所在地 石谷家住宅 鳥取県八頭郡智頭町智頭396
江戸時代、参勤交代の宿場町であった智頭宿です。国道373と国道53と交わる智頭町の
智頭東交差点を右側に入ると駐車場があります。
智頭宿は、上方へと向かう主要道であった「智頭往来」の宿場町。江戸時代には、参勤交代で
江戸へと向かう鳥取藩の最初の止宿であり、藩主の宿泊や休憩の場となる御茶屋や奉行所、
制札場が置かれていた要所です。
往来に沿うまち並みには、宿場町として栄えていた往時を偲ばせる町屋の建物や道標が今も残っております。
通り沿いの民家には杉玉が飾られ、“杉のまち”ならではの風情で観光客をお出迎えております。
古い町並みが残り、古くは、「日本後記」の大同3年(808年)6月、「因幡国智頭郡道俣の駅
馬二匹を省く」と記された、その道俣という呼び名が智頭のことで、由来は道が分かれる所といわれます。
上方街道と備前街道が分岐する要衝の地となったのは藩政時代ですが、参勤交代の道筋、
藩主池田候の宿泊地として本陣が置かると、商人や旅人の宿場町として栄えました。
やっと「石谷家住宅」にやって来ました。因幡街道に面する石谷家住宅は大きな屋敷ですね。
主屋があるところに行く、右側に本玄関が、江戸時代、鳥取藩主の参勤交代の時、
殿様は御本陣に宿泊しました。随行の上級武士は石谷家を宿泊所として使用されていました。
その名残として家の格式を表すために武家風の式台が造られました。(総欅造り)
石谷家住宅(国登録有形文化財、智頭町指定文化財)は、敷地3000坪、部屋数40余りと
7棟の土蔵を有する大規模な和風建築です。豪壮な梁組みを持つ上間、池泉(ちせん)庭園や利休様式の
茶室など一見の価値があります。
古くから屋号を塩屋といい、元禄時代初め(1691年)ごろに鳥取城下から移り住み、
本拠を構えました。その後、伝四郎、伝九郎、伝三郎を繰り返し襲名しながら栄えてきました。
石谷家が大庄屋に命じられたのは明和9年(1772)2代目伝三郎からです。大庄屋とは農民側の在方役人で、
裕福で人望と教養を備えた人物が選ばれました。伝三郎は13年間にわたって大庄屋を務めました。
石谷家の庭園は、江戸座敷・新建座敷に面した池泉庭園、この北側に続き、主屋上手に面した
枯山水庭園、このさらに北に続き離れに面した芝生庭園とからなっています。このうち枯山水庭園、
芝生庭園は石谷家の大正新築工事以降の築庭ですが、池泉庭園は大正新築工事以前の築庭です。
池泉庭園は、江戸座敷と一体のものとして作庭されています。江戸座敷は池泉庭に面して縁側を
二面に巡らしており、ここから池の最も奥まったところの滝が見えるなど見所になっています。
迷ってしまうほど沢山の部屋があります。
どの部屋を覗いても立派な造りで落ち着きそうですね。
2階より本玄関方面を望みます。
土間です。
ここは、食堂などに使われていたのかな?
池泉式庭園の他に中庭がありました。
主屋の入口をくぐると、高さが13mの広大な吹き抜けの空間が、土間には、「かまど」があり、
土間を一段上がると囲炉裏の間が家族の内玄関でもあり情報交換の場でもあったようです。
薪が積まれている部屋が(風呂のようです)
一歩外へ出ると蔵が並び、蔵は、展示室・ギャラリーに利用しています。
立ち並ぶ蔵と主屋の間です。
蔵の横には、昔懐かしい、馬具、ウインチかな色んなものが置かれていました。
蔵の1号~3号の展示室・ギャラリーには、今、「吉村青谷書作品展」が行われています。
何処かで見た作品のようですが、何処で見たのかな?
智頭町往来に面する石谷家住宅は江戸時代に鳥取藩最大の宿場町として栄えた智頭宿のもっとも
大きな建物です。
お屋敷のある町並みから横町方面へ
こちらも古い町並みが
石谷家の分家として再建された戦前の建造物で、商家風町家と西洋館、和風庭園、塀で構成される。
商家風町家は1897年頃に建設されたものであるが、2階は階高が低く船底天井になっています。
藩主の宿泊施設だった御本陣跡をはじめとする史跡や道標など、往時をしのばせる古い町並みが
残っています。智頭宿の古い面影のある町並みを見ながら駐車場に戻ってきました。
次回をお楽しみに では またね