hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

第82回 明石公園菊花展  2010.10.26

2010年10月27日 08時04分05秒 | 季節のたより

 所在地 明石公園菊花展   兵庫県明石市明石公園1-27

 明石公園は、六甲山系の西端、赤松山台地にのこる明石城跡を中心につくられた都市公園です。

 旧御料地の明石公園を広く紹介するため、1926年より皇室の紋章にちなみ菊花展を開催されました。
  菊で作られた、オットセイが迎えています。明石の秋を彩る伝統行事も今年2010年で82回目を迎えます。

 大正15年に始まり、今年で82回を迎える長い歴史を持つ菊花展覧会。大菊や懸がい菊、福助菊など
  様々な種類の菊が展示されていますよ。

 明石城にはとき打ち太鼓というものがありました。当時の人々の生活で、時刻を知る唯一の
   方法ともいえるこのとき打ち太鼓が、現在、明石公園にロボットとして再現されています。
   その側には、菊で作られた「パンダ」が、可愛いですね。

 あれあれ、ここには「明石たこ」がありますよ、

 菊の鉢植え立派なものですね

 ここにも、こんなに沢山の菊の花が丹精込めて育てているんでしょうね。

 少し離れたところにバラ園があります。

 秋のバラは、ちょっと小ぶりのようで香りはあるようですね、花を見ながら長閑なひとときです。

 ここ明石の町は、1617年に着任した初代城主小笠原忠政に招かれ、明石の町割り(=都市計画)や
城内樹木屋敷の設営にかかわりました。武蔵は生涯特定の藩に所属せず全国を旅しながら剣の道を
究めたのですが、特に 出生地である播磨地域には多くの足跡を残しました。その中で明石公園内にも
武蔵の庭園も再現されています。
 次回をお楽しみに  では またね




国宝・松本城   2010.10.22

2010年10月24日 17時09分58秒 | 歴史・遺跡・伝説

  所在地  松本城   長野県松本市丸の内4-1

 「ビーナスライン」から松本市街地にある。国宝松本城にやって来ました。

 松本城は室町時代末期の永正元年(1504)、この地方に大きな勢力を持っていた小笠原貞朝が
 一族の島立貞永に命じて築城させたもので、以後、小笠原氏の居城となり、「深志城」と呼ばれています。

 黒門は、松本城本丸へ入る正門にあたり、櫓門と枡形から構成されています。本丸防衛のための要の門でした。
 一の門(櫓門)は昭和35年(1960年)に復興し、二の門と袖堀は1989年(平成元)12月1日に復元されました。

 復元した門の裏側には狭間(さま)があり、鉄砲や弓矢などで敵を攻撃する為に壁に開けられた穴のことです
当時の塀もこんな感じでしょうか。ここから敵を迎え撃つたのかな?。

 現在の国宝松本城の史跡復元は当時の姿と方法を忠実に再現しています。この柱の加工も
   相当大変だったと思いますね。

 混んでいる時は、階段が狭く一段一段が高く急なので順番待ちをすることがあります。気をつけないとね

 修復工事をしたとき、以前の「しゃちほこ」を展示しているようです。天守閣の屋根に乗っていたのかな

 当時の武将が身につけていた鉄砲隊の鎧のようです。

 ここはちょっと広い部屋のようです。

 天守閣より外を見ると絶景かな。お殿様も城下を見て町の暮らしを見ていたのかな~

 大天守4階には、すだれがある部屋が、ここは「御座所」といって、有事の際に城主が居座る場所のようです。

 当時のお城の模様が少し判るかな、有事の際は高い階段を鎧を着て上り下りして大変でしたでしょう。

 昔の、お城の様子が分かるよう展示され見ていると時間も忘れます。

 ちょっと外を覗くと城の屋根瓦がこれも年代物のようですね。

 城の中から外を見る風景もいいものです。

 国宝・松本城人形飾り物展と秋の国宝・松本城菊花展が開催されています。

 松本城の天守は五層六階の大天守を中心に、三層の乾小天守を渡櫓で連結し、さらに二層の辰巳附櫓と
   一層二階の月見櫓を複合した均整のとれた珍しい構成。これらの天守群は国宝に指定され、
   大天守は五層六階としては現存する我が国最古のお城です。

 天守を中心に右に乾小天守、渡櫓、左に辰巳附櫓、月見櫓が続き均整のとれた美しい外観と
   烏城と異名持つ白と黒の際立ったコントラストが特徴で国宝に指定されています。
  この城を見ながら松本城を離れます。
次回をお楽しみに   では またね



ビーナスラインの秋  2010.10.22

2010年10月23日 19時35分13秒 | 季節のたより

  所在地  ビーナスライン   長野県茅野市本町~上田市武石上本入  全長75km

 車を走らせ夜中に諏訪湖SAに到着でその後、車中で仮眠です。
朝起きて、諏訪湖の向こうに見える山々はです。これからビーナスラインを走るのに天気が回復するのかな
少し走って諏訪ICを降りてビーナスラインに入りますが、通勤時間早くも渋滞です。

 しばらく走ると蓼科高原へここも少し紅葉の季節に入って来ましたが、朝もやで車を止めることを残念です。

 車中から写真を撮ってみました。

 スズラン峠附近の展望台で休憩です。

 しばらく走ると白樺湖に到着です。靄がかかって何も見えないです。ドウダンツツジが紅葉です。
  これで少しは癒されるかな。

 白樺湖の小さな祠も靄によりボヤケテ神秘的です。

 靄の中白樺湖を背景に天気がよければ美しい紅葉が見られるでしょうね。残念です。

 しばらく車を走らせ車山高原に到着ですが、靄がひどくてリフト乗って頂上に行くことを残念しました。

 次は、霧ヶ峰・伊那丸富士見台の展望台に到着です。標高1600mにもなると草木が紅葉で綺麗です。

 山間に建物と紅葉した草木が映えて綺麗です。

 太陽の日がさすと山肌の草木の紅葉が綺麗なのにね~

 この富士見台からは、天気の良い日は八ヶ岳連邦・富士山・南アルプスが見えるようですよ、

 さらに車は霧ヶ峰高原のビーナスラインを登っていきます。紅葉で草原が綺麗です。

 霧ヶ峰高原の「霧の駅」に到着です。

 「霧の駅」でちょっと買い物です。霧ヶ峰高原を見ながら一休みです。

 これから美ヶ原高原へビーナスラインを走行中、車中から見た紅葉です。

 落合橋にやって来ました。ちょっと橋の下を覗いてみようかな。

 落合橋の下を覗いてみた谷間の紅葉です。靄がかかり満足した紅葉が見られませんでしたが、
   天気の良い日は橋から見る紅葉は素晴らしいでしょうね

 やっと高いところにある美ヶ原高原へ来ました。まだ靄が晴れない中の野外彫刻が見えます。

 道の駅のテラスに上がってみました。

 標高2000m、日本一高い場所にあるこの道の駅の屋外展望テラスからは、いい天気であれば浅間山・
 北アルプスなど、美しい山々の景色が楽しめるでしょうね。

 美ヶ原高原(道の駅)の標高2000mから松本市街地へビーナスラインを車中から紅葉を見ながら走ります。
 次回をお楽しみに  では またね




加古郡・天満大池のコスモス  2010.10.16

2010年10月17日 16時36分05秒 | 季節のたより

  所在地  天満大池     兵庫県加古郡稲美町岡

 天満大池は兵庫県でもっとも古いため池で、675年(白鳳3年)に造営された岡大池が
  原型であると伝えられています。

 天満大池の端の田んぼでは、今が稲刈りの最中です。

 その1画の休遊地の田んぼには、沢山の「コスモス」が咲き乱れています。

 ワァ~ 綺麗です。

 沢山の方が、コスモスを見にこられています。

 駐車場の前がコスモス畑です。

 今が、ちょうど見頃のようです。

 静に落ち着いてじっくりと見ていると癒されます。

 ここのコスモスは、花輪が大きいほうかな、それにしても綺麗です。
次回をお楽しみに  では またね

大塩天満宮の秋祭り  2010.10.15

2010年10月16日 20時00分40秒 | 神社・寺院

  所在地  大塩天満宮のお祭り   兵庫県姫路市大塩町汐咲一丁目50

 901年(延喜元年)菅原道真公が冤罪により太宰府へ左遷される途中、伊保の湊より上陸され
 日笠山に上られて瀬戸内海の賞でられ、はるか東の京都、これから向かう九州を望まれて昨今に変わる今日の
 境遇に感慨を新たにされました。大塩天満宮は寛弘年間に創建され、御祭神は菅原道真公を祀りしています。

 10時頃になると、宵宮と同じ順序で屋台の宮入りが始まります。この日は、屋台と獅子が
  同時に宮入りを行い、獅子に先導されながら屋台が本門前に向かう姿は勇壮そのものです。

 大塩天満宮の鳥居前には、屋台が集まってきました。

 屋台は大塩町4地区(東之丁・宮本丁・中之丁・西之丁)、北浜町2地区(北脇・西浜)の
  6台が練り出されます。

 大塩天満宮秋祭り・屋台の宮入と練り合わせです。

 大塩天満宮秋祭り・屋台の宮入と練り合わせです。

 幟(のぼり)が高いので、横にしないと鳥居・本門をくぐることが出来ません。

 これから本門をくぐるところです。

 、屋台と獅子が同時に宮入りを行い、獅子に先導されながら屋台が本門前に向かう姿は
 勇壮そのものです。最初の3台の屋台が本門をくぐり境内に入ると、残りの3台の屋台が本門前に到着します。

 獅子舞は戦国時代に起源があると伝えられ、大塩天満宮氏子地区である姫路市大塩町地区
 (東之丁・宮本丁・中之丁・西之丁)、別所町1地区(小林丁)と高砂市北浜町3地区(牛谷丁・北脇丁・西濱丁)の
 8地区に伝わり、8頭何れも二人立ちの毛獅子で、野獅子の生態を描写した野性味溢れる豪快な舞い方です。

 宮入の際の道中舞と奉納舞が演じられる。奉納舞は別所村から伝えられ氏子村々で地舞として独自に
 発展したものであり、6地区6頭が物語性をもつ一連の舞を演じ、小林丁・牛谷丁の2頭は独特の趣向です。

 大塩の獅子は、頭から胴体、尾先まで、黒の熊毛でおおわれた毛獅子で、秋祭りには鳥居前から
拝殿までを6頭の獅子が祇園囃子の笛や太鼓に合わせて、組み肩馬に乗った毛獅子が道中舞を奉納します。

 出番を待っている屋台かな? 当地の城主大塩次郎景範は獅子舞を愛好し、育成に尽力され
 現在のような華麗な獅子舞になったといわれています。

 先ほどの屋台の屋根にある飾りが外されました。本門を通過することができないです。

 次の屋台が、入ってきます。屋台の宮入です。

 鳥居をくぐる屋台です。

 まだ、向こうにも待機している屋台が、

 老若男女が祭りを楽しんでいます。

 ここでも、組み肩馬に乗った毛獅子が道中舞を奉納します。

 毛獅子の中に入っている2人、体力を使うでしょうね。

 老若男女が、秋の祭りを盛り上げ楽しんでいます。

 大塩天満宮の秋祭りで附近には、沢山の屋台店が出ています。

 これから、本門に向かい屋台の宮入と練り合わせがあるのでしょうね。

 次から次と宮入する屋台があります。

 この屋台は、本門をくぐって来た屋台は、屋台の屋根にある飾りを取り付けています。

 これから まだまだ、大塩天満宮の秋祭りは盛り上がります。
次回をお楽しみに  では またね




天王山・酒解神社   2010.10.08

2010年10月13日 15時41分04秒 | 神社・寺院

  所在地  酒解神社  京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王46

 阪急大山崎駅から北へJRの踏むきりを渡ると天王山の登り口が、そこを進んで行きますと
  「宝積寺」の境内を通りさらに登っていきますと、「酒解神社」の鳥居にやってきました。

 毛利攻めから,急きょとって返し京都への入口をおさえたとき、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が,
  ここに,「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」の旗印を掲げた場所です。

 「山崎合戦之地」の碑で、「天王山を制する者は天下を制す」というべき場所です。

 さらに登っていくと、「十七烈士の墓」があります。禁門の変(1864年)の時、戦いに敗れ天王山中で
 自刃した隊長真木和泉守以下十七名の眠る墓です。禁門の変は、江戸時代後期の元治元年7月19日
 (1864年8月20日) に起きた長州藩と幕府軍の戦いです。激戦地となった蛤御門をかけて、蛤御門の変
 (はまぐりごもんのへん) とも言われます。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置します。

 さらに進んでいくと、「巌島社」市杵嶌姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。

 この社には、三社宮    天照大神社 天照大神(あまてらすおおかみ)
    月讀社 月讀大神(つきよみのおおかみ)   蛭子社 蛭子神(えびすのかみ)が祀られています。

  本殿の手前に建つ神輿庫は鎌倉時代の建築でわが国にある板倉では最古の例です。重要文化財に
指定されています。板倉は切妻造り本瓦葺きで、構造は分厚い角材を組み上げた形のもので非常に珍しい建物です。

 「酒解神社」。豪族の橘氏が氏神とされるが、後に橘一門の者が嵯峨天皇の皇后となった機縁から、
  山崎郷の名神大社として信仰されたという。正式な名称は「自玉手祭来酒解神社」。

 宮主社(足名稚命、手名稚命)が祀られています。ここ酒解神社を参拝して天王山へ
 次回をお楽しみに   では またね








柳田国男生家  2010.10.05

2010年10月08日 20時43分17秒 | 歴史・遺跡・伝説

  所在地  柳田国男生家    兵庫県神崎郡福崎町西田原1038

 柳田国男生家の駐車場に到着です。まずは、鈴の森神社の参道へ

 ここ鈴の森神社は、かって柳田国男が幼いころよく遊んだ神社だそうです。
柳田国男氏(日本民俗学の祖)の晩年の自伝「故郷七十年」でこの神社をしのんだ歌を披露しています。
「うぶすなの森のやまもも高麗犬はなつかしきもの言はねども」と歌われています。

 神社の横には、「ふれあい広場」「もみじ回廊」があり秋になると紅葉も綺麗でしょうね

 柳田國男が「日本一小さい家」と表現し,民俗学への志の源となったといわれる生家です。
柳田國男(旧姓松岡)は医師であり国学者の松岡操の六男としてこの家で生まれました。
もともとは違う場所にありましたが、現在は鈴の森神社の近くに移築されました
   文化勲章を受章しました
民俗学者柳田國男は福崎町名誉町民第1号でもあり、國男の生家である松岡家の兄弟
(鼎、泰蔵、國男、静雄、輝夫)はそれぞれの道で大成し、共に顕彰するために記念館が作られました。

 駐車場の端には、「コスモス」畑とその脇には「彼岸花」咲き心を和ませてくれます。

 土塀と彼岸花が咲く、静かな風景の一画です。

 2ヶ所のコスモス畑で長閑な風景です。

 前方には、お食事処「もちむぎのやかた」があります。気候・風土とも、もち麦の産地として全国に有名な
福崎のもち麦を原料に作られた特産品「もちむぎ麺」の製品作りと味わいを見たいですが、
この辺で帰路に着きました。
次回をお楽しみに   では またね



彼岸花の中を走る「特急はまかぜ」  2010.10.05

2010年10月07日 08時17分58秒 | 船舶・鉄道・その他の撮影地

  撮影場所  特急はまかぜ    兵庫県神崎郡神河町鍛冶

 播但線の 非電化区間として残っている寺前~和田山間で、寺前駅附近の彼岸花が咲く
   線路沿いの風景です。

 播但線には、キハ47を両運転台改造したキハ41があります。キハ41は改造側が平面的な顔をしており、
   JR西日本に数ある改造先頭車の中でもひときわ奇妙な姿で彼岸花が咲く中を走ります。

 先ほど通りました電車が、寺前駅で「はまかぜ」通るのを待っています。

「はまかぜ」がやって来ました。老化の進んでいます。キハ181系での運転は、2010年11月6日までとなります。

 山陽本線・東加古川駅を通過する。新型車両キハ189系に置き換えられることになりました。
   「はまかぜ」になる車両です。もう少しで 新旧の車両が変わるのもまじかです。
次回をお楽しみに   では またね 


新野の水車と彼岸花  2010.10.05

2010年10月06日 14時18分09秒 | 季節のたより

  所在地  新野の水車   兵庫県神崎郡神河町新野

  神崎郡の砥峰高原から、ちょうどJR播但線の長谷駅を車で通り新野駅附近に差し掛かったとき
   県道404の西側に沢山の水車が見られます。

 『新野の水車』、今もなお活躍する揚水水車たちで、水路より高い田畑へと水を入れるために使われる
   水車のことで、昭和30年台まではこの地域でも18基の水車が活躍していたそうです。
   それが昭和の50年代にはたった3基までになったようです。

 今の時期、水車附近には赤い彼岸花が沢山咲いています。水車を通じた村おこしにご尽力されているようで、
  シーズンになると水車を撮影しようとするカメラマンもどっと押し寄せるくらいの人気の水車のようです。

 県道404を走っていると10基ぼどの水車が目に付き長閑な水車の里の風景が見られます。

 季節を選んで一度、訪れてみてはいかがでしょうか?なかなか情緒があっていいもんです。
 次回をお楽しみに   では またね








砥峰高原のススキ  2010.10.05

2010年10月05日 21時20分25秒 | 季節のたより

  所在地   砥峰高原   兵庫県神崎郡神河町川上801

 神崎郡神河町に位置する砥峰高原。標高800~900mの砥峰高原は西日本有数のススキの
   名所として知られ9月下旬~11月上旬にかけて見頃を迎えられます。

 砥峰高原の前には「とのみね自然交流館」があり、ここのウッドデッキから見る景色は、
  遠くの山々まで望むことができ、なかなかのものですよ、

 砥峰高原には、西日本では有数の約90haに及ぶススキの草原が広がっています。
  春には山焼きが実施され、草原一帯を焼くことで、美しい草原が守られています。また、
  秋には一面にススキの穂が波打つ壮観な景色となります。

 ここは、映画「ノルウェイの森」のロケ地で
2008年10月から2009年7月には、村上春樹原作の「ノルウェイの森」の映画撮影が行われたことで、
   その名を全国に知られるようになりました。主な撮影場所は、「砥峰高原」、「峰山高原リラクシアの森」、
   「谷川」など美しいところなどがあり選ばれたのかな~

 砥峰高原の中には、池があり、附近の山々とススキが映り幻想的です。

 砥峰高原独特の起伏に富んだ地形は200万年以上前の氷河期に氷河によって削られて出来たと
   言われているようです。

 ハイキングコースで山の上のほうに上がると、「とのみね自然交流館」が望め、今がススキの見頃です。

 ススキ草原には、木道が整備されています。この木道はススキ草原の中に広がる貴重な湿原が
  踏み荒らされないように自然環境と調和した利用を進めるためのものです。
  現在、ススキの保全のため、遊歩道及び木道以外の部分を立ち入り禁止となっています。

 砥峰高原は、元々雑木林だったところを大河内町川上の人々が代々守ってきた茅場(かやば)だそうです。
    茅場は人の手で維持しなければすぐに雑木林になってしまうことから、毎年4月に山焼きすることで
    ススキの草原を維持しています。

 この季節、ススキの素敵な砥峰高原の景色に見とれ駐車場へ、ここから望む
   砥峰高原のススキと「とのみね自然交流館」の風景を見てここを離れました。
 次回をお楽しみに  では またね


鳥取県岩美町・西脇展望駐車場  2010.10.01

2010年10月03日 19時47分31秒 | 公園・名所・名勝

 所在地  西脇展望駐車場   鳥取県岩美郡岩美町陸上西脇展望駐車場

 西脇海岸は、寝覚の佳境ともいわれ、小さな島々と緑の松が連続する美しい景観が、道路沿いに見られる。
  特に展望駐車場からの西側の眺めは最高です。磯遊びも楽しめます。

 西脇展望台駐車場から西側を眺めた風景です。

 
岩美町/遊覧船から眺める浦富海岸は、山陰海岸ジオパークの中にあり、鳥取県の東端、陸上(くがみ)岬から
  駟馳山(しちやま)までの本町の海岸線一帯、東西15kmのリアス式海岸の総称です。
小羽尾から東浜へ至る海岸線は西脇海岸と呼ばれ、そこを沿って走る町道から風光明媚な景観が眺められます。
展望駐車場も設けられていて詩情あふれるドライブコースになっています。

 日本海の荒波と風雪によって侵食された断崖・絶壁・洞門・洞窟・奇岩の荒々しい景観が、
  澄みきった海水や岬に囲まれた白砂青松の穏やかな渚と見事なコントラストをみせてくれます。

 網代から田後に至る海岸は、数多くの奇岩・岩礁が散在して海の大庭園を想わせることから、
  この地を訪れた文豪島崎藤村は「神秘の幽境」と絶賛しております。

 今度は、絶景を見るために海岸を巡る遊覧船に乗って海側から見たいものです。

 山陰海岸が世界自然遺産の候補地にもノミネートされ、日本を代表する海岸として学術的にも
  評価されていますが、日本を代表する風景は残したいものですね。
次回をお楽しみに  では またね




智頭宿・石谷家住宅  2010.10.01

2010年10月02日 09時09分54秒 | 公園・名所・名勝

  所在地  石谷家住宅   鳥取県八頭郡智頭町智頭396

 江戸時代、参勤交代の宿場町であった智頭宿です。国道373と国道53と交わる智頭町の
  智頭東交差点を右側に入ると駐車場があります。

 智頭宿は、上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。江戸時代には、参勤交代で
  江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、
  制札場が置かれていた要所です。

 往来に沿うまち並みには、宿場町として栄えていた往時を偲ばせる町屋の建物や道標が今も残っております。

 通り沿いの民家には杉玉が飾られ、“杉のまち”ならではの風情で観光客をお出迎えております。

 古い町並みが残り、古くは、「日本後記」の大同3年(808年)6月、「因幡国智頭郡道俣の駅
馬二匹を省く」と記された、その道俣という呼び名が智頭のことで、由来は道が分かれる所といわれます。

 上方街道と備前街道が分岐する要衝の地となったのは藩政時代ですが、参勤交代の道筋、
  藩主池田候の宿泊地として本陣が置かると、商人や旅人の宿場町として栄えました。

 やっと「石谷家住宅」にやって来ました。因幡街道に面する石谷家住宅は大きな屋敷ですね。

 主屋があるところに行く、右側に本玄関が、江戸時代、鳥取藩主の参勤交代の時、
殿様は御本陣に宿泊しました。随行の上級武士は石谷家を宿泊所として使用されていました。
その名残として家の格式を表すために武家風の式台が造られました。(総欅造り)

 石谷家住宅(国登録有形文化財、智頭町指定文化財)は、敷地3000坪、部屋数40余りと
  7棟の土蔵を有する大規模な和風建築です。豪壮な梁組みを持つ上間、池泉(ちせん)庭園や利休様式の
  茶室など一見の価値があります。

 古くから屋号を塩屋といい、元禄時代初め(1691年)ごろに鳥取城下から移り住み、
本拠を構えました。その後、伝四郎、伝九郎、伝三郎を繰り返し襲名しながら栄えてきました。
石谷家が大庄屋に命じられたのは明和9年(1772)2代目伝三郎からです。大庄屋とは農民側の在方役人で、
裕福で人望と教養を備えた人物が選ばれました。伝三郎は13年間にわたって大庄屋を務めました。

 石谷家の庭園は、江戸座敷・新建座敷に面した池泉庭園、この北側に続き、主屋上手に面した
  枯山水庭園、このさらに北に続き離れに面した芝生庭園とからなっています。このうち枯山水庭園、
  芝生庭園は石谷家の大正新築工事以降の築庭ですが、池泉庭園は大正新築工事以前の築庭です。

 池泉庭園は、江戸座敷と一体のものとして作庭されています。江戸座敷は池泉庭に面して縁側を
 二面に巡らしており、ここから池の最も奥まったところの滝が見えるなど見所になっています。

  迷ってしまうほど沢山の部屋があります。

 どの部屋を覗いても立派な造りで落ち着きそうですね。

 2階より本玄関方面を望みます。

 土間です。

  ここは、食堂などに使われていたのかな?

 池泉式庭園の他に中庭がありました。

 主屋の入口をくぐると、高さが13mの広大な吹き抜けの空間が、土間には、「かまど」があり、
  土間を一段上がると囲炉裏の間が家族の内玄関でもあり情報交換の場でもあったようです。

 薪が積まれている部屋が(風呂のようです)

 一歩外へ出ると蔵が並び、蔵は、展示室・ギャラリーに利用しています。

 立ち並ぶ蔵と主屋の間です。

 蔵の横には、昔懐かしい、馬具、ウインチかな色んなものが置かれていました。

 蔵の1号~3号の展示室・ギャラリーには、今、「吉村青谷書作品展」が行われています。

 何処かで見た作品のようですが、何処で見たのかな?

 智頭町往来に面する石谷家住宅は江戸時代に鳥取藩最大の宿場町として栄えた智頭宿のもっとも
  大きな建物です。

 お屋敷のある町並みから横町方面へ

 こちらも古い町並みが

 石谷家の分家として再建された戦前の建造物で、商家風町家と西洋館、和風庭園、塀で構成される。
商家風町家は1897年頃に建設されたものであるが、2階は階高が低く船底天井になっています。

 藩主の宿泊施設だった御本陣跡をはじめとする史跡や道標など、往時をしのばせる古い町並みが
  残っています。智頭宿の古い面影のある町並みを見ながら駐車場に戻ってきました。
 次回をお楽しみに  では またね