hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

竹野町・円通寺(あじさい寺)  2011.06.29

2011年06月30日 17時16分05秒 | 季節のたより


  所在地  円通寺     兵庫県豊岡市竹野町須谷940

 県道1号線を竹野海水浴場方面へ車で走ると左側に山門が、ちょっと見落としそうです。但馬にある竹野町須谷の円通寺、別名アジサイの寺へやって来ました。山門をくぐり参道附近に咲くアジサイの花、見頃は少し早いかな~

 参道を進んで行くと総門が、今は、改修工事の最中です何時頃改修工事が終わるのかな。

 円通寺の本堂です。 別名あじさい寺と呼ばれ、臨済宗南禅寺派、中本山で、最高の儀式の執行権、宗義統制権や寺号、本尊、院号などの授与権を含む教学上の特権、その他宗政上の特権を有した大本山に次ぐ格式のある寺院です。元中6年(1389)時の但馬守護、山名時義・時熈(ときひろ)父子が、高僧月庵和尚をして円通寺を創建しました。

 境内の石灯篭附近には綺麗に咲き誇るアジサイの花が

 その奥には、美しい庭園が

 石橋があり 何処の日本庭園でもそこに居ると何だか心が落ち着きます。

 蓮が植わる鉢の中に「殿様カエル」が長閑な風景です。

 境内を散歩しながらアジサイの花を観賞です。

 絵になるところが沢山ありますが、ちょっとアジサイの見頃が少し先のようです。

 、お寺の境内には色々な紫陽花の花が咲き、大石内蔵助の次男吉千代が出家した寺として知られ、妻りくの打掛の一部が保存されているようです。中興の祖である月庵和尚の絵画は県指定文化財です。

 アジサイは、参道から境内、本堂裏の墓地がある林の中のいたるところにアジサイの花が咲いています。

 円通寺はかつて三十五坊を数えたといいますが、いまは往時の名残を微かにとどめるばかりのようです。

 本堂から裏山にかけてのアジサイも綺麗です。

 円通寺には、山名氏の菩提寺として庇護され、境内の一角に山名時義・時熙の墓が残っています。両者の墓は古来の形式といわれ、石が積まれただけのまことに質素なつくりのもので、時義、時熙のものとされる墓が残っています。

  昔ながらの鐘楼で重い鐘を吊るすには維持管理が大変でしょうね。

 アジサイも少し早いのか大きさが少し小ぶりで、見頃の最盛期に来ると花も大きくなり綺麗でしょうね

 車の窓には「ナナフシ」が停まっています。ナナフシ(七節、竹節虫)は、節足動物門昆虫綱ナナフシ目に属する昆虫の総称。草食性の昆虫で、木の枝に擬態した姿が特徴的ですが、今年始めて見ました。

 但馬の円通寺のアジサイ、長閑ないいところに寺があり楽しいひと時でした。
 次回をお楽しみに では またね

豊岡市竹野町・床瀬そば  2011.06.29

2011年06月29日 20時54分43秒 | 美味しい食物・食事処


  所在地  床瀬そば    兵庫県豊岡市竹野町椒641―1

「床瀬そば」が食べたくなったので豊岡市から香住方面へ国道178線へを通り 森本から左へ県道1線を進んで床瀬で県道712線を直進すると「床瀬そば」があります。

 大きな狸が目印でわかりやすい店です。

 お店の全景です。のどかな田舎道を車で進んで行くと 今の時期は田植えが終り稲が緑々と育ち綺麗な田園風景が見られ少し癒されます。

 囲炉の部屋で、小川のせせらぎを聞きながらゆっくりとくつろぎ、食事することが出来ます。

 「この写真は、イメージでパンフレットより掲載です。」
床瀬そばのこだわりは、挽きたて、打ちたて、茹がきたて、熟練の蕎麦職人が作っているのでしょう。コシと風味が良く、田舎に帰ってきたような雰囲気で落ち着いた気持ちで食事が出来ます。

 食事を終えて外に出ると、花壇の脇に子犬とフクロウの置物がちょっと癒されるかな~  そば美味しかった
 次回をお楽しみに  では またね

岡山・吉備路国分寺を歩く  2011.06.21

2011年06月22日 20時06分19秒 | 公園・名所・名勝


 所在地  備中国分寺   岡山県総社市上林1046

 国道270号の「吉備路もてなしの館」に車を止めて。備中国分寺は市南部のアカマツにつつまれた丘陵地のほぼ中心部に位置し、聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています。

 備中国分寺跡は、聖武天皇が天平13年(741)に仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から人々そして国を守ること (鎮護国家)を目的に建てられた官寺の一つです。その当時の境内は、東西160m、南北178mと推定されますが、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、 南門・中門以外の建物の位置は明らかではありません。しかし、創建当時の礎石が多く残されており、 当時を偲ぶことができます。

 これは本堂です。現在の建物群は、江戸時代中期に浅尾藩主の蒔田(まいた)氏の援助によって再建されたもので、寺院というより、書院風の簡素な建物であるみたいです。

 境内から、ちょっと五重塔を拝見です。

 少し、吉備路を歩いてみます。向こうに見える丘が「こうもり塚」古墳のようです。

 標識が、右へ「こうもり塚」・左へ「松井の井戸」「備中国分尼寺跡」と書かれていますので、まずは 「こうもり塚」古墳の方へ行きます。

 全長約100mの前方後円墳。後円部にある横穴式石室は巨石を用いた全長19.5mにも及ぶ巨大なもので、中に家形石棺が安置されているようです。

 奥には、全長約100mの前方後円墳。後円部にある横穴式石室は巨石を用いた全長19.5mにも及ぶ巨大なもので、中に家形石棺が安置されています。

 先ほどの標識まで戻り左へ進むと「松井の井戸」がありました。
むすびあぐる松井の水は底済み うつるは君が千代のかげかも               藤原茂明

常盤(ときわ)なる松井の水をむすぶ手の 雫(しずく)ごとにぞ千代は見えける     藤原資実

この二首の和歌は久寿2年(1155)の後白河天皇及び建久9年(1198)の上御門天皇の即位に当って行なわれた大嘗会(だいじょうえ)のときに詠まれたものです。

 「松井の井戸」から池の周りを通り林を通り抜けると、奈良時代の尼寺跡で、台地の松林の中に円形の造り出しのある金堂の礎石が往時のままに保存されている。その他、南大門、中門、講堂、塔の跡なども確認されていますが、何も建物がありません。

 旧山手村役場
備中国分尼寺跡の中を通り抜けると、この建物が風早雲嶂(かぜはやうんしょう)((1846~1896、医師・初代山手村長)という人が自宅として建てたものです。以前は今の山手村役場附近の都窪郡山手村大字地頭片山にありました。建築様式・手法からみて、幕末から明治初頭のもののようです。
雲嶂の死後は山手村が購入し、明治35(1902)年から昭和43(1968)年までの66年間、山手村役場として使用されていました。

 「旧松井家住宅」
この民家はもとは岡山市沼に所在し、旧山陽道に沿う茶屋でした。。建築の様式・手法からみて江戸時代末期頃に建てられたもののようです。
屋根は茅葺・入母屋造の建物で基本的に当時の一般的な民家の構造ですが、簡素な必要最低限の間取りとなっています。

 吉備路を歩いて長閑な田園風景を見ながら過ごすのが一番心休まるひと時です。

  備中国分寺五重塔は、南北朝時代に1度焼失し、1821年(文政4)ごろから位置を変えて再建、高さ34.32メートル。江戸時代後期の様式を濃く残す岡山県内唯一の五重塔です。
 
 田園風景の中に建つ国分寺五重塔は、観光地吉備路のシンボル的な存在となっているんでしょうね~
次回をお楽しみに  では またね

備前市・大滝山福生寺西法院のあじさい  2011.06.21

2011年06月21日 20時55分05秒 | 季節のたより

  所在地  福生寺西法院   岡山県備前市大内995

 国道2号線の大内交差点を北上して途中から車1台が通れる山道を進んで行くと参道にある仁王門が見え始めます。仁王門は、今から600年前の応永4(1398年)には3代将軍・足利義満により仁王門が建立されたようです。

 しばらくで福生寺の本堂に、現在「福生寺」は独立した宗教法人格を持たず、「福寿院」(ふくじゅいん)・「西法院」(さいほういん)・「実相院」(じっそういん)の3坊で本堂等を管理しています。大滝山福生寺は唐僧鑑真(がんじん)の開祖と伝えられる名刹で(めいさつ)で、山獄仏教の盛んであった平安時代から鎌倉時代にかけて、数十の塔頭(たっちゅう)や僧坊がたち並び多くの僧たちが修業したようで、将軍家足利氏は特にこの寺を信仰し、尊氏が火災で焼失した同寺を復興し、義満が本堂、仁王門、義教が三重塔を再建しました。
  駐車場は、本堂の左・右へ進むとあります。

 西法院が紫陽花の名所です。境内に咲くアジサイを楽しみに西法院に来ました。梅雨の風情あふれる色とりどりの花が参拝者らを出迎えているように見えます。

 西法院は高野山真言宗のお寺で、山陽花の寺に指定されており、毎年6月には1100株約3万本のアジサイが綺麗に咲いてきます。

 石の階段沿いに綺麗なアジサイが沢山咲いています。

 いろいろな色のアジサイが咲いて、この時期、梅雨の季節にはあじさいがピッタリですね。

 向こうの山の、尾根に三重塔が見え仁王門と同じ南北朝時代の建築で足元が悪いので気が重くなり入口まで行きやめました。尾根にはかつて円光院という僧房があったようです。

 先日の雨でアジサイも生き生きとして綺麗です。

 山陽地方でも有数の古寺で、一般には山号の「大滝山」で知られる山号は境内にある滝に由来するようです。西法院境内の滝とあじさいです

 境内では、今の時期綺麗なアジサイをスケッチしている女性が居られました。

 福生寺境内を流れる寺谷川、西法院の寺谷川沿いに咲くアジサイの花が美しく山沿いに咲くアジサイはちょっと まだ 早いかな?
 次回をお楽しみに では またね

神戸市立須磨離宮公園の薔薇と花菖蒲  2011.06.08

2011年06月09日 19時41分12秒 | 季節のたより


  所在地  神戸市立離宮公園    神戸市須磨区東須磨Ⅰ―Ⅰ

 離宮公園のある場所は、かつて、京都の西本願寺の第22世法主で、中国、インド、中央アジアの探検家としても知られる大谷光瑞が別荘を建てていました。1907年(明治40年)には離宮にするため買い上げられ、1914年(大正3年)に武庫離宮となり、天皇家がご使用になられていました。このころから須磨離宮と呼ばれるようになったと言われています。

 石段を上がっていくと、時代をトリップしたかのような旧離宮の面影があり流れゆく水が清らかな音を立て薔薇の花と香りに満たされる欧風庭園が展望できます。

  5月29日~30日未明の台風2号(温帯低気圧)の強風により、現在、傷んだバラの花がら摘みなど手入れが終わったところで、少し薔薇の花数が少ないようです。

 王侯貴族のバラ園では180種4000株の色とりどりのバラが咲く美しい噴水と芝生の整形式庭園で薔薇は まだまだ花を楽しむことが出来ます。

 ちょっと覗いてみると色んな種類の薔薇があり、ここには、「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」1997年、パリで不慮の交通事故死を遂げたイギリス王妃・ダイアナ。彼女の遺志を継いで、没後、売上金の一部を途上国支援のためのダイアナ基金に寄付することを契約条件に、育成者のJ&P社が命名することが許されたバラです。

 「プリンス・チチブ」秩父宮妃殿下・勢津子様に捧げられたバラです。四季咲きです。

 「ジュピレ・デュ・プリンス・ド・モナコ」グレース・ケリー王妃の夫君であった、モナコ公国のレニエ3世大公即位50周年記念にささげられたバラ。花の色は国旗の赤と白をあらわしています。四季咲きです。

 「プリンス・ミチコ」美智子妃殿下に捧げられたバラです。温かみのある花の様子が妃殿下のお人柄をよくあらわしているようです。四季咲きます。

 「プリンセス・アイコ」敬宮(としのみや)愛子 内親王殿下の誕生を祝して捧げられたバラです。四季咲きです。

 「プリンセス・ドゥ・モナコ」アメリカのハリウッド女優からモナコ公国王妃に転身した、グレースケリーに捧げられたバラ。事故で惜しくも急逝されました。ピンクと白の2色のモナコ国旗をイメージしています。四季咲きです。

 「ミケランゼェロ」ダビデ像などの彫刻や建築・絵画で有名な、イタリアルネッサンスの巨匠の名を冠したバラです。明るく美しい輝くような黄色の花を咲かせます。四季咲きです。

 「ラ・ヴィ・アンローズ」「ばら色の人生」という意味のバラ。12月まで咲き、花数が多く、一輪も大きな花が咲きます。四季咲きです。

 王侯貴族のバラ園は何時来ても綺麗です。

 トンネルをくぐり坂道を下りて行き花菖蒲園へやって来ました。

 花菖蒲園の端には、少し紫陽花の花が咲き始めています。

 紫陽花の花を見ると梅雨の花という感じがします。これからが見頃ですね。

 花菖蒲もこれから見頃になってきましたね。

 離宮公園では、本園南東側にある花しょうぶ園で40種3,000株の花菖蒲を見ることが出来ます。

 江戸系、伊勢系、肥後系に大別でき、花の色は、白・ピンク・紫・青・黄などを中心に、絞りや覆輪のものもあります。

 40種3000株の花しょうぶが咲き、和の風情をかもし出しますが
見頃がこれから始まったところです。

 “いずれがあやめかきつばた”と言われますが,これにハナショウブが加わると,見分けはいっそう難しいかも知れませんが、ハナショウブは花が大きいことや,色は紫(青紫,赤紫)や白が多いということなので,比較的容易に見分けられるでしょう。

 これは、黄菖蒲の花かな~

 いろいろの花菖蒲の花が咲き、今の時期が写真を撮るには一番いいですね

 私は、この紫色の花菖蒲が好きですね

 今日は、普段というのに多くのアマチュアカメラマンが花菖蒲の写真を撮りに来られていました。

 そばの新池には、睡蓮が咲き長閑な風景で水鳥が飛来してくるのをカメラマンが待ち構えていますいい写真を撮るには根気がいりますね。

 池の端にいると大きな鯉が着ましたが、この辺で須磨離宮公園を出て行きます。
 次回をお楽しみに  では またね









鳥取市・新緑の雨滝  2011.06.06

2011年06月08日 20時48分27秒 | 滝・渓谷・山


  所在地  雨滝   鳥取市国府町雨滝

 駐車場から少し歩くと雨滝に行く下り坂が、鳥取と兵庫の県境にある扇ノ山、その標高500mのところに鳥取県一の大飛瀑「雨滝」があります。平成二年には「日本の滝百選」に選定されました。

 坂道を下ると「佛谷橋」が その向こうに「あずま屋」があり、古来より有数の霊場として善男善女の修行の場、お遍路さんの信仰の場として活用され、今なお、神秘的な霊場としての雰囲気を残しています。

 橋の上から、周囲のケヤキやブナなどの原生林に覆われる中から流れてくる水です。

 ちょっと橋の下から覗いてきました。

 新緑が美しいこの時期、「あずま屋」でのんびりと座っていると心が癒されます。

 「佛谷橋」の手前には、「布引の滝」が、この滝の水は、山の中腹から湧き出る地下水なので長期の日照りでも豪雨でも水量が変わることがありません。女性的な滝ですが神戸の「布引の滝」の方が雄大です。

 扇の山を源とする袋川上流にある40mの飛瀑が見えます。断崖絶壁から轟音を発して落水する様は、神秘的な幽境を思わせる光景です。

 雨滝は、幅四m、高さ四十mという鳥取県随一の飛瀑を誇り、滝の前には不動明王が祀られているなど古くから霊場として修行や信仰の場となっていた滝です。

 雨滝の前にある橋を渡り歩道を 約700mほど進んだところに原生林に囲まれた三段の滝「筥(はこ)滝」があります。

 、雨滝の奥部には、筥滝、布引の滝、親子滝など大小四十八の滝があるといわれており、その一部は中国自然歩道で結ばれ、河合谷高原へと通じています。雨滝は、紅葉の季節になると鮮やかな紅葉の調和は神秘的なようで、紅葉の時期に もう一度見に来たいですね。
 次回をお楽しみに では またね

鳥取藩主池田家墓所  2011.06.06

2011年06月07日 20時51分24秒 | 歴史・遺跡・伝説


 所在地   鳥取藩主池田家墓所   鳥取市国府町奥谷・宮下

 池田墓所へ行く途中には、「馬立場跡」があり 江戸時代、藩主墓所参詣のため乗馬で来られた人は、この場所で馬を繋ぎ溜池の土堤を右折れし山の手旧道を通り墓所に参詣していたので、この地を馬立場といっていました。

 墓所の山門にやって来ました。奥谷の山麓に鳥取藩主池田家墓所ですが、樹木に覆れた閑静の地に広大な墓域を造り代々の墓碑が立ち並んでいるようです。

 山門を入り左手の石段を上がっていきます。鳥取藩主池田家の初代光仲から第11代の慶栄までとその夫人や姫、分家まで78基の墓碑と、一族に仕えた人の名を刻んだ254基の灯籠が立ち並びます。初代から第11代まで参拝しました。

 初代藩主池田光仲の墓です。因伯32万石鳥取藩の藩祖池田光仲は、岡山藩主池田忠雄の長子として江戸藩邸で生まれました。池田家墓所の歴代藩主の墓碑は、高さ4.6mにも及び三段の台石の上に亀の形状をした亀趺(きふ)と呼ばれる台石を乗せたもので亀趺円頭(きふえんとう)」の墓碑といわれています。

 初代藩主池田光仲の墓より前方を拝観です。徳川幕府と深い関係にあった鳥取池田家は、池田家の藩主の名前はその時の徳川将軍の名前から一文字もらってつけられている特徴があり、歴代藩主の墓碑はいずれも玉石垣を巡らした台石に三段の台石を据えています。

 2代藩主 池田綱清の墓です。父は池田光仲、母は正室茶々姫で、正保四年(1647)江戸藩邸で生まれました。歴代藩主の中で綱清の墓石のみが「亀趺円頭」の形式をとっていない。これは、有名な「生類憐みの令」に配慮したためともいわれます。

 5代重寛の墓所から3代吉泰の墓所を見たところです。

 3代藩主 池田吉泰の墓です。幼名を長吉、のち勝五郎、長じて輝清、吉明と改め、のち吉泰といった。父は分知東館の祖壱岐守仲澄、母は松平播磨守頼隆(水戸徳川家の分家)の娘菊子(涼月院)です。元禄八年(1695)男子のいなかった綱清の養子となり、元禄十三年(1700)隠居した綱清のあとを受け家督を継ぎました。

 4代藩主 池田宗泰の墓です。幼名を長吉といい、また勝五郎と改めた。享保二年(1717)鳥取城で生まれた。生母は側室中村氏である。享保十六年(1731)、将軍徳川吉宗の前で元服の式を行ない、従四位下侍従に叙任され、出羽守と称した。三代藩主池田吉泰が逝去し、この年宗泰が家督を継ぎました。

 5代藩主 池田重寛の墓です。四代藩主池田宗泰が三十一歳で逝去した時、その嫡子池田勝五郎(重寛)は、わずか二歳の幼児であったため、鳥取藩は分知家(西館)の甲斐守定就を藩主とし、重寛をその養子とすることを願い出た。ところが、幕府はこれを退け、勝五郎をもって家督を相続することを許可しました。幼年で藩主の座についた例は、藩祖光仲の先例があり、また勝五郎の生母は紀州徳川家より入った久姫(桂香院)であったことから、実家である徳川家の応援を得て勝五郎の家督相続に成功したものと思われます。

 6代藩主 池田治道の墓です。五代池田重寛の第三子で生母は側室村上氏である。幼名は岩五郎、後に秀三郎と改めた。明和五年(1768)江戸の藩邸で生まれ、安永七年(1778)重寛の夫人仲姫に養われて嫡子となり。仲姫は田安中納言宗武の四女で「寛政の改革」で名高い老中松平定信の姉です。重寛には第一子に鶴五郎がいた。のちの池田治恕である。治恕は将来を非常に期待された人物であったが、天明元年(1781)病により江戸藩邸で逝去した。続いて天明三年(1783)父重寛の逝去により、治道が十六歳で鳥取池田家の家督を相続し、六代藩主となりました。

 7代藩主 池田斉邦の墓です。幼名を秀三郎、ついで銀之進といった。父は治道、生母は治道の側室於三保の方で天明七年(1787)鳥取城で生まれた。銀之進には一つ違いの弟、永之進がいた。永之進の生母も側室浦の方であったが、江戸で生まれたことから声援するものが多く、兄である銀之進は影が薄かった。その為、継嗣をめぐって、江戸と国表において対立が起った。これを憂いた鳥取の用人役佐々木磯右衛門は、寛政四年(1792)藩主池田治道の帰国に際して、兄の銀之進を継嗣とするよう強く諫言した。

 8代藩主 池田斉稷の墓です。七代斉邦の後をうけて鳥取藩主になったのは、斉邦の弟永之進である。文化四年(1807)、将軍家斉の前において元服の式を行い、従四位下侍従となり因幡守と称した。そして将軍家斉の一字を賜わり、名を斉稷と改めました。

 9代藩主 池田斉訓の墓です。天保元年(1830)八代藩主斉稷の逝去により鳥取藩をついだのは、斉稷の実子誠之進である。養子の斉衆が文政九年(1826)に逝去したので嫡子の取り扱いとなり、幕府の許可を得て世子となりました。

 10代藩主 池田慶行の墓です。九代藩主斉訓の逝去により鳥取藩主になったのは、鳥取池田家の分知家である壱岐守仲律(東館)の長男亀丸である。池田仲律は、池田仲雅の三男で、仲雅は、本家である五代藩主重寛の六男であったので慶行は五代藩主の曾孫にあたります。

 11代藩主 池田慶栄の墓です。 嘉永元年(1848)僅か十七歳で逝去した十代慶行にはまだ男子がいなかったので、藩では、分知家のうち(東館)壱岐守仲律の子で慶行の弟裕之進を仮養子として幕府へ申し出た。ところが幕府はこれを退け、加賀中納言前田斉泰の二男喬心丸を藩主とし、これに仲律の娘延子をめあすよう指図した。鳥取池田家は、初めて他家から藩主を迎えることになり、このことは国表の藩士にとっては寝耳に水の驚きでありました。

  最後の12代鳥取藩主池田慶徳は、水戸中納言徳川斉昭の五男五郎麿で、生母は松波春子です。異腹の弟七郎麿は徳川幕府最後の将軍慶喜でもあります。天保八年七月江戸で生まれた。十一代慶栄が伏見で逝去後、幕府は慶徳に養子を命じられ、嘉永三年(1850)十月に家督を相続しました。従四位上侍従に叙任、相模守と称した。慶応三年(1867)の大政奉還を受け、その後に鳥取藩知事に任じられるが、家禄は十分の一とされました。慶徳は明治十年八月二日明治天皇の還幸を神戸まで奉送の際肺炎にかかり、神戸で逝去、東京の弘福寺に葬られ、後に多摩霊園に改葬されました。
清源寺跡の広場には、「あずま屋」があり、今の時期「サツキ」と「花菖蒲」が咲き、秋は、紅葉の名所でもあるようです。
 次回をお楽しみに  では またね

鳥取市・興禅寺の庭園  2011.06.06

2011年06月06日 21時31分53秒 | 神社・寺院


  所在地  興禅寺の庭園   鳥取市栗谷町10

 寛永9年(1632年)、池田光仲が岡山藩より鳥取藩に転封となった際、伯父で初代岡山藩主にあたる池田忠継の菩提寺を家臣団が鳥取に移したことに始まります。池田家の菩提寺ではあるが墓所はここにはなく、鳥取市国府町奥谷に墓所が造営されました。

 本殿の左横の石段を上がっていくと、渡部数馬の墓が、岡山池田家家臣である渡部数馬の実弟が河合又五郎に斬殺され義兄剣客荒木又右衛門と共に見事仇討ちに成功した武士であったようです。

 その隣には、猪多伊折佐の墓が、池田忠継・忠雄に仕え光仲に従い鳥取に移り、新陰匹田流・刀槍二術を極めました。刀槍二術の開祖・猪多伊折佐、剣豪・臼井本覚の墓が境内脇にあります。

 山門のそばには自由律俳人の尾崎放哉(おさきほうさい)の句碑があります。

 境内に入ると鐘楼があります。

 境内をぐるっと回って、久松山系に連なる寺院裏の山裾で書院の北側に庭園がありますので、見させていただきました。

 「切支丹灯籠」が、庭園の西の一隅のあります。形式は織部灯籠でありますが上部の陰刻はラテン語で父を、胴のアーチの中に神の子を左右に漢詩を刻み聖霊を表しています。

 部屋の縁側の上には「駕籠」が、誰が乗っていたのかな?

 縁先の庭園を見るとちょっと変わった石組みが?

 書院の北側に約360坪の敷地にあります。山側に築山を盛り上げ芝生とし枯れ滝の石組みを配し鶴石組みとしています。その前の池の出島を亀島に見立てています。

 池の東側には土の太鼓橋を設けて対岸の切石枠の井戸に渡る造りなっています。

 この形式から、美しさで知られる書院造の蓬莱山水庭園は、桃山時代の様式を残す池泉観賞式庭園とされています。

 作庭時期は江戸時代初期と推定されています。『日本庭園史大系』において重森三玲・重森完途が「絵画的表現美を誇る意匠」、「山陰を代表する名庭の一つ」と絶賛しますね。

 今の時期、池には睡蓮の花が咲き、菖蒲にサツキが咲き新緑も綺麗です。庭園を鑑賞しながら、お茶を頂き少しの時間を過ごさせてもらいました。
次回をお楽しみに では またね

初夏の新野の水車風景  2011.06.04 

2011年06月05日 19時34分38秒 | 公園・名所・名勝


  所在地  新野水車   兵庫県神崎郡神河町新野

  長閑な田園風景、田植えの季節で新野の水車を見に来ましたが、先客の多くのツーリングの方々が来られていました。

 新聞で見たのか車で来られた方々も三脚を立て写真を撮られていましたよ。

 神河町新野区では、かつては集落内に揚水水車が18基あり、田畑をうるおしていました。その配置密度から全国一と称されましたが、

 その後は電気式ポンプとなり、3基のみを残すのみちなり、国県の支援も受けて、10基の水車とバイカモ水路と遊歩道の整備を行い、清流と水車とで村づくりをすすめようとしています。今日は、水路の水もにごりバイガモを見ることが出来ません
 長閑な水田風景の中で、水田では、農家の方が一生懸命働いています。

 撮影のいい季節になると、水車を撮影しようとするカメラマンもどっと押し寄せるくらいの人気が出てきているようです。

 今の時期、水車の附近には、黄菖蒲の花が咲き水田とのいい景色です。

 水車附近には、遊歩道があり、清流と水車とで村づくりを進めているようです。

 ちょっと覗いて見ると、精米が行われている水車小屋のようです。

 田んぼでは、お婆さんが、お孫さんと「オタマジャクシ」捕りをしています。長閑な田園風景です。

 田んぼに水を揚げるための水車が並ぶ新野地区は、今でも一部が残る「水車のまち」としても知られ、住民らは「地区のシンボルとしての水車を復活させ、まちおこしにつなげたい」と張り切っているようです。

 水車の風景を満喫して帰ることにしましたが、バイガモが見ることが出来ず残念です。前回は彼岸花の咲く頃に来ましたが、機会があれば また お邪魔したいですね。
次回をお楽しみに  では またね
 

播但線・水車のある田園風景を走る電車  2011.06.04 

2011年06月04日 20時58分22秒 | 船舶・鉄道・その他の撮影地


  所在地  新野駅   兵庫県神崎郡神河町新野

 相対式ホーム2面2線を持つ、交換設備を備えた地上駅。福崎駅管理の無人駅で駅舎らしい構造物はなく、直接ホームに入る形になっている。なお、2つのホームの間は跨線橋で連絡しており、1番のりば側に直立式の自動券売機が置かれています。

 2006年頃から、銀の馬車道プロジェクトとして、沿道周辺に残る歴史遺産の整備が進められようとしています。、“銀の馬車”かけめぐる中播磨づくりに向けて、JR播但線において銀の馬車道ラッピング電車を運行しています。

 播但線内を走る唯一の定期特急列車がやって来ました。

 大阪と北近畿・山陰エリアを播但線経由で結ぶ特急として昭和47年3月に運転開始しました。登場時にはキハ80系で、その後長らくキハ181系で運転していましたが、平成22年11月7日からは安全性の向上や環境に配慮し、どなたでも使いやすく快適な新型車両「キハ189系」での運転となります。田園風景の中を走ります。

 JR播但線を走るラッピング電車です。銀の馬車道ラッピングの103系電車です。

 にぎやかなラッピングですね。

 新野地区の水車を背景にラッピング電車です。赤、青、黄の3種類の電車があるようです。
次回をお楽しみに  では またね