4人それぞれの、人生に裏打ちされたピアノ。ピアノを奏でる意味を突き詰める、特に考えずというか本能的に魅せられる、夢を実現、ある意味陶酔感にしたる、それぞれ。
パガニーニの超絶技巧の曲目もそれぞれの演奏。特にピアノに限らず習い事は小さい頃はあるところまでいくと嫌で嫌でしょうがなくなり辞めるか悩み、大半の人は辞めてしまいます。それを越えて意味を見いだすとまた、異なった、更に深みが出て来ると。
昔、10年以上ピアノをやっていて辞めてしまった経験からよくわかります。そんな若い人達の競演が素敵な映画
なんとなく参加したボランティア。
でも、今の日本人では当たり前のことが世界では当たり前でないということに驚く若者たち。水を飲むことに一日の大半を費やすこと、そして、その水が命を落とすことになること。そんなことを初めて知り戸惑う若者たち、そしてそれを引っ張っていくいつまでも熱意を失わない人達。大作ではありませんが宝石箱のような映画。
三谷幸喜さんの映画。面白くないはずはありません!
出て来る”悪人”がまったく憎めない。
芸達者な若い人達から大ベテランまで。ジェットコースターのような映画。文句なしに楽しめました。
人は生きていると必ず別れがあります。
ひとりで生活していても(絶海の孤島にでもいない限り)必ず、別れが。それは伴侶であったり、身内、知人、ペット。
そんなことを小さな子供と老人とのやり取りが素敵な映画。静かな、でも観終わってから心に話しかけてくる映画。
地方の、農村地帯のコミュニティ内での村八分。村八分とは均一的な日本社会での自らの安定した地位を保つために他者を犠牲にして安らかにすごそうという思いから出て来ると思います。なにも日本の農村、田舎の話ではなく、都会でもSNSでのイジメ、阻害、無視でも起きています。これは日本の社会自身が閉鎖的で平均化を求める、あるいは平均的でないと排出され、集団からはじき出されると生きていけない、そんな日本の独特な社会を描いた映画。非常に重苦しいですが考えさせられる古くて新しい映画。
価値観が混沌とした現代の、特に政治的に混乱しているイタリアにかつての独裁者が戻ってきた、ブラックコメディ映画。
民主主義が衆愚政治化しかかっている現代に投げかけるアンチテーゼ。
価値観の多様化が世界中で広まっています。日本でもそうですが価値観の多様化を主張する人達ほど自分たちとは異なった価値観を認めようとしない、教条化が目立っています。そしてそこには必ず出て来る”自由”という言葉。そんな人達はある意味社会全体から見れば多くはなく、大半の人達は自らのことのみ、ミーイズムに囚われています。そんななか、このような、ある意味、シングルイシュー化された強いメッセージを出す人達に惹かれていくのは歴史の繰り返しかもしれませんし、その中で独裁者が出て来るのでしょう。ただし、当時とは異なり現代の怖さは、やはりSNSというインターネットの世界。根拠のない、検証のしようがない情報で引きずられていきます。ナチスのゲッペルスは、まさにその先駆け。今はもっと高度な、そして巧みな情報操作をあたかも事実のように思ってしまう、そんな怖い世界。
先日も名古屋であった芸術祭でも一方的な情報ばかり流され(活動家の人達はこのような傾向が強い)、上皇の写真を燃やしたものや、特攻隊員の遺書を集めて愚かな日本人としたものを表現の自由”のもとに出す感覚、そしてそのことを一切報道しない日本のマスコミとそれを規制することへのインターネット上の情報戦争。
もっと意見の対立する人達が冷静に話ができない、攻撃的な社会。そして昔よりも現代のほうがより、巧妙に洗脳されている、そんな怖さも感じる映画。
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