hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

京都・清水寺  2010.12.24

2010年12月31日 09時14分30秒 | 神社・寺院

  所在地  清水寺  京都市東山区清水一丁目-294

 産寧坂(3年坂)から清水坂にやって来ました。ここは、一段と人通りが多いです。

 仁王門(におうもん)室町時代、重要文化財。清水寺の正門で、昔ながらの丹塗りで“赤門”と呼ばれています。正面軒下に平安時代の名書家藤原行成の筆と伝える「清水寺」の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像を祀る。

 和服姿の娘さんも

 三重塔は 江戸時代初期の重要文化財で、平安初期847年創建と伝えられ現塔は古様式に則って寛永9年(1632)の再建のようです。日本最大級の三重塔で高さ31メートル弱あります。一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱など密教仏画や飛天・竜らの極彩色で荘厳されています。

  馬駐(うまとどめ)は、室町時代の重要文化財で、昔、貴族や武士が此所で馬から下り、乗馬をこの建物につないで徒歩で諸堂へ参拝したようです。

 随求堂(ずいぐどう)江戸中期再興で、「胎内めぐり」は、随求菩薩の胎内に見たてた「随求堂・堂下」の真っ暗な空間を数珠をたよりに巡ります。

 経堂(きょうどう)江戸時代初期の重要文化財で、堂内には釈迦三尊像を祀り、もとは講堂でもあったようで、鏡天井に岡村信基筆の墨絵の円竜が描かれていようです。

 西門(さいもん)は、江戸時代初期の重要文化財で、夕日に極楽浄土を観想するためかもしれないです。随所に優れた蟇股や木鼻など多く備え、丹塗りと極彩色文様が復元されて華麗な桃山様式の美を見せてくれます。

 今回は、時間の都合で拝観料を払い本堂に行きませんでしたが、次回、季節の良いときに来たいですね。そのときは大勢の観光客がいるでしょうね。
次回をお楽しみに では またね


京都・八坂の塔~産寧坂(3年坂)  2010.12.24

2010年12月30日 17時31分19秒 | 神社・寺院

  所在地  八坂の塔~産寧坂  京都市東山区八坂上町

 東大路通りから店屋のある石畳を歩き、徐々に八坂の塔が近づく光景を見ながら歩いて行きます。

 八坂の塔と云えば誰もが知る風景ですね、この塔が京の写真集などによく写されている八坂の塔ですよね

 後ろを振り向くと緩やかな坂を上ってきたんですね。

 法観寺の八坂の塔(五重塔)は室町時代、足利義教により再建されたもので、内部初層には五大力尊が安置されている。その高さは46mあります。

 石畳の道を歩くのもいいですね。

 二年坂を過ぎ、この辺に来ると、お店屋さんも少しずつ増えてきて人通りも多くなってきました。

 この辺で、ちょっとお土産でも買って帰らないとね。井筒の生八ッ橋「夕子」を土産に

 ここが3年坂の石階段ですね、ここの風景も、撮影ポイントになり雑誌やパンフレットに写っていますね。

 清水寺の南にある子安の塔(泰産寺(たいさんじ))へ続く坂道のため産寧坂と言うのが一般的。産は「うむ」、寧は「やすく」という意味があり、この坂をたどって子安の塔へ参詣すると安産するといわれる

 産寧坂の標柱を見ながら左に曲がると清水寺に近づいてきます。
次回を楽しみに  では またね

京都・安井金毘羅宮(安井神社)  2010.12.24

2010年12月29日 15時11分53秒 | 神社・寺院

  所在地  安井金毘羅宮(安井神社)  京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70

 祇園・花見小路から観光客の少ない道を清水寺方面へ向かっていると安井金毘羅宮がありました。ちょっと入ってみます。

 鳥居をくぐると、手水があります。手水(ちょうず)の「清明」は、公爵近衛文麿の筆である。祭神、大物主神は、古くから道開きの神として信仰が厚く、讃岐(香川県)の金刀比羅宮も海上交通の守り神とされているように、ここ安井金比羅宮も海上交通の安全信仰でも知られています。

 境内には、中央に裂け目の入った大きな「縁切り 縁結び石」があります。お札(縁切り祈願の方は「断の御札」、良縁祈願の方は「叶の御札」)に願い事を書いて石に貼り、この石の穴を、悪運を切りたい人は表から、縁を結びたい人は裏からくぐるとご利益が得られるといわれています。

 参道を歩くと「絵馬の道」の碑があります。

米朝さんのきも入りでこんなに沢山のタレントさんの絵馬があります。

 本殿/中央に崇徳天皇が祀られています。主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮でいっさいの欲を断ち切って参籠(おこもり)されたことから、当宮は断ち物の祈願所として信仰されてきました。

 境内北側にある櫛塚(久志塚)は、女性の命とも言われる髪の美しさを引き立てる櫛をお祀りしていて、美願のご利益があります。古くなったり傷んでしまった櫛やかんざしに、感謝をこめて供養します。古くなった櫛(くし)の供養塚。隣接する祇園や宮川町の芸子・舞妓さんが参拝します。

 金比羅絵馬館は日本独特の信仰絵画である絵馬を保存・展示するため、古い絵馬堂の建築美をなるべく損なうことなく改築して、昭和51年に開館した日本初の絵馬ギャラリーです。

 藤棚があります。第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が家門の隆昌と子孫の長久を祈願してこの地に一堂宇を設け、藤の木を植え藤寺と号したのが始まり。藤はここの名所となり、花の寺とも言われたとの伝えられています。 

 安井金比羅宮の北に土塀に囲われた「崇徳天皇御廟」の石柱が立つ一画(観勝寺御影堂の跡)があります。
次回をお楽しみに  では またね  

京都・祇園白川を散歩  2010.12.24

2010年12月29日 08時14分54秒 | 公園・名所・名勝

  所在地 祇園白川   京都市東区白川南通り

 銀閣寺から次は、京都らしい町並みといえる,この祇園白川の辺りを思い浮かべ散歩する人も多いのではないでしょうか、そこで私も散歩しに来ました。

 祇園らしい風情たっぷりの巽橋周辺に来ましたよ

 ここが、テレビのロケなどの撮影場所に使われる、白川に架かる巽橋です。

 少し右を向き、周囲を見回すと橋、川、柳の街路樹、神社、町並といったものが全て調和しているのが理解できますね。右が新橋通・左が白川南通りと交わるところに辰巳大明神があります。

 白川に架かる巽橋のたもとに、辰巳大明神の祠があります。地域の守り神として元吉町の皆さんが毎日交替で奉仕に当たり、初午など年4回の神事には、伏見の稲荷大社から神官が来られるそうです。商売繁盛とともに辰巳のタツに芸能上達の御利益を願うのか、舞妓さん芸妓さんが手を合わせているのを時々見かけるそうですが。私は時刻的に会うことができませんでした。

 白川南通りから白川沿いに並ぶ町並みが情緒があります。

 白川沿いに紅葉が名残惜しそうに年の暮れを待っています。

 赤い灯篭が立ち並び、春、桜が咲くころの夕暮れに灯篭に灯が燈ると美しいでしょうね、そのころに一度来て見たいです。

 かにかくに碑が白川沿いの石畳に道に歌碑に刻まれている歌は、吉井勇の作で「かにかくに 祇園はこひし寝(ぬ)るときも 枕のしたを水のながるる」です。祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋がその中にありました。「大友」には、夏目漱石、谷崎潤一郎ら有名作家や画家が多く訪れたそうです。

 祇園白川の石畳を歩くと爽やかで気持ちがいいものですね、

 昔は、この白川沿いの石畳の道は、お茶屋が立ち並んでいたそうです。そのような面影を偲びながら巽橋の近くまで来ました。

 巽橋の上からお茶屋さんが立ち並ぶ白川沿いを望み、いいところですね。

 ここ巽橋は、祇園の中でも最も絵になりやすい場所ですよね、撮影ポイントとしてもお勧めしたいところですが、観光シーズンには人通りが多いでしょうね。

 巽橋から切り通しのある、いかにも京都らしい細い路地を抜けて道筋が一番情感がありますね、

 散歩していると祇園・花見小路に来ました。花見小路通(はなみこうじどおり)は、京都市の南北の通りの一つで、花見小路通も 四条通から南側は 近年石畳が綺麗に整備され 電柱も地下に埋め込んだそうで左右に町屋が建ち並ぶ保存地区のようですよ

 花見小路から少し横道に入りると、祇園町南側は「祇園町南歴史的景観保全修景地区歴史的景観保全修景計画」により古い町並み景観が残るよう、人通りの少ない、弁柄格子に簾・暖簾の町並みで、木造2階建ての美しい町並みが続きます。

 花見小路と違い観光客がいない、日常生活を営む祇園の街の風景です。

 横道に入ると、お茶屋の造りは切り妻、瓦葺きの本二階建て、一階は千本出格子に駒寄せなどの路地の町並みも心が落ち着きますね。
次回をお楽しみに  では またね




 

京都・銀閣寺  2010.12.24

2010年12月28日 07時44分02秒 | 神社・寺院

  所在地  銀閣寺  京都市左京区銀閣寺町2

 哲学の道を散歩しているとやがて銀閣寺の参道に出てきました。今まで静かだった道から観光客と店の多い道に出てきましたよ、

 銀閣寺は、文明14年(1482)、室町幕府八代将軍・足利義政が祖父の三代将軍・足利義満が建てた北山殿金閣(鹿苑寺)にならって東山山荘として建立した。しかし、足利義政は完成を待たず亡くなる。死後に菩提を弔うために寺とされたんです。銀閣寺は通称で正しくは慈照寺です。

 総門から中門まで長さ約50メートルの参道。銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間があります。

 方丈前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説があります。

 銀閣寺形手水鉢・角型の四方に、格形の小紋様と、格子縞を刻み込み、この文様を袈裟にたとえて袈裟形の手水鉢ともいいます。変わった手水鉢ですね

 方丈(本堂)は江戸中期の建造。銀沙灘(ギンシャダン)と対象をなすその堂々たるたたずまいは、義政公の遺徳をも偲ばせます。
 ご本尊として釈迦牟尼仏が安置され、正面の額には「東山水上行(トウザンスイジョウコウ)」を掲げ、内部には江戸期の南宋画家の巨匠、与謝蕪村(ヨサブソン)、池大雅(イケノタイガ)の襖絵が所蔵されてます。

 方丈から見る月待山はまさに絶景です。その向こうに観音殿が見えます。

 池の西北角にある観音殿で,東山殿内で最後に建てられ,また創建当初からの遺構を現在に伝える建物です。宝形造(ほうぎょうづくり),柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣で,屋根には鳳凰が飾られています。金閣と同様,このような楼閣建築を邸内につくるのは足利将軍邸のしきたりだったと考えられています。

 桧皮葺の現存する最古の書院造です。中は二部屋あり、ひとつが教科書にも載っていた同仁斎です。同仁斎といえば和室の原点ともいわれる部屋で、4畳半の間取り、床の間、畳、障子など、書院造が見られます。また、東求堂は足利義政の持仏堂でもあります。

 侘び・寂びの東山文化を象徴する様な風雅さがあり
銀閣庭園には七つの石橋(濯錦橋 たっきん・分界橋・迎仙橋・龍背橋・臥雲橋・仙柱橋・仙袖橋)が架かり、四つの浮石(北斗石・浮石・坐禅石・大内石)をはじめ、多くの名石が護岸や土留めなどにも用いられているそうです。

 銀閣寺境内に在る、樹齢500年という千代の槙です。銀閣寺が建立されて何年かな?(銀閣寺建立・1490年=延徳2年)建立されてから植樹されたのかな~

 苔に流れ落ちる洗月泉。細い一条の流れですが、奥の山から流れ出た湧き水が錦鏡池に流れ落ちて逝きます。

 銀閣寺の下段の庭から、東側の山を登ると「お茶の井」と呼ばれる湧水があります。この湧き水は、足利義政が点茶に使用したと伝えられているそうです。そして、この湧水の流れが作り出す小さな滝は「洗月泉」と呼ばれ、銀閣寺の庭園内の池へと水を供給しています。

 ここまで上がると、山茶花の花を見ながら銀閣寺境内と京都市街(左京区)が展望でき美しいです。

 今年の紅葉は終わりながら一部、紅葉が見られるところがありました。

 観音殿の脇にも紅葉の残った木がありましたよ、

 こんな所に茶席がありました。

 落ち着いた銀閣寺の風景を見て年の瀬が来ているのも忘れ銀閣寺を離れました。
次回をお楽しみに  では またね







京都・冷泉天皇桜本陵  2010.12.24

2010年12月27日 20時13分29秒 | 歴史・遺跡・伝説

  所在地  冷泉天皇桜本陵   京都市左京区鹿ヶ谷法然院町

 冷泉天皇(れいぜいてんのう)は、精神の異常等もあって在位期間わずか二年余りという歴史的評価の高くない天皇ですが、この陵墓は観光名所として知られる「哲学の道」から五十メートル程東にあって、法然院、安楽寺等のついでに訪問しやすい場所にあります。また、この陵墓は西南部分を後一条天皇皇后威子火葬塚としています。さらに、少し西へ下った鹿ヶ谷通には、門はいつも閉ざされていますが、冷泉天皇火葬塚(鹿ヶ谷西寺ノ前町 )もあります。

 ここは冷泉天皇の桜本陵があります。冷泉天皇は村上天皇の第2皇子母は藤原安子、藤原氏権勢の時代狂気のため譲位されたそうです。

 冷泉天皇(れいぜいてんのう:天暦4年[950年]-寛弘8年[1011年])の第63代天皇で在位は平安時代中期の康保4年[967年]-安和2年[969年]のわずか2年でした。というのも精神に病があり、円融天皇(守平親王)に譲位し冷泉院上皇となりました。

 冷泉天皇は、村上天皇の第2皇子で、天暦4年(950)、生後3ヶ月で立太子。967年に村上天皇が没したため18歳で践祚しました。

 冷泉天皇桜本陵を後に また 哲学の道に戻り銀閣寺方面へ
次回を楽しみに  では またね



京都・大豊神社  2010.12.24

2010年12月27日 12時53分38秒 | 神社・寺院

  所在地  大豊神社  京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前町1

 哲学の道より少しそれると、椿ケ峰天神と呼ばれていた、平安時代887年に建立された大豊神社があります。背後にある椿ケ峰の山中にありましたが、寛仁年間に現在地へ移動したと伝わる古い神社だそうです。

 かつては広大な神社だったらしいが、今はその面影も無く、こぢんまりとしているようですね。

 鳥居をくぐると舞殿があります。

 舞殿の左には、奉納されたお酒の樽が並びます。その前には狛鼠の写真が沢山飾られています。

 これが「狛ねずみ」がお出迎えする、「大黒社」です。左側が水玉(豊穣や子宝を表す)を持ち、右側が巻物(学問を表す)を持っています。ねずみは子孫繁栄の象徴的な動物ですので、若い女性がよくお参りに来るようです。また ある神話から来ているようで(この社の祀神)大国主命が野火(山火事)で危機にさらされている時、ネズミが現れて彼を救ったという言い伝えがあるようです。

 隣の稲荷社には商繁昌のお稲荷さんがあります。

 拝殿の奥には本殿が、仁和3年(887)宇多天皇の御悩平癒祈願のために、贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を東山三十六峰、第十五峰目の椿ヶ峰に奉祀して創建されました。後に応神天皇と菅原道真公が合祀されました。

 この神社は若い女性が多く、どうやら神社の狛犬ならぬ狛鼠や狛猿、狛鳶(トビ)が可愛らしいので人気のようで社殿前の鳥居の前には狛犬の獅子がしっかりと鎮座しています。

 哲学の道の「ねずみの社」として知られていますが、特に、「子」年には、参拝者で賑わうようです。

 御旅所  神社前の哲学の道に面した大豊神社御旅所は、神輿庫となっていました。これから哲学の道へ
次回を楽しみに  では またね


京都・哲学の道の冬支度 2010.12.24

2010年12月26日 11時10分57秒 | 公園・名所・名勝

 所在地  哲学の道  京都市左京区若王子町~銀閣寺前

  冬の京都を気のむくままぶらりと「哲学の道」を歩くことにしました。

 哲学の道(てつがくのみち)は京都市左京区にある小道である。南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の脇を歩きます。疏水べりに約2キロ続く散策道が哲学の道で、京都大学の教授で哲学者として知られる西田幾太郎が思索にふけり、また学生たちと議論を交わしながら歩いたことからこの名が知られています。

 道沿いには土産店やお洒落なカフェなどが建ち並び、今は、秋の観光シーズンも終り、落ち着いた自然の風景が取り戻されているようで

 静かな雰囲気の中、哲学の道を散歩され情緒があります。

 石橋の欄干に座り、この人は何をしているのかな?実は絵を描いているのです。哲学の道を歩いているとよく見る風景です。

 平日、人通りの少ない道を、柔らかな冬のこもれ陽を浴びながら歩くひと時です。

 疎水の脇には山茶花の赤い花が咲き

 時期的にちょっと遅い綺麗な紅葉が見られ秋の終りを告げます。

 哲学の道を散策道していると、冬の日差しを受け、横を流れる疎水の水に浮かび流れる落ち葉が物静かに思えます。

 南禅寺付近から慈照寺(銀閣寺)まで、琵琶湖疏水の両岸に植えられた桜の花が見頃に、秋には、紅葉の見頃のときに多くの観光客でにぎわうでしょうね、
シーズンのときにもう一度哲学の道を歩きたいね

 哲学の道、附近には、「幸せ地蔵尊」や「大豊神社」・「冷泉天皇櫻本陵」などがあります。

 哲学の道を散歩していると、いつの間にか銀閣寺の参道近くまでやって来ました。
次回をお楽しみに  では またね

京都・熊野若王子神社 2010.12.24

2010年12月26日 08時57分45秒 | 神社・寺院

  所在地  熊野若王子神社   京都市左京区若王子町2

 八坂神社から足を運んで禅林寺(永観堂)の横の道を町並みを見ながら

 京都三熊神社の1つである、熊野若王子神社は、哲学の道の起点にあります。
熊野若王子神社のご神木は梛(ナギ)の木。梛は、昔、紀州熊野三山や伊勢神宮参拝の折、穢れや罪を祓い清める禊(みそぎ)の木として用いられました。
 梛(ナギ)の木の葉で作られた御守は、すべての悩み事を”ナギ倒す”と言われています。

 今は紅葉時期も済みましたが、秋には一面鮮やかな朱に染まる隠れた紅葉の名所でもあるようです。

  1160年(永暦元年)後白河法皇が、禅林寺(永観堂)の守護神として熊野権現を勧請し、祈願所とされた正東山若王子の鎮守でしたが、明治の神仏分離によって、ここだけが残りました。
サッカー日本代表のユニフォームでおなじみの八咫烏(やたがらす)が梛の葉を加えているマークはこの神社のシンボルだそうです。

 ここに設置されている石づくりの手すりは、元は若王子橋の高欄として大正9年6月より使用しているようです。
室町時代に足利尊氏・義政が花を愛でる宴を開いたといわれる桜の名所で、室町幕府の将軍尊氏や義政が境内で花見の宴を催したといわれ、もう一度、桜を見に来たいと思いながら「熊野若王子神社」を後に哲学の道へ
次回をお楽しみに  では またね

京都・八坂神社の年末 2010.12.24

2010年12月25日 11時38分23秒 | 神社・寺院

 所在地   八坂神社  京都市東山区祇園町北側625

 今日は、一日残っていた「スルッとKANSAI 3dey」を使用して京都へ出かけました。
 阪急河原町から始まります。歩いて「八坂神社」に来ました。
東大路通りと四条通りの交差点にこの西楼門があります。

主祭神は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)で656年の創建になり、時代を経て神仏習合思想により祇園精舎の守護本尊・牛頭天王と一体視され「祇園社」として京の人々から親しまれてきました。
八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称しましたが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称しました。

 「手水舎」 ご参拝の前に手と口をお清め参拝です。

 京都では「祇園さん」と呼ばれ親しまれており、芸道神を祭る末社もあることから舞妓も多く訪れるようです。

 本殿は「祇園造り」と言われる独特の形式で、もともと別棟であった二つの建造物、本殿と拝殿とを一つの屋根で覆ったもので、現在のものは承応3年(1654年)に再建されたものでです。
お正月を前に、準備が忙しそうです。どの位の参拝者が来られるのかな

 本殿の南にあり、舞などの奉納行事はここで行なわれます。沢山の提灯は、祗園の御茶屋や料亭から寄進されたものです。

 この井戸がある場所には、藤屋という茶店がありました。925年に醍醐帝が疱瘡を患い、諸人も病に苦しみました。それを見かねた空也上人は八坂神社に参籠して病気平癒を祈念、その際にこの井戸の水の白湯を諸人に施したところ、飲んだ人々が癒されたといいます。その後に藤屋の向かいにもう一軒の茶屋(現在の中村楼)ができ、共に二軒茶屋と呼ばれて人々に親しまれました。

 境内には、斎館や能舞台があります。正月には能の舞が見られるのでしょうね。

 大神宮社の側には、「御神水」があります。 八坂神社本殿の下には、竜穴と呼ぶ底無し井戸があると平安の昔から伝えられ、「祇園神水」は同じ水脈からの水かもしれません。この水は「力水」とも呼ばれ、この水を飲んで「美御前社」にお参りすると美人になれるといわれています。

  大神宮社は、八坂神社の末社で祭神は、「天照大神(あまてらす おおみかみ)」と「豊受大神(とようけ の おおかみ)」です。天照大神は皇室の祖神(おやがみ)で、素戔嗚尊の姉神です。豊受大神は、天照大神の食事を司る神です。

  永久年間(1113~1118年)のある雨の日の夜、白河法皇が祇園の女に会いに行くためにこの辺りを通ったところ、前方に鬼のようなものが見えた。法皇はお供の平忠盛に、鬼のようなものを討ち取ることを命じた。忠盛は討ち取ることはせず生け捕りにしたところ、それは、祇園の社僧が灯籠に灯明を灯そうとしていたもので、雨具の蓑が灯明の光で銀の針のように見えたのであった。忠盛のとったこの思慮深い行動に人々は感嘆したといいます。

  「悪王子神社」ここに祀られている祭神は「素戔嗚尊の荒魂」で、悪王子の『悪』とは『強力』の意味であり、荒魂は現実に姿を顕す霊験あらたかな神の意といわれている。神徳は諸願成就とされている。

 「美御前社」御祭神は、多岐理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命です。
鳥居脇にある「美容水」を2、3滴、顔などに塗ると美しくなると言われています。

 灯篭が沢山あり、夕方、灯が燈ると神秘的で綺麗でしょうね。

 「刃物神社」御祭神は、天目一箇神です。刃物発祥の地として料理人の信仰を集めています。

 祖霊社(それいしゃ)は、八坂神社の末社で、本殿の北に位置しています。八坂神社の役員や関係物故者の御霊を祭神として祀っています。

 「巌島社」の御祭神「市杵島比売命」は天照大神と素戔嗚尊の誓約の際に、スサノオの剣から生まれた宗像三女神の一柱であようです。

 「絵馬舎」には池大雅や海北友竹の筆による絵馬がかかげられています。

 神馬舎(しんましゃ)が、内部には、朱と白の木馬が安置されています。昔は、本物の馬が飼われていたんでしょうね。

 「大黒主神社」八坂神社内の「三社詣」の一つでもあります。三社詣は、北向蛭子社・御本社・大国主社の3ヶ所をまわり、それぞれの社で朱印を押してもらい、家に持ち帰ると福が授かると言うものです。

 八坂神社の境内には、まだ 少し紅葉が見られ、紅葉も名残惜しそうにしています。来年の初詣の準備に忙しそうでしたが、いい年を迎えたいものです。
八坂神社を出て南禅寺から哲学の道へ足を運びます。
次回をお楽しみに  では またね




高槻市・神峯山寺の秋  2010.12.10

2010年12月13日 16時15分03秒 | 神社・寺院

所在地  神峯山寺   大阪府高槻市原3301―1

 JR高槻駅より市営バスで神峯山寺口へ、ここより神峯山寺まで歩きます。
神峯山寺登山口を登って行くと、神峯山寺参道へしばらくすると出てきます。
山門へ向かう参道の途中には、樒(しきみ)を結びつけた12連の縄を、門柱の横木に掛け渡した勧請掛(かんじょうかけ)があります。正月初寅の日の年占に用いられることから、大阪・堂島の米商人たちは、この縄の垂れ具合をみて、月ごとの米の相場を占ったといいます。

 参道わきには、金毘羅飯綱大権現の祠と白い碑が建っていて
飯綱権現は、信州の飯綱山(飯縄山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神だそうですよ。

 参道は、まだ 綺麗な紅葉が残っているところもあります。

 参道の脇には、落ち葉がたまり、石灯籠が

 仁王門にやって来ました。朱塗りの仁王門には、運慶作と伝えられる二体の仁王が佇んでおり、
訪れる人々を迎えます。

 683年に創建、歴代天皇の勅願所となった寺で、毘沙門天を本尊とする。仏教の聖地として
七高山のひとつに数えられるほどに栄えたようです。

 人のシンボルかな?

 これも 人のシンボルかな?

 本坊の横を進んでいくと本堂です。
現在は、宝塔院(本坊)と寂定院(じゃくじょういん)龍光院(りゅうこういん)の3院となっています。

 この石段を上がると本堂です。
この本堂には、いまでも金比羅童子が役子角に与えたと伝える毘沙門天像が安置されている。
毘沙門天像は、四天王のひとつとして、古くから「戦いの神様」「勝利の神様」として崇敬を集めてきた。
戦国時代には、この摂津の地を拠点とした大名 三好氏の家老のひとりであった松永久秀が、
ここ神峯山寺の毘沙門天を厚く信仰したと伝えられています。

 本堂に行くまでに紅葉の綺麗なところがありました。

 まだ新しいお堂ですね。

 高槻の古木「シナの木」のようです。

 本堂に安置されている阿弥陀如来座像は、寄木造りで平安時代後期の作、また二体の聖観音立像は
一木造りで同中期と後期の作とみられ、いずれも昭和25年8月に、国の重要文化財に指定されています。

 この石階段を上がると「鐘楼」です。

 本堂からの渡り廊下です。 

 「観音堂」です。十一面観音がまつられているようです。

 「観音堂」から階段の下を覗くと急なのにびっくりです。

 本堂の右手の開山堂には、一本歯ゲタをはいた役行者等身大の像がまつられています。

 奥まった一角にあるのが、九頭龍滝です。
神峯山寺を開いた役の行者は、九頭龍滝の水しぶきが光るのを見て、この地にやってきたといわれています

 ちょっと石垣を覗いてみたら こんな風景が、

 天明3年(1784年)に作られた古文章には、もともと嶺峰院回向堂は、「常念仏 阿弥陀堂」として、 1100年ほど前に神峯山寺にあったらしく、近世に焼失しましたが、 ご本尊の阿弥陀如来は、神峯山寺に現存しており、国の重要文化財になっており

 仁王門の前にある広場でちょっと休憩です。
「神峯山寺」は、寺伝によれば、役小角(えんのおづぬ)が開山し、宝亀年間(770頃)に開成皇子が箕面の勝尾寺から入山して創建、僧坊21・寺領1.300石に及んだといいます。当時、仏教の聖地として比叡山などと並んで七高山の1つに数えられ、大いに栄えたといわれています。
 次回をお楽しみに  では またね

播磨・小富士山~仁寿山~御旅山  2010.12.04

2010年12月11日 20時47分00秒 | 滝・渓谷・山


     所在地  小富士山~仁寿山~御旅山      兵庫県姫路市(奥山・四郷町・北原)



 JR山陽本線・御着駅前です。

 御着駅より西へ山陽本線を渡り新幹線の下をくぐります。

 4差路には、古ぼけた標識があります。南へ進んで行きます。

 古い四郷の町並みを見ながら行きます

 所々に、蔵があります。古い街並で道中も結構楽しいです。

 一時停止の標識を右へ道なりに進み、四郷小学校を目標に

 四郷小学校と公民館の間を進んで行きます。

 ここから小富士山まで途中登りやすい道を進みます。

 古ぼけた標識が「麻生山頂上」への方向へ登っていきます。

 途中には岩場の道が柵があり登りやすいです。

 下界を見下ろす景色は素晴らしく綺麗です。

 ほとんど登りきったところに休憩所あって見晴らしよく高御位も良く見える。

 この地点から小富士山頂の華厳寺の屋根が見え、見にくい標識がありますので
 その方向に進んで行きます。

 華巌寺の境内の周囲に多数の石仏あり、古いのお寺のようです。

 華巌寺の先には展望が開ける小富士山(麻生山)山頂の広場です。

 小富士山の山頂からは、これから行く仁寿山のアンテナ塔が見えます

 小富士山からの下りは岩板の尾根歩きで、途中高圧線鉄塔からは山の中腹歩き
仁寿山へ

 仁寿山のアンテナが

 仁寿山から御旅山方面へにもアンテナが

 ここにある反射板附近は展望もよく下界の町並みと姫路バイパスを望めます。

 反射板のところから北原の町並みを見ながらの下山です。

 斜面を下りきったその場所にパイパスを横断する歩道橋あります。

 ここから少し、北原の町の中を歩き御旅山の登山口に

 階段のある道を登って行くと東屋が、ここは早朝登山があるのかな

 御旅山山頂の標高140mに到着です。

 ここからは、遊歩道を通り下山です。

 ここでは、登り坂で使用しました杖を返却してなだらかな道を

 やっと松原八幡宮に来ましたよ。ここは、白浜の喧嘩祭りのお神輿が駆け上がってくるのかな

 ここは、白浜の喧嘩祭りで有名な会場です。ここから見るんですね
   一度、私も白浜の喧嘩祭りを見に来たいですね。

 これから まだ 坂道を下り妻鹿の町の中を歩き山陽電鉄妻鹿駅へ
            次回をお楽しみに  では またね

 

京都・下鴨神社の秋  2010.11.26

2010年12月07日 08時10分42秒 | 神社・寺院

  所在地  京都市左京区下鴨泉川町

正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、
鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と
親しくよばれています。

神社は古代の山城の国の名残をとどめている糺の森(ただすのもり)の北側に位置しており、
参道はこの森の中を縦断しています。

神社の入り口付近には手水舎(ちょうずや・てみずや)があります。ここで俗界の穢れを落とします。
神前に立つ前に手を洗い、口をすすいで身と心を清めてお参りしましょう。

大きな木が茂る糺の森(タダスノモリ)のある表参道を歩き手水舎で心を清めて進むと、
朱色にぬられた鳥居がみえてきます。

楼門(重文) 寛永五年造替、三間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺
 高さ 約20mで 門の朱が綺麗です。

「楼門」をくぐると正面にあるのが、「舞殿」で葵祭りの時、勅使が御祭文を奏し、舞人が東游を舞うところと
されているようですが、現存の「舞殿」は寛永5年(1628年)に建て替えられたものとされ、重要文化財に
指定されています。

御手洗川にかかる輪橋(そりはし)には、側にあるイチョウの木の葉が落ち橋を黄葉で覆っております。

「輪橋(そりはし)」と呼ばれ、橋の傍に「光琳の梅」と呼ばれている梅の木がありますが、
土用の丑の日にはこの御手洗川に足を浸けて、疫病や病を封じる祈願をおこなう神事があります。この川は通常、
水は流れていないようであるが、土用が近づくと水が湧き出てくるといい、京の七不思議の一つとされています。

「中門」をくぐると、重要文化財に指定されている「干支の守護神(言社)」が並んでおり、
また、正面に「幣殿」が建っている。通常、「幣殿」の前で奥の本殿に向かって参拝する。

通常、幣殿の前で奥の本殿に向かって参拝しますが、本殿は、ここから少し見ることが出来ません

地主神・須佐之男命を祀る「出雲井於神社」。周りに植える植物の葉がなぜかずべてギザギザになることから、
別名「比良木社」(柊社)とも呼ばれています。その側の紅葉が美しかったです。

鳥居と紅葉がすごく綺麗です。

楼門まで戻ってきました。

少し横手に行くと、鴨社直会(なおらい)殿泉聲、平安時代より、歴代天皇の即位の際の大嘗祭後、
饗応殿が移築され、直会殿として建てられた。ここでは神せん、神に奉納した供え物を飲食する直会式が
行なわれています。直会とは「居直る」の意。平安時代より式年遷宮ごとに建替えられてきた。たが、
1948年以来、再建されていないようです。

糺の森の祭祀道構が復元されています。

夕暮れの下鴨神社も夕日が差し込み紅葉が綺麗で感激して神社を後にしました。
次回をお楽しみに  では またね



京都・河合神社の秋  2010.11.26

2010年12月06日 19時33分18秒 | 神社・寺院

  所在地  京都市左京区下鴨泉川町

 瀬見の小川の西側に立つ河合神社。玉依姫命(たまよりひめのみこと、神武天皇の母神で子供の
成長を守る神様)を祀り、古くから女性の守護神として信仰されてきました。正式名称は鴨河合坐小社宅
(かものかわいにいますおこそべ)神社で、賀茂社の社家に祀られていた屋敷神だったといわれます。

 『河合神社』は、下鴨神社境内の南の一画、糺の森の中に建っています。
明治10年(1887)に賀茂御祖神社(下鴨神社)の第一摂社に列せられました。

 河合神社の祭神は神武天皇の御母神になる玉依姫命(たまよりひめのみこと)です。
「玉依姫命」という神様は、一人の神様の名ではなく、豊穣や多産といった女性的な能力を象徴する多くの
神の総称になります。

 御本殿

  六社 「諏訪社、衢社、稲荷社、竈神、印社、由木社」です。

 拝殿です。

 境内の紅葉が美しいです。

 イチョウとの紅葉が綺麗で赤と黄の落ち葉が交わり美しさを増しています。

 境内の紅葉を見て参拝した後、これから下鴨神社へ行きます。
次回をお楽しみに  では またね




京都・鞍馬寺の秋 2010.11.26

2010年12月04日 21時12分58秒 | 神社・寺院

  所在地 京都市左京区鞍馬本町1074

 貴船から貴船川に架かる、この朱塗りの橋を渡ると鞍馬に行けます。

 西門は、貴船から鞍馬山に行く参道です。奥之院まで登り坂が続きます。

 険しい山道の境内ですが、多くの人が訪れ奥之院まで登り坂で、流れる汗が、かえってここちよいです。
 42万平方メートルの敷地はほとんどが、もみやツガの原生林が茂っています。

 途中には祠がありました。

 やっと奥の院に深い森に囲まれた奥の院魔王殿は、神秘的な雰囲気がします。

 約650万年前、地球を救うために金星から魔王が降り立ったという伝説が残されており、
  拝殿には地上の創造と破壊をつかさどる天狗姿の魔王尊がまつられている。

 奥の院から降りていくと「義経堂」は、
 奥州衣川で若くしてなくなった牛若丸(源義経)の御魂が、幼少を過ごした鞍馬山に戻り、遮那王尊として
 護法魔王尊にお仕えしていると信じられ、鞍馬山にまつられている場所が義経堂となっている。

 堂内の不動明王は、比叡山開祖伝教大師がここに参篭なさったときお刻みになったと伝えられる。
 また牛若丸が鞍馬天狗より兵法を学んだ舞台は、このあたりであるといわれています。

 牛若が遮那王と名乗って10年余り鞍馬山で修行したのち牛若丸が山をあとに奥州平泉へ下る際、
  名残を惜しんで背比べをしたと云われます。

 。「大杉権現社」の所に、大魔王降臨説の大杉がある。樹齢千年で3本の幹よりなる巨大な杉であったが、
昭和25年の台風で折れ、今は15m程の根幹を残している。大杉大権現(魔王尊影向の杉)を
素材として光明心殿の魔王尊像と宝殿の三尊尊天像が新しく彫られ、霊宝殿では、大杉権現としてお祀りしている。
折れた大杉権現の傍に植えられた大杉二世が元気にそだっています。

 大杉権現附近の、木の根参道の地表には、杉の根が張り巡らせているのが見える。
  ここで牛若丸が跳躍の練習をしたという言い伝えがある。

 牛若丸が東光坊から奥の院へ兵法の修行へ通う途中、この清水を汲んでのどを潤したと伝えられています。
現在も水は湧き続けています。

 「冬柏亭」は昭和5年に建てられ、かつて東京荻窪にあった与謝野晶子の書斎であったようで、
  紅葉の時期は、美しい雰囲気は見られます。

 奥の院から本殿金堂まで降りてくると「紅葉」が美しくなってきました。

 「本殿金堂」です。
鞍馬弘教総本山。770年(宝亀1)鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を本尊として奉安したのが起こり。
 平安時代は京都の北方守護の寺として信仰を集めています。

 ここまで降りてくると紅葉が美しく本殿金堂の前から望む紅葉です。

 石階段と灯籠のある階段を紅葉を見とれながら降りていきます。

 「本殿金堂」の石階段附近の紅葉は見頃を向かえ素晴らしいですね。

 源義経が牛若丸と呼ばれた少年期を過ごした寺としても有名で、紅葉のシーズンには鞍馬寺から貴船まで
  多くの観光客が行き交い多くの人出です。

 紅葉を見ながら石階段を降りてきました。降りてきた本殿金堂側を見ると紅葉が綺麗です。

 鞍馬山七福神です。

 「貞明皇后御休息所跡」
大正13年に鞍馬寺へ行啓された、貞明皇后さまが九十九折の坂をお登りになる途中 しばらく
しばらく お休みになったところです。

 大分参道を降りてきました。

 中門はもともと山麓の仁王門の横にあって、勅使門(ちょくしもん)または四脚門(しきゃくもん)と
 呼ばれており、朝廷の勅使の通る門でした。

 九十九折参道は、清少納言が『枕草子』で「近うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道」と評した
鞍馬寺の表参道です。ここが「双福橋」です。、福徳の神である玉杉大黒天(たますぎだいこくてん)と
玉杉恵比寿尊(たますぎえびすそん)の二柱の福神を結ぶ橋で、この一角を双福苑(そうふくえん)と呼ばれています

 由岐大明神は御所にお祀りされておりましたが、天慶元年に都の大地震、天慶2年には平将門の乱
(天慶の乱)と相次ぐ世情不安に、当時の朱雀天皇の詔により天慶3年(940年)の9月9日御所の北方にあたる
鞍馬に地に天下泰平と万民幸福を祈念し御遷宮されたのであります。有名な鞍馬の火祭はこの社の例祭で、
毎年10月22日夜行われます。

 楓の古木「この不思議な姿 生きる力 生かされている命 その玄妙に 想いを運ぼう」

 祭神遷座の時、葦のかがり火をたいたという故事にかたどり里人が大小さまざまの松明(たいまつ)を
 かついで鞍馬街道から当社へ参詣するので一面火の海となって壮観を極めます。

 由岐神社から参道を大分降りてきました。

 山門駅から多宝塔駅を結ぶケーブルが見えてきました。

 ケーブルの山門駅までたどり着きました。

 仁王門からケーブル駅と続く灯籠です。

 奥の院から仁王門へ逆のコースをたどりましたが、普通は鞍馬寺の仁王門を通り、本殿金堂へ
ここから先は本格的な山道を登って行きます。この門は、湛慶(たんけい 鎌倉時代に活躍した。
彫刻家、運慶の長男)作の仁王尊像をまつり、俗界から浄域への結界とされています。

 鞍馬の仁王門前には、多くの店が立ち並び観光客が訪れています。

 鞍馬の駅前には大きな「天狗の面」がお出迎えです。
次回をお楽しみに  では またね