草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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負けに不思議の負けなし

2015年09月28日 12時50分41秒 | 
 おはようございます。朝からずっと昨日の提出課題のための解説レジュメのプリントアウト、次の課題のプリントアウトに追われていましたが、先ほど、一区切りつきました。昨日実施の作文の添削、水曜日に実施する新作レジュメなどの準備はこれからですが、まあ、なんとか順調に進んでおります。
 中学生は定期試験がこれからの生徒とすでに終わり結果の出た生徒とがいます。中には、全体にのびなやんでいるのかな、という生徒もいます。 勉強というのは、科目によって手を抜くということはしてはならないのであって、すべての科目に満遍なく気を配って勉強しなければならない。 点数が全体にとれていないという生徒は、普段からの各科目に対する気の配り方ができていないものと思われます。選科などは普段全くやらないで、試験前だけというのは、少なくとも優等生ではありえないことです。手薄とわかっていて放っておくなどということを平気でやるようではいい点などとれるはずがないのです。好き嫌い、得意不得意などと言っているのは、人間的ではありますが、勉強というものを見くびっています。 保体が嫌い、音楽が嫌い、美術が嫌い、技術家庭が嫌い、などというのは、ただ勉強したくないと言っているだけでしょ。 すべての科目は奥深い、決して侮れるものではないのである。 まず不得意という前に、その科目に敬意を払いなさい。 畏怖の念を持ちなさい。
 試験前にドタバタやるだけなんていうのは、その科目に失礼ではないか。 そんな勉強で点がとれると思っていたのなら、頭からその科目を馬鹿にしていると言われてもしかたない。
 数学が好きだから数学は夢中でやるが、他の科目は気が向いたとき、気になったときだけやるというのでは、伸び悩むのも当然でしょ。
 すべての科目に敬意を払いなさい。
 点がとれていないという科目はきっと頭の片隅にそういう科目をなんの根拠もないのに軽く見ている心の驕りがあるはずです。
 
 竹の会というのは、いちおう塾の範疇に入るのだと思うけれども、巷の塾とは異質と言っていいのでしょう。他の塾には見られない様々な特徴があると言えばあります。
 竹の会も始めた当初は、時間を区切って授業で進めていた。ただテキストというものはなかった。気に入った問題集などの問題をコピーして使っていた。新中学問題集に出会ったのはずっと後のことだ。わたしの研究が進み、ワープロ専用機の普及と相俟って、いろいろとプリントを作ることも多くなった。そうこうするうちにオリジナルテキストの執筆に取り組むこととなり没頭した時期があった。
 受験は過去問合格法というのが竹の会の定番であった。 高校受験の過去問を解き尽くし、中学受験の過去問を解き尽くす中から、新しい指導のありかたを追求する日々が続いた。
 数学の指導のありかた、英語の指導のありかた、などいつもよりよい指導の方法を考え、技術を磨いた。
 わたしが、わたしの指導の方法をコペルニクス的転回させたのは、あるパソコン・ソフトとの出会いであった。たまたま量販店で目にしたソフトをすぐ買ったけれど、そのソフトがその真価を発揮するのはさらに2から3年を要した。パソコンの進化もある。その当時は、ワープロ専用機の全盛時代が終わり、NECの98が人気の時代であった。わたしもNECのノートパソコンを購入した。98だった。そのパソコンに例のソフトを入れていたのは覚えているが、まだまだ使いこなしていなかった。 その後デスクトップ型のデルを購入した。本格的にレジュメの制作を始めたのは、おそらく平成17年からではなかったろうか。それまではいろいろなレジュメを作りながら、ソフトの練習を重ねていたのだと思う。プリンタも進化した。スキャナー進化した。OCRソフトも進化した。
 こうして竹の会では、レジュメ指導というものが、完成していった。もともとのコンセプト「考えさせる」指導というものを追求してきたらこうなった、今のような指導形態になった、というのが真実である。
 
 勝負というのはおかしなものである。表題は、坂岡真の小説「鬼役」の中の一節である。正確には、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」というものである。 小説中では、剣の悟達の境地にある老人の言葉として語られる。真の出典は不明。
 英語で高得点を取ったとする。それはなぜそんなに点がとれたのか、不思議である、ということはある。しかし、理科で50点というとき、その負けに不思議はない、という理解法で結構と思う。
 あるいは、オリンピックで金メダルがとれたのは、不思議ということはあるが、メダルが取れなかったというのは、ちっとも不思議はない。
 負けるというのは、あたりまえの範疇に属するのを本質とする。負けるのは当然だが、勝つのは奇跡である。
 実力がないから負けた、というのはわかりやすい説明だけれど、実力があったから勝った、実力がないのに勝った、というのはいずれも成り立つ。まさに不思議である。実力があるのに負けたというのは、実はじつりょくがはなかったのであり、負けても不思議はない。
 勝ちは常に不思議であり、負けは常に当然である。

 

 
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