hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

賤ヶ岳古戦場  2009.08.19

2009年08月20日 09時35分17秒 | 歴史・遺跡・伝説

  所在地 賤ヶ岳古戦場  滋賀県伊香郡木之本町

賤ヶ岳古戦場へ  2009.08.19 「青春きっぷ」で北陸本線木之本駅に到着です。
 ここよりバスに乗車 「賤ヶ岳リフト」登り口のバス停「大音」まで行きます。  ¥200

バスを降りて登り口までしばらく進むと「伊香具小学校」があります。
小学校の校舎正面の松と正門に並び「二宮金次郎像」がありました。現在の学校では、
   「二宮金次郎像」は ほとんど見かけませんが珍しいですね、
校訓は、「つよく生いたて、なさけもて、よくつとめよ」で
「三樹の教え(本館前の古木黒松、赤松、ヒイラギ)」として、校区の人々の間にも深く浸透しています。
この学校では「人権尊重の精神を培い、知、徳、体の調和のとれた心豊かでたくましい人間形成を目指」

 「粉かけ地蔵(乳呉れ地蔵とも呼ばれています)」
粉(はったい粉=方言では・かみ粉とも言う)を供えて、お乳がよくでますように、
  又乳ばなれをお願いすると共に、次の子供が生まれるまで乳を預かってくださると言われています。
  その昔、大音の峠越えで山梨子の港え向かう子ずれの旅人が、お地蔵様の前まで来たとき
  おぶっていた子が急に泣き出し、お地蔵様の前の大きな石に腰をおろしお乳を飲ませようとしたが
  お乳が出なかったので、お地蔵様に供えてあった粉を乳首に着けて含ませたところ
  不思議なことにお乳が出て、子供が空腹を満たしスヤスヤと眠ったといわれています

 道中、綺麗な「芙蓉(ふよう)」の花が青空に映えています。
昔から美しい人のたとえに用いられている花で、美しくしとやかな顔立ちのことを
   「芙蓉の顔」といいます。

 「西光寺」がリフトの登り口手前にあり駐車場もあります。車で行くときはここを利用して
「曹洞宗・護国山西光寺」
 往古は天台宗の護国寺でしたが、火災にあい1299年のころ永平寺8世喜純禅師が住職となり
 禅宗に転じ、護国山西光寺と改めました。 また天正11年の賤ヶ岳合戦の兵火により消滅しましたが、
 安永6年(世紀1777年)西浅井町余村の正応寺(永平寺の直末)10世壷鱗和尚を迎え復興しました。

 これから この道を上がり「リフト」に乗り「賤ヶ岳古戦場」跡へ
この付近に「賤ヶ岳7本槍」で有名な人の「のぼり旗」があります。
この戦いで秀吉の武勲者として、史上に名をとどめた「賤ヶ岳の7本槍」とよばれる7人衆がいた
 大岩山にとどまっていた佐久間盛政の部隊が退却を開始したのを知り、秀吉の旗下7人衆が、
 どっと斬りこみ一番槍の功をたてたのである、福島正則を隊長に 加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・
 片桐且元・平野長泰・糟野武則の若武者たちであった。
これは、親類、累代の家来の少なかった秀吉が自分の共回りに恩賞を多く与えたのでしょう。

 賤ヶ岳山麓の木之本町大音から一気に山頂付近まで上がることが出来ます。
 リフトを降りましたら徒歩で約10分ほどで山頂までいけます。  リフト¥400

 「賤ヶ岳の合戦」
山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田家中で大きな発言権を握っていくが、
 これに反感を募らせる武将も多く、その旗頭は柴田勝家であった。秀吉は勝家の攻撃の機会を狙って
 天正11年(1583年)4月、北近江に出陣し 大岩山砦の秀吉方の中川清秀が佐久間盛政に討たれた。
 大垣でこの報を受けた秀吉は好機到来とばかり、木之本へ急がせ意気あがる佐久間盛政を賤ヶ岳で襲った
 盛政は敗退し勝家は自刀しました。この賤ヶ岳の勝利で秀吉は名実ともに天下人への道へ独走です

 賤ヶ岳山頂付近の展望台です。天気のいい日は「琵琶湖」「余呉湖」が綺麗に見えます。

 「琵琶湖」の北側が望めます。

 右側には「余呉湖」が 少し「もや」が架かっていますが、

 ここは、琵琶湖八景「新雪賤ヶ岳の大観」に選ばれ、湖北随一の景勝地となっています。

賤ヶ岳の合戦は、戦国時代に本能寺で倒れた織田信長の後を狙う豊臣秀吉と柴田勝家の
 主導権争いで激しい戦いの後に累々と屍が重なり、武具を洗い流した余呉湖の水が真赤に
 染まったといいます。この合戦で勝利した秀吉が、後に天下人となりました。

 ここは、賤ヶ岳の「三角点」があるところで、標高 421.1mです。

 余呉湖を望む山頂からJR余呉駅まで「ハイキングコース(歴史と森林浴コース)」があります。

 平坦な道と下りの道が交互に続く、杉の木立のトンネルです。

 この付近は杉の木が本当に多いですね

 「猿が馬場」に到着しました。
羽柴秀吉は最初ここで敗退する、佐久間盛政の追撃戦を指揮していましたが、
 戦線が余呉湖西岸に移ったため陣を賤ヶ岳山頂に移しました。

 「首洗いの池」に到着です
ここより50m降りたところに、水の湧き出る池があり、中川清秀の遺体は、
  当時土民達により、谷に降ろし芝で覆い隠し守られたと伝えられています
  その時 ここで首を洗ったといわれています。
 少し降りて覗いて見ましたが、水が無いように見えました。

標識で、JR余呉駅まで2.0kmと1.6km2本ありましたが、どちらが正しいのかな~
 左には「大岩山」があり ちょっと右に入ると「中川清秀の墓」があります。

 「中川清秀の墓」に着きました。
 大岩山は、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦において最初に戦った陣地である。柴田勝家の部下で
 行市山に布陣する尾山(金沢)城主佐久間盛政は、夜影に乗じ集福寺坂より塩津を経て権現の峠を
 越えて川並に至り余呉湖の南岸を迂回して大岩山の砦を奇襲しました。この陣地を守る
 茨木(大阪)城主中川清秀は奮戦よく頑強に抵抗したがついに全員壮烈な最期を遂げた。
 勝ち誇った佐久間の軍勢は柴田勝家の帰参の命に随わず余勢をかって賤ヶ岳の砦に進撃し、戦捷に酔った
 この報を知った豊臣秀吉は急遽大垣より駆けつけ賤ヶ岳の合戦となり、秀吉軍の大勝利となり
 柴田勝家滅亡の因となりました。

 もう少しで JR余呉駅に着かずいた所に「彼岸花」に蕾がありました。

あれあれ こんな所に「彼岸花」が咲いていました、それも「ピンク」の花です。

 やっと JR北陸本線余呉駅に到着です。暑い一日でしたが、楽しいひと時でした。
 次回をお楽しみに  では またね

 

  


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