために過去問を読み、こちらもたいていの中学の問題を解き尽くしました。また大学受験の高校生がきたときは、さすがに過去問を解き尽くすなどということはできませんでしたが、たとえば、「大学への数学」という雑誌の臨時増刊をテキストにしたり、東大教養部の英語教科書を使ったりして、わたしも予習しながら、勉強してきました。
 いつからだろう、子どもを診て一瞬のうちにその子の能力の嵩を見抜けるようになったのは。
 実行力のない子というのは、まず伸びることはない。少なくとも飛躍的に伸びることはない。
 子どもが伸びるためにもっとも必要なもの大切なもの、それは実行力なのだということ。
 そして実行力のある子は結局能力の高い子なのだということ。
 この真理は変わらぬ指導の指標です。そのほかにわたしの中にはいろいろな指導真理というものがあります。
 「言われたことを言われたとおりにできる」子というのは、見通しがもてる。 「言われたことが言われたとおりにできない」子というのは、結局できないままに終わる。
 「言われたことしかできない」子というのは、「言われたことが言われたとおりにできない」子の範疇に結局は入る。
 あれこれと習い事、稽古事をやるのはいいけれど、勉強というのは、その合間にやってどうかなるほど甘いものではない。
 何かを追いながら、勉強もというのは虫がよすぎる。そういう人は勉強を大事だといいながら実は勉強を軽視している。心の底では勉強を見くびっている。勉強を見くびるというのは、勉強というものを浅いところでしか理解していない所作ではある。 
 適性問題では、不思議な現象、事実について、理由と判断が求められることが多い。 このときもっとも大切なのは、あたりまえの論理、普通の理解をまず踏むことである。そこから初めて「なぜ普通でないのか、あたりまえとちがうのか、つまりは、なぜ不思議なのか、という問いの糸口が見えてくる。
 まず考えるのである。そこで今までに覚えてきた知識をあれかこれかと思い出すのではない。知識を覚える勉強しかしてこないからそういうことになる。
 暗記、覚えるだけに脳を消耗させるとろくな事はない。勉強というのは、暗記しないで済む方法、覚えなくてもいい方法を考える、そういう楽しみがある。頭のいい人ほど覚えないで済ます、つまり考えることで解決できる道筋を見つけていくのが勉強と知っているのである。
 わからないときは、すぐに、特別の理由を探す、というのは、飛躍し過ぎである。人間の頭には、そんな超能力などない。まず手順を踏むことである。自分でわかること、わかっていることを追っていく。そういう中から、不思議の不思議たる所以がふと見えてくることがある。糸口が見つかることがある。
 いやひとり適性問題に限らない。 なんでもそうである。
 理科社会を一生懸命にやっている、テキストを7回回した、というのに模試で6割もとれない子もいれば、一方では、3回ほどまわして9割とる子もいる。これなど不思議なことではないか。
 7回回したというとき、中身が問題である。覚えるため、覚えることだけに脳を使っての7回なら、7回では足りないであろう。1回ごとに考えることで覚えないですますという工夫を重ねてきたか、である。
 足利義満が金閣寺を建てたと覚えるだけではダメだということである。なぜ金なのか、普通の木造ではだめだったのか、なぜそのようなものを建てたのか、次から次に疑問が湧く。それが考えるということである。頭から覚える。それではダメだと言っている。考えることをしながらの勉強なら理科なんか3回でもう要領がわかるはずである。
 原発の再稼働を急ぐ政権と電力会社、経済界、官僚たち、福島の事故で溶融した燃料棒は溶け落ちてその所在さえも推測でしか分からない、これを回収するのにこれから何十年もかかるとさえ云われている、それでもそちらは放っておいて、あちこちの原発を再稼働させるというその意図は何、なんとも不思議な話ではないか。
 わたしは病気は病院で医院で診療所で医者がつくるものではないかと疑っている。あるいは、懼れる人間の心が病気という魔物を作り上げていくのではないかと疑っている。
 医者からもらう病名ほどショッキングなことはない。命名はそれ自身呪いの言葉である。曖昧模糊とした、漠然として形さえもつかみがたい現象、対象も命名されるとたちまちのその輪郭を露わにする。なんとも不思議なことである。不思議の原因が命名にあるとしたら納得できる。少なくともわたしは納得できる。
 考えるとはどういうことか。
 中学受験の問題は、問いが明確である。問題はある一つの確定した答えを唯一の答えと想定している。採点に迷いはない。しかし、適性問題、いや世の中の問題というのは、問いそのものが明確でないことがいかに多いことか。わたしたちはまずすぐに答えを探そうとする。それも考えるのではなく、どこかにある答えを探そうとする。そういう脳の習性を身につけてきた。だから人が同じ行動をしていると安心する。自分だけがちがう行動をしていると不安になる。
 世の中の問題はほとんどが問いそのものがぼかされている。だからわたしたちはまず何が真の問いなのか、というところから出発しなければならない。
 問いが確定して初めてあたりまえのことをわたしたちはこれまでどう常識的に考えてきたかを踏むことになる。
 不思議な現象には、すぐに答えを探してはならない。まず問いを、核心を突く問いを見つけなければならない。問いさえ明確につかめればとにかくも考える道筋は見えてくる。


 
 
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