草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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諸事雑感'11.10.24

2011年10月24日 09時08分18秒 | 
 お早うございます。本日は指導日です。空はどんよりとした曇り空です。昨日は蒸し暑かったと思うのですが、今日の朝は冷え込みました。これは風邪をひく子もでるのかなと心配しています。寝ている間は人間の体温はちょうど細菌・ウィルスが活動しやすいほどに下がるので、どうしても寝ている間にやられることが多い。それで前の晩多少暑くても用心して何かを着て寝ることが大切です。寝ている間は体温が下がるので薄着は禁物です。
 土日はしっかりと勉強できましたか。10月は土日がまだあと1回あります。10月、11月はまだまだです。是非「迷い」なく勉強に集中してください。

 ◯時代小説を読んでいると、中に入れ歯の老人が出てきた。鰻丼を食べた後、湯呑みの番茶に入れ歯を放り込み、洗った後そのお茶をうまそうに飲む。はて、江戸時代に入れ歯があったのか。時代は北斎が出てくるところから1800年くらいか。ネットで調べてみたが、西洋では17世紀に陶器製の入れ歯があったようなことを書いているが、日本の、しかも江戸時代に聞いたこともない。どんなものであろうか。

 ◯
「一抹の躊躇(ためらい)を捨てさり、腹を括った途端、からだじゅうに気力が横溢しはじめた」(坂岡真の小説に出てくる文章)
 津本陽の小説「塚原卜伝 十二番勝負」の三番勝負で、卜伝は薙刀の強敵と戦うことになった。その薙刀というのが両端に刃がついたものでこれは防ぎようがないと卜伝は悩む。いざ試合に臨んで、すっと前へ進んで一気に切り下げる。相手は意表を突かれて斬られる。これを「一の太刀」とした。卜伝は戦いに臨んで迷いから解き放たれた。その時「死ぬなら死んでもいい。どうせ死ぬのなら前に進み出て一太刀なりとも」と決断した。長刀の相手は斬られまいとしてたいてい後へ下がる。ところが卜伝は迷いなく前へ迅速にすすっと進んで自分の間合いに入るや一気に切り下げたのである。相手は意表を突かれて為す術もなく立ち尽くし斬られることとなる。
 真剣勝負では、迷ったほうが負ける。どうであろうか。試験本番がもう刻々と近づきつつある。11月が終わると実質2か月、いや冬期までと考えれば40日しかない。そのときに迷いなく臨めるのか。
 卜伝は、幼いときより、剣の「形」をそれは毎日千回も二千回も練習してきたとされる。鹿島神道流の形である。私は最近「形」の効用についてよく考える。日本の古典芸能などはまさに形に依拠しているのではなかろうか。武道でも形稽古というものが昔は重んじられていた。ところがいつの頃からか実践こそ大事という風潮が蔓延り、形が軽視される。形は単なる形式のように思われがちであるが、完成された形は美しい。形を踏むことによって人の心は平静さを保てる。形があるから、柔軟な形からはみ出る新しい形も生まれる。
 勉強しない子たちというのを観察していると、共通して「勉強の形」を持っていないことがすぐにわかる。できる子、勉強する子というのは、一定の姿勢を保ち、思考に心を委ねる形というものを持っている。中学生でだらりと姿勢も悪く、イスをぶらぶらさせたり、体の位置が定まらず、どうかすると机に寝そべるなどの姿勢をとってノートに書いているのかいないのか、本を読んでいるのか寝ているのか、要するにだらけた子というのが実に多い。こういう子というのは、結局成績も下がり将来の期待も持てない。
 勉強にも形がある。一端勉強を始めたらそれは真剣勝負である。小学生は勉強の形稽古をする時でもある。勉強するとはどういうことなのかを形から学んでいく。そして一端勉強を始めたらそれは真剣勝負である。勉強することに「迷いなく」斬ってほしい。

「無自覚」という罪
 無自覚の何がいけないかと言えば、無自覚な人間はそもそも何も疑問を持たない、つまり無思考なゆえに罪である。無自覚の罪は、人がどう思っているか、自分がどう思われているかなど一切考えない、つまり無神経に限らない。そもそもそういう人間というのは、哲学とは無縁であろう。
 さて、現代人というのは、実は無自覚な人間が多い。石原慎太郎は、よく差別発言をするが、これなどは全く無自覚にやっているとしか思えない。藤原正彦であったか、「国家の品格」という本を書いたのは。昭和女子大学長の坂東眞理子は「女性の品格」とかいう本を書いた。いずれもベストセラーである。国家、女性となんともつかみ所のない概念である。空っぽの概念といっていい。どうせ「~べきである」という明治期に国家が国民教化のために作った偏見を「無自覚」にあてはめるのであろうが、品格という差別用語も無自覚でどうもいけない。
 よく親が子どものことを「自覚がない」と嘆くが、自覚がないのが問題なのは、現状を当然として疑問を一切抱かない心的状態です。まともな人間なら、いろいろと疑問が出てくる。「おかしい」と思う。自覚がないのは、関心がないということにも通じる。
 私たちが普段当然と思ってまるで疑わないもの、常識と言われているもの、そうしたものに無自覚になってしまっているのが問題なのである。自覚するというのは、関心を持つことであり、疑うことである。人が当然と押しつけてくることに無自覚に受け入れるのではなく、自分の頭で考えて判断するということ、それが自覚するということである。無自覚というのは、考えないということであり、「うちの子は考えない」というのと同じである。
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