田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

母が逝きました 07(葬儀当日)

2014年01月27日 | 宗教その他
 葬儀にさいして、とても心配なことがありました。以前にも書きましたが、私は、震災後に己の感情コントロールができなくなりました。涙もろくなったり、はらはらドキドキする映画やスポーツが見られなくなりました。ですから葬儀において、母のことを話すと、感情がこみ上げて、言葉にならなくなるような気がするのでした。このことを妻や息子には話しておきました。いざという時は、ヘルプを頼んでおきました。
 葬儀は11時からです。妻は喪服の着付のために9時に斎場へ行かねばなりません。早めの朝食を済ませ、姉に留守番を頼み妻を送りました。
 従兄弟は故郷の神主さんを車に乗せて、早めに斎場へ来てくれました。カッパチャンは神主さんと打ち合わせ、用意した祭壇で説明を受けたり、斎場の説明をしたり忙しく動いていました。
 神主さんの衣替えは姉が手伝ってくれました。妻の姉さん夫婦も兄さん夫婦も到着されました。私は挨拶がうまくできるか、それを考えると、心臓が高鳴ります。母のことを考えると、ぐっとこみ上げるものがあり、目頭が熱くなります。考えれば考えるほど、ますます心配になりました。
 11時、一秒の誤差も無く、階段を神主さんが降りてきました。この正確さは単なる偶然であったと思いますが、カッパチャンは驚くとともに、とても安心した様子でした。
 葬儀は始まりました。神道の祭詞奏上は、解る言葉で語られます。母の年譜が語られました。昔々は、町会議員の妻として、婦人会やら未亡人会やらの世話もしたらしい。私より神主のMさんの方が良く知っているのだ。Mさんが棺の小窓を開けて母を見たとき、神主さんが泣いているのを見てしまい、私の感情はMAXに達してしまいました。
 玉串奉奠、喪主である私が一番に行います。仏事の焼香と同じですが、やたら作法に神経を使います。この葬儀でも、カッパチャンが皆に作法を教えていました。私など茎を向こうにすれば・・・程度しか考えませんが・・・。
 さて、妻を伴い玉串を受け取りに、葬儀社係りの人の前に進み出ました。あれ!!玉串の向きが逆だぞ!!。私は慌てず、何事も無いように、右手をそっと伸ばして、係り員の右手が持つ茎部分を、手をクロスさせて玉串を受け取りました。係りの人が気づき、体がピクっとしました。カッパチャンも気づいたみたいです。でもこの行為が私に落ち着きを取り戻してくれました。
 葬儀は終了しました。喪主の挨拶です。カッパチャンが「喪主様から一言ご挨拶をいただきます。」ま、この挨拶は定型文があります。ほとんどの方は、斎場が用意した定型文を読むのですが、せっかくの家族葬ですから、自分の言葉でかたりました。
 「母は昔から、まわしの○○さんと言われていました。」まわしとは相撲のまわしではなく、準備をするということです。「私は母の遺言に添って、この葬儀を考えました。母がこの日を意識し始め、死について話し合いました。母は、延命治療をしないで欲しい、葬儀は質素にして欲しい、などと話しておりました。」母の話を少ししました。
 「一昨年のことですが、今日の葬儀をして下さった神主のMさま、本家のMさんに助けられながら、故郷の墓を移転しました。それを母はたいそう喜んでくれました・・・・。」
 ここで私は、墓で喜ぶ母の姿がフラッシュバックしてしまい、言葉が出なくなりました。涙があふれてきました。私は「すみません、感情を表さない私ですが、今日はつい・・・・。」私は上を向き、涙が流れないようにしました。この時間ずいぶん長かったように思います。やっとのことで、平静さを取り戻し、前が見えるようになりました。最後列の妻の姉のご主人様が、両手のひらを下に向けて『深呼吸、深呼吸、落ち着け~』のジェスチャーをしてくださっていました。「母は念願であったお墓参りができ、とても喜び、今日にでもここに入りたい、などの冗談を言ってました。とても母が喜んでくれ、始めての親孝行ができた気がしました。これも神主様のMさんと従兄弟のおかげです。本日は母のために参列くださりありがとうございました。」で終えました。
 さて、カッパチャンが葬儀終了、出棺の予定を言わねばならぬとき、彼はこの葬儀にひどく感激してしまい、声が裏返ってしまいました。手作りの挨拶がまことに良かったと言ってくれました。でも私は、この後の精進落しの挨拶もしなければなりません。もっとも皆が知りたい、親の葬式にも顔を出さない兄の話をしなければなりません。気が休まりません。この話は次回です。