田神六兎の明るい日記帳

田神六兎の過去、現在、そして起こるであろう出来事を楽しく明るくお伝えします。

母が逝きました 01

2014年01月20日 | 日記
 17日 金曜日、風邪気味の妻に代わって、母を見舞いました。そのとき見舞った様子をブログにアップしました。当然ながら、状況は良くありませんでしたが、命が消えかかる時が近づいていることは明らかでした。
 17日夕刻、妻と早めの夕食、6時頃でした。施設から電話がありました。「呼吸が浅くなりました。来ていただけませんか。」とのことでした。私は「わかりました。軽く食事して伺います。」と答え、急いでお茶漬けを流し込みました。妻と出ようとしたとき、デイ部門のGさんから「急いでください。」と催促の電話がありました。「はいはい、これから出ます。安全運転で行きます。」と答えました。自宅から施設まで7、8分です。来るべき時が来たのです。
 エレベーターで9階、廊下に心電計の乾いた電子音が響いていました。室には師長さんがいました。「午後、急激に悪くなりました。」と教えてくれました。私と妻はベッドを挟んで、母の顔を見ました。目を瞑り、開いた口の呼吸は、ほとんど感じられませんでした。時々首下の筋肉が小さく痙攣していました。
 室に入って15分も過ぎていませんでした。師長の「心電計がフラットになりました。お二人の気配を感じられたみたいです。お母さんは待ってらしたのかしら・・・。こんな最後を見るのは始めてです。お嫁さんを感じて、安心なさったのかなぁ。」と、少し涙ぐんでいるような気がしました。
 勤務を終えて帰り支度の職員さん達が、続々と室に集まりました。担当のOさんが「お母さんはここの人気者でしたので・・・。」若いヘルパーさんや職員の方が母に別れを告げていました。つい私もこみ上げるものがありました。7時30分頃、母体病院の院長が入室して、最後の診断がされました。院長が「きっと痛みはあったと思うが、辛抱強い人でしたねぇ。では、7時30分を臨終の時間とします。」と死亡が宣告されました
 師長と看護師、ヘルパーさん達が「お母様をきれいにします。1時間ほどお時間をください。」と室の扉が閉ざされました。私は、かねて考えていた葬儀社へ電話をしました。「9時には湯灌(ゆかん)が終わるそうだから、その頃来て下さい。」私と妻は室の前の詰め所で待ちました。入れ替わり、職員さんの弔問を受け、あらためて母の人気ぶりを知りました。
 9時少し前に「田神さん、見てください。」と師長に促され、室に入りました。黄疸が強く出ていた顔色も、ファンデーションで整えられ、落ちた顎も綺麗にしてありました。入れ歯もいれてあり、口紅もさしてありました。少し前の、衰える前の母の笑顔がありました。
 葬儀社のストレッチャーに乗せ、エレベーターで降りました。1Fのデイケア室に、夜勤職員がたくさん集まっていました。最後に母の顔を見せました。皆が見送ってくれました。そして、私と妻は、斎場の安置室に向かったのでした。
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 記憶が薄らぐ前に母の葬儀について書こうと思います。ところが、何かと雑用があります。仕事の締め切りは伸ばせません。今までのように、毎日アップはできそうにもありません。シコシコ書きますので、楽しみにしてください。どうぞよろしくねぇ・・・。