小池龍之介著 僧侶
住む場所にこだわらない という章より
どこに住むかこだわらない。
今のお寺でもある住居は、静か、夏涼しい、虫が多すぎる、アクセスが悪すぎる、逆にアクセスが良すぎると悩ましいという思いもしたこともある。
以前、2008年頃は、定住せず、瞑想三昧、修行。世田谷豪徳寺近くのマンスリーで2ヶ月ほど好意で住まわせてもらった。どこに住むかはどうでも良かった。その後同じ町で賃貸を探し、おんぼろアパートにした。部屋はカビがあり、線路が近く、しょっちゅうカンカンの音。お隣さんの笑い声、ケンカの声、テレビの音がいつも聞こえていた。けれども修行に専念していて五感に触れる刺激に反応しない「捨」の訓練を受けていた自分にとっては、それらは全く気にならなかった。学生時代を思い起こすと、隣のテレビの音に過敏に反応して、深夜なのにこの音量でうるさいと、腹をたてて眠れなかったこともあったので、自分自身の変化を面白く思ったくらい。
うるさくてむかつく音、という実体が存在するわけではなく、あくまでムカつきたいという煩悩のエネルギーが自分の中で働くからこそ、音をうるさいと感じるだけだったのだなあ。
私たちの心は、快適さに甘やかされると弱くなるし、逆に今の自分には耐えられない苦行だと、ストレスにさらされて、心が育つどころかいじけてしまいます。
中道を歩むのが仏道。住む環境が悪すぎると、苦行になりノイローゼになるかのしれない。逆に快適すぎると、こだわりで縛りつけ甘やかされる。
ほどよいさじ加減で、何点かは望む快適さは満たしつつ、これくらいなら耐えられそうくらいのアクセスが悪いとか、虫が多いとかの不便、不満に挑戦してみることです。
不便さ、悪い点も楽しめるようになり、こだわりを少なくすることに成功したら、もっと自由に他の場所に移り住むことができる。自分が変われば、いかなる場所でも中道を歩んでいると感じられるかもしれない。
住む場所にこだわらない という章より
どこに住むかこだわらない。
今のお寺でもある住居は、静か、夏涼しい、虫が多すぎる、アクセスが悪すぎる、逆にアクセスが良すぎると悩ましいという思いもしたこともある。
以前、2008年頃は、定住せず、瞑想三昧、修行。世田谷豪徳寺近くのマンスリーで2ヶ月ほど好意で住まわせてもらった。どこに住むかはどうでも良かった。その後同じ町で賃貸を探し、おんぼろアパートにした。部屋はカビがあり、線路が近く、しょっちゅうカンカンの音。お隣さんの笑い声、ケンカの声、テレビの音がいつも聞こえていた。けれども修行に専念していて五感に触れる刺激に反応しない「捨」の訓練を受けていた自分にとっては、それらは全く気にならなかった。学生時代を思い起こすと、隣のテレビの音に過敏に反応して、深夜なのにこの音量でうるさいと、腹をたてて眠れなかったこともあったので、自分自身の変化を面白く思ったくらい。
うるさくてむかつく音、という実体が存在するわけではなく、あくまでムカつきたいという煩悩のエネルギーが自分の中で働くからこそ、音をうるさいと感じるだけだったのだなあ。
私たちの心は、快適さに甘やかされると弱くなるし、逆に今の自分には耐えられない苦行だと、ストレスにさらされて、心が育つどころかいじけてしまいます。
中道を歩むのが仏道。住む環境が悪すぎると、苦行になりノイローゼになるかのしれない。逆に快適すぎると、こだわりで縛りつけ甘やかされる。
ほどよいさじ加減で、何点かは望む快適さは満たしつつ、これくらいなら耐えられそうくらいのアクセスが悪いとか、虫が多いとかの不便、不満に挑戦してみることです。
不便さ、悪い点も楽しめるようになり、こだわりを少なくすることに成功したら、もっと自由に他の場所に移り住むことができる。自分が変われば、いかなる場所でも中道を歩んでいると感じられるかもしれない。
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