草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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考えるとは断片と断片を意味でつなぐ営みだ

2015年09月10日 12時07分45秒 | 
 おはようございます。昨日はお騒がせしました。竹の会には、江戸川区や江東区など遠くから通われている子どもたちがいますので、そうした子たちの行き帰りの交通手段の確保ということをまず第一に考えてしまいます。ですから、最悪の場合を想定して動かざるを得ません。幸いにも、みなさまに迅速にご対応いただき、確認をとることができました。
 ありがとうございました。
 今後とも、台風、ゲリラ豪雨、爆弾低気圧、大雪など予期せぬ事態が生じましたときは、草枕でまず第一報をお知らせすることになりますので、どうかそのような時は草枕をまず訪問してくださればと思います。
 今日も一日雨模様のようです。 竹の会の子たちは、家庭で何をすればいいのか、わかっていると思いますので、別段指示はしませんが、気にかかるのは、やはり、課題レジュメをきちんと出せない子たちのことです。本年桜修館に合格した女子が、いみじくも合格の秘訣について、「出されたレジュメをやりきること」と最後に後輩たちに残した言葉は一部の子たちにはそれほど響かなかったようです。
 彼女は最初は、いくら考えてもわからないときは涙が出て止まらなかった、と申しております。わたしの記憶でも日曜日に指導日に大量に出した課題が、月曜日は鎌倉遠足があって、やれたのは1日だけだと思うのですけど、水曜日の指導日にはドサッと出してきたことがありました。彼女はどんな悪条件でも出された次の指導日には必ず、解き直し、書き直しもふくめて、提出してきました。
 最後の方では、指導日に毎回出される、新作レジュメが楽しみでしかたなかったと、お母様が言っておられました。ですから、インフルで休んだときなどは、竹の会に行けないことを嘆いて泣いたそうです。それを見たお母様がまたいっしょに泣いたそうです。
 さて、昨日、今日と、竹の会初出版となる、「算数革命」(仮称)の原稿執筆に没頭しました。出版社か最低150ページと言われて、しかたなく新たに書き下ろしています。これまで竹の会の算数指導の初期段階で使う、「算数の魁」、「小学思考の素~割合問題編」には、解説というものを書いてません。指導の段階で説明する建前です。今回、「算数の魁」と「小学思考の素~割合問題編」から、子どもたちが、躓きそうな問題を抜粋して、それに詳しい解説をすることにしました。完成すれば、今後は、竹の会の子どもたちも算数の勉強に使える内容となり、速さとか、単位、縮尺、面積図など適宜盛り込んで、かなり充実した内容になりつつあります。なにしろ「小学思考の素~割合問題編」などに解説がつくというのは、子どもたちにはうれしいことではないでしょうか。
 今後は、入会すると、みなさんにはアマゾンから買っていただくことにはなりますが、すばらしい1冊ですから、きっとご納得いただけると信じています。
 なお、「算数の魁(さきがけ)」は、最初は「算数の塊(かたまり)」となっていました。今でもわたしのデータは「塊」となっています。いつから魁に変わったのかとんと記憶がありません。

 課題を添削していますと、よく思うことがあります。みなさんは、どうも言葉というものをそれほど大切に扱っていないのではないか、ということです。
 「問いに答える」と言いますけど、中には、全く問いは無視して、適当に例えば「教養のための理科」の文章を丸写ししているだけというのがありますが、問いが何を書け、と求めているのか、よく了解した上で、その問いに即した答案を書く、という意識が欠落しているように思います。勉強の基本姿勢が、考える、読み解くというところになく、模倣する、写す、というところに意識が奪われているように感じます。言葉のもつ意味を一語一語吟味し、考えた意味と意味を自らの言葉で「つないでいく」という地道な営為が思考をするということです。
 もっと言葉というものを、問題文の一語一語というものを大切にしなければならないと思うのです。
 小6でよく適性過去問レジュメを解いて持ってくる、すると必ずどこやらの言葉を読み飛ばしたのか、指摘されて「あっ」とまたやり直すために席に戻る、またやってきてもまたどこやらの言葉をまるで無視しているというようなことをやる子がいます。これはだれということではなくてよくいる、ということです。問題が解けていないのはほとんどが言葉を注意深く吟味していないせいだ、ということです。
 もっと言葉を大切に扱ってほしいと思うのです。特に、問題文に表れている言葉というのは、ひとつとして読み飛ばしていいものはない、ひとつひとつの言葉の意味をよく吟味して、意味でつないでいってほしい、と思うのです。
 鶴見俊輔という、この前他界された有名な思想家がいます。あの人の初期の論文に「言葉のお守り的使用法について」(思想の科学創刊号掲載)というのがあります。この間、朝日のニュースの本棚に紹介されていました。教室の書架を探したら、「ことばと創造」(河出文庫)の中に、所収されていました。
 まあ、鶴見さんの本は、「国体」、「皇道」、「日本的」といった言葉に、中身のない言葉として、批判を加えたものなんですが、安倍総理の宣う言葉には、そういう言葉ばかりなのではないかと思いますけど、翻って、わたしたちだって、五十歩百歩のようなところがある、と思った次第です。
 自分で意味をはっきり説明できる言葉によって考える、これでしょ。
 考えてみれば、「わからない」という子どもたちは、考えるということがわからない、のではないか。
 まず、自分で意味をはっきりとさせるということが、考える第一歩なのに、そこのところを端折っているふしがあります。 
 言葉のひとつひとつを吟味しないのです。それどころか、文章の中身を考えないで、表面的な形態が似ているかどうか、という彼ら彼女ら特有の処理法というものを持っていて、真似する、のが、彼ら彼女らの「考える」ということなのです。
 考えるというのは、対象の言葉の意味を吟味し、言葉と言葉を「意味でつなぐ」作業です。そして意味で数珠のようにつながれた言葉から、ひとつのまとまった意味を見いだす作業です。
 できないという子を見ていると、ここのところが、全く欠落している、ということがよくわかります。


 
 先日、息子が台風の中、名古屋で撮った写真です。名古屋城ということです。
 
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