草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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真贋を見抜く目、偽装社会のこと

2015年09月30日 10時37分27秒 | 
 おはようございます。 すっかり秋らしくなりました。 今日は朝から秋の青空が広がりました。ただ強い風が吹きつけて窓はとても開けられません。この風が空の曇を吹き飛ばしたのか、と勝手に納得しています。 さて、今日は、9月最後の指導日です。 9月は予想通りに一瞬のうちに過ぎていきました。受験生には、夏までがいちばん勉強できる時期だということは、常々言ってきましたが、凡人の常、そういう忠告もなかなか本気には信じてもらえない。 夏の勉強時間を訊いても3時間、4時間というのが圧倒的で、それでは残りの時間はいったい何をしているのか、と突っこみたくなります。
 今年の小6は全体に勉強時間の絶対量が少ないように思ってきました。
 小6のみなさんの中には、夏が過ぎてもまだまだ十分に時間があると思っていた人もいるかもしれません。その点は今年の合格者が「本番までは意外と早い」と言っていたように、気がつけば一瞬です。そして8月までに先送りしてきた勉強はまず取り戻すことはできない、それはあり得ない、ということにやがて気がつくでしょう。
 やれることはやれるときにやっておかねばならない。後でやろうと思ってもその時にはまたその時にやるべきことがある。十分に時間があるときにやらないで先送りするのは凡人の証しなのでしょうが、試験というものは、非凡にのみ為せる業です。非凡とは、やるべきことをその時にやりきる、非凡さです。
 「まだ、夏だから」、「まだ春だから」、「まだ5月だから」、「まだ5年だから」とわたしたちは、なんのてらいもなく凡人ぶりを発揮してきたではないですか。
 いつも変わらぬ勉強姿勢を貫いていた、本年桜修館高得点合格者の姿をよく思います。 雨の日も雪の日もどんなときも彼女はいつも竹の会のレジュメをやることに喜びを感じていることがわたしに伝わってきました。インフルエンザに罹って塾を休んだ時には、どんなに悲しんだか、お母さんからお聞きしました。お母さんは、「娘が泣いていたら、わたしも悲しくなって一緒に泣いてしまいました」とわたしに話されました。毎日、走って学校から帰ってくる、そしてすぐ家を飛び出して竹の会へ一刻も早くと行く、そういうようすを伝えてくれました。毎回毎回のもらえるレジュメが楽しみでうれしくてしかたなかったそうです。日曜日の指導の日に出した、夥しい課題レジュメは必ず全部解いて、水曜日には前の回の解き直しと一緒に出してきました。月曜日に鎌倉遠足があったときのこと、火曜日だって学校があります。しかし、彼女はいつもと変わらず、どっさりとレジュメを出してきたのです。疲れていたのに、時間もなかったのに、わたしは、「無理をしたんだな」とわかりました。そして彼女の責任感の強さに敬意の念を払わざるをえませんでした。彼女の必死さがわたしを動かしてきたとも言えます。わたしはいつも灘中や開成中の過去問集を抱えて、移動しましたし、暇さえあれば、難問ばかりを解いて、レジュメ化への道を模索しました。
 もっともっといいレジュメを、わたしは作り続けました。このわたしの、つくるレジュメについてきていたのは、唯一彼女だけでした。他の子たちは結局わたしのレジュメの何分の一をやったのか、不完全なままに本番を迎えてしまったと思います。
 小6のみなさんを見ていると、今年はずいぶんとわたしに楽をさせていると思います。ほとんどやらないままにやり過ごすということの意味することは自明なのにどうしてやらないのでしょうか。
 小説の中で、「真贋の区別がつかぬ」と言うと、悪人が「不慣れなお方には難しゅうございます」という件があります。古書切の真贋を指しているのですが、古書切というのは、古代に高貴な宮人などが和歌の一部を切り紙に書いたもの、と理解していただければいいでしょうか。著名な歌人の直筆だと、これはもちろん値が張る、もちろん江戸時代にそういうものが一部の好事家によってもてはやされたということですが。
 さてさて真贋の区別などほんとうにできるものか、いやむしろ騙す方が一枚も二枚も上なのではないか。騙されたのはしかたないといえるのではないか。そもそも真贋を区別するなどということはできない相談だったのではないか。小林秀雄が偽物(?)の掛け軸をずっと本物と信じて床の間に飾っていたのは有名であるが、それを友人に指摘されてその掛け軸を破り捨てたというところまでは知っていたけれど、小林秀雄の本を読んでいたらその逸話が出てきて、実はその破り捨てた掛け軸は本物だったという落ちがあった、と記憶している。
 いやいや真贋でここまで振り回されるとは、本物と信ずることはなんとも覚悟のいることではある。
 わたしなどはとうに真贋の区別などできないものとあきらめている。いや骨董の真贋ではもちろんない。世の中の万のことである。
 一年前のことだった、義母が腸の異常を訴えたのは。あのとき確かに股関節の右のあたりの痛みを訴えていた。が、かかりつけの内科医は、過去に手術を受けたことから癒着により腸が狭まり細くなっている、という診断をした。大きな病院で内視鏡検査も考えたが、高齢で本人も乗り気でなかったこともあり、うやむやになった。それから一年、事態は急変し、大きな病院は紹介がなければ見てもらえないという関もなんとか通過して、CTを撮ってみたら、なんと股関節の穴に小腸が落ち込んで閉塞しているということがわかった。それで実は一年前の同じ部分の痛みを訴えていたことと符合した。あのとき内視鏡しか頭になかったが、なぜか内科医も内視鏡しか方法がないという口吻だったが、いやあのとき入院した親戚筋の病院でCTもとったはずだが、見抜けなかったのだ。
 CTの画像を見せられても、そういう事態だとはさっぱりわからなかったけれど、見るべき人が見ればわかるのだな、とすっかり感心した次第である。
 確かに、慣れ、がいちばんの真贋を見分ける方法なのかなとも思う。
 今や世の中は人を騙す輩が溢れている。政府の保証だからといってもその政府が騙す側なのだからこうなるとなにもかも信じられないということになる。
 厚労省が新薬を認可して、深刻な薬害で苦しむ人が毎年のように出るのは、その証しであろう。信じていた社会保険庁のデタラメもさることながら、年金基金を投資で失った話しも開いた口がふさがらない。 全国に無駄なハコモノをたくさん作り、挙げ句に二束三文で売り出したという話しなどこれが国のやることかと呆れるばかりであるが、例によって、だれも責任をとらされることはない。
 各県に一つ貿易のできる港を作ってはみたものの、つまり膨大な税金を注ぎ込んでみたものの、どこの国もそんな不便な港を利用するはずもなく、立派な港は閑古鳥でさびれるばかりである。
 北海道の原野を近代的な高速道路が突き抜ける。しかし、走る車はほとんどなく、1日数台? 道路公団のやった仕事である。潤ったのはだれでしょうか。
 それで税金が足りないといっては、税金を上げる、新税金を作る。そして相も変わらず無駄なことに使いまくる。新国立競技場なんかその醜い実態が間抜けな連中によってさらけ出されただけのことではないか。それまでこそこそとわからないようにやってきたことだったのだが、・・。
 いや今日は偽装社会の話しから、大手塾の偽装のからくりを暴露しようと意気込んで書き始めたのだが、どうも横道ばかりにはいりこんで本論へ進めない。
 ただ本物かどうか、偽装かどうか、は見抜けなくても、1年後、2年後、受験後には「わかる」ことではないか。しかし、大手もさるものである、落ちても大手は決して責められることはなく、その責めはすべてあげて本人の能力の問題へと昇華されて一巻の終わりとなる。騙された親たちもこのときばかりはあきらめがいい。大手にクレームを持ち込むなどと言うことはできない品性を持ち合わせた方たちばかりである。しかし、これが小塾だとそうはいかない。落ちたのはあの塾が悪かった、と自分の子どもの責任は一切問題にならず、ここでは品性もの欠片もなくなる。
 大手に1年も通って、計算もまともにできない、割合のベタな問題ひとつも解けない、ということがわかれば、その大手は偽物の塾だった、ということにはならない不思議がある。
 しかし、大手に子どもを通わせるほとんどの親は大手の偽装に騙され続けるほどに大手という看板に対する信は揺るぎないようである。
 
 
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