hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

黒田官兵衛ゆかりの地・黒田城址  2013.09.28

2013年09月30日 09時16分30秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  黒田城址    兵庫県西脇市黒田庄町黒田

 加古川線本黒田庄駅より1kmほど東へ行くと、黒田城跡のある山頂まで車で入る道があります。入り口には、猪など獣の出入りを防止する為門扉が設けられている。開けた後は、必ず閉める様にとの注意書きがあります。扉付近には沢山の彼岸花が、扉を開けてガタガタの道をあがって行くと車を止めるところがあります。

 車を止めた先には、清綱稲荷大明神参道の沢山の鳥居が

 幾重にも重なった鳥居のある階段を上り、傾斜のある道を少し進むと正面に稲荷神社が見えてきます。この辺りには、黒田城があったと伝えられています。この城は、室町時代の土豪・黒田重勝によって築城されたといわれています。

 初めてこの地に武士集団がやってきたのは室町時代(1350年頃)です。播磨の国西部で大勢力を持つ赤松則村(円心)の弟円光も武勇に優れ、元弘の乱では大活躍をしました。円光は楠木正成の姉を妻に娶り、東播磨に勢力を伸ばそうと加西郡河内(現在の加西市河内町)に城を築きます。円光の息子で兄の敦光は別所五郎と名乗り別所氏の祖となり、三木城主別所長治まで続きます。また弟の重光は、丹波との国境を守るべくこの地にやってきて黒田七郎重光と名乗り、黒田城黒田氏初代となります。初代重光はこの黒田に父祖の霊を弔うべき円光寺を建てます。

 山上に黒田城の主郭が、山裾の姥ヶ懐といわれる所に黒田家の屋敷があり黒田官兵衛はここで生まれたと言われています。九代治隆の時代の元亀の頃(1570始め)丹波の赤井五郎・川向い石原城の石原掃部助(かもんのすけ)連合軍の突然の襲撃に敗れ、黒田城は滅亡しました。一方、弟の孝隆はそれより早く姫路城主・小寺美濃守職隆(みのうかみもとたか)の猶子(養子)となっており、御着城主・小寺政職(まさたか)の家老になっていました。

 山裾の姥ヶ懐から山上に黒田城址へ戻り、車でガタガタ道を下ります。正一位清綱稲荷大明神が播磨黒田家の城跡とされている所で現在は、清綱稲荷大明神が祀られて居るといわれています。
 次回をお楽しみに  では またね

再度山大龍寺  2013.09.25

2013年09月29日 16時58分21秒 | 神社・寺院


  所在地   再度山大龍寺    神戸市中央区神戸港地方再度山1

 神戸市街の背山として存在する六甲山系中央部に再度山があり、その山頂付近に大龍寺があります。地下鉄県庁前から山手女子中・高校前を通り、山を登って猩々池から大龍寺へ

 再度山大龍寺仁王門です。

 仁王門前、正面の石段沿いに西国三十三観音が並びます。石畳状のゆるい階段とその先の、80段ほどの階段を登りきったところに本堂他の建物が建っています。

 石段を登ったところに本堂が、神護景雲二年、称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公は、摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて当地の山中まで来られたときのことであります。公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客は、忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまった。危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわしてみると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられたのであります。霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を「大龍寺」と名付けられました。

  毘沙門堂…右には弁財天、中央には大黒天、左に毘沙門天が祀られています。

 再度山大龍寺鐘楼です。

 ここ奥の院、太子堂です。延歴ニ十三年、入唐される弘法大師は、旅の所願成就を御本尊に祈願されました。その甲斐があって唐の長安で青龍寺の恵果和尚より秘密の大法を授けられ、大同元年に無事帰国されたのであります。そして、帰朝報告奏上のため上京の途中、ふたたび当山に参籠され本尊に報恩謝徳のため七日間秘法を勤修されました。
弘法大師が再び登山されたというので「再度山」と呼ばれるようになり、修法された場所を「修法ケ原行場」と呼ぶようになりました。

播磨アルプスの高御位神社   2013.09.24

2013年09月28日 20時10分56秒 | 神社・寺院


  所在地  高御位神社     兵庫県加古川市志方成井

 高御位神社のふもとに到着です。車が10台ほど止められる駐車場があり。そこから少し歩くと、成井登山口にある成井高御位神宮があり、そこの神宮は、今改築中でした。 

 成井高御位神宮の右より参道入り口から登っていきます。

 入口から山頂まで18丁の道のりです。ほとんどが階段です。

 途中には、地元の方々ちょっと一息つけるようにベンチなどが置かれています。

 ヘアピンの道を何度か繰り返し六丁目を過ぎると200段の階段がつづきます。途中のヘアピンのところから眺める景色が素晴らしいです。

 九丁目の中間地点を過ぎて十丁目にはベンチとテーブルがありひと休みです。ここからの景色も素晴らしいです。

 もう2丁ほどで高御位神社へ、この岩場から見る播磨灘方面が素晴らしく綺麗です。

 ここ階段を上がりきると、高御位神社の拝殿が見えてきます。

 御水(みもひ)址
この米粒のような形にくりぬいて作った穴は、古代人が神にお供えする水を溜めるために岩をくりぬいて作った穴であろうと云われています。

 山頂には、高御位山神社や、1921年(大正10年)にグライダーで関西初飛行を成し遂げた加古川市志方町出身の渡辺信二氏をたたえる「飛翔の碑」などがあります

 岩船でこの地にやってきた大国主命と少彦名命は、国を治めるため石の宝殿を造営しようとした。その時に生じた石屑は一里ほど北にある高御位の峰に捨てました。この高御位山の頂上には大己貴命(おおなむちのみこと)小彦名命(すくなひこなのみこと)の二神を お祀りしています。

 播磨平野の加古川下流域では高い山が少なく、高御位山が加古川市・高砂市の最高峰となっています。頂上では断崖の岩場がせり出し、播磨平野や瀬戸内海を一望できます。このため、播州地域では初日の出スポットとして知られています。

 「天乃御柱天壇」と書かれた石柱や、立派な方位盤も設置されています。

 加古川市と高砂市の境にある高御位(たかみくら)山は、標高304.2m(三角点299.8m)で播磨富士と呼ばれています。あまり高い山ではありませんが展望が開け素晴らしいですね。

 高御位大神御降臨之座址、神社南側の岩場は、今から約千二百年前の大同2年3月21日に、大国主命が、国造りのためにこの岩場におりてこられたと云う言い伝えがあります。前方の岩場一帯は、仏教が日本に伝わってきた以前の弥生時代から古墳時代にかけての古代人が神をお祭りするための「祭り事」を行った跡であろうと云われている。

 高御位山は、古代より山岳崇拝の聖地として、播磨一円の人々の厚い信仰を集め、山上の巨岩は神霊の宿る場として、長い歴史の流れの中で、人々は、報恩反始の心もて、その山容を、仰ぎつつ、今日に至っています。 低い山だと侮ってはいけません。あ~しんどかった。
 次回をお楽しみに  では またね















加古川志方の彼岸花とコスモス  2013.09.24

2013年09月27日 11時52分33秒 | 季節のたより


  所在地   コスモス畑        兵庫県加古川市志方町広尾

 今年(2013)も 兵庫県加古川市 志方東コスモスまつりがもうすぐ開催されます。
開催日:平成25年10月12日(土)~10月20日(日) 駐車場 入場無料
開催場所:兵庫県加古川市志方町の各会場
催し会場:本部・中央、高畑、広尾東、広尾西、野尻、大沢北、行常、畑、東飯坂  8会場
イベント・農産物販売を土、日及び全期間中営業の所があります。

 広大なコスモス畑が兵庫県加古川市志方町に出現し、コスモスまつりが開催されますが、関西で有数のコスモス畑になった兵庫県加古川市のコスモス畑です。
今年の広さは、「甲子園球場の9個分で、4000万本の広大なコスモス畑が出現!」19,2haです。 

 今の時期、コスモスは、3分咲きぐらいです。畦には、彼岸花も沢山咲いています。

 休耕田を利用してのコスモス畑、膨大な広さに圧倒されます。

 端の田んぼには、稲刈がまじかな稲穂が垂れています。

 色とりどりのコスモスが風に吹かれてなびいています。10月の中ごろには見事な花が見られることでしょう。

 休耕田を利用してのコスモス畑ですので、その年毎に開花場所が変わることがあります。今年もコスモスの見頃が待ちどうしいですね。
 次回をお楽しみに  では またね

加古川・安楽寺の彼岸花  2013.09.24  

2013年09月26日 09時13分20秒 | 季節のたより


  所在地  安楽寺    兵庫県加古川市志方町細田所631

 山門の近くにある、白い塀付近には、沢山の彼岸花が咲いているので、ちょっと車を止めて見ました。

 城山(中道子山)のふもとにある浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。もとは真言宗の寺院で、弘法大師の弟子、真紹上人の開山で、山頂に無量寿院を創建した(811)のに始まり、本光山中道寺と改号し、長い間山頂にありましたが、赤松氏が城を築く際、山麓に移されました(1380)。赤松氏の没落後、城主櫛橋(くしはし)氏によって浄土宗寺院として再建されました。白い塀が長く続いているのが印象的で、春には見事な桜も楽しめるようです。

 十王堂の地獄極楽絵図と十王像
境内の鐘撞き堂のそばにある十王堂には、地獄と極楽を対比して壁面に描かれた地獄極楽絵図と極彩色に彩られた十王像が納められています。生々しく迫力ある地獄極楽絵図をバックに安置された極彩色の十王像は、見る者を独特の世界に誘うようですが、私は、見たことがありませんが一度見たいものです。

 沢山の彼岸花が咲き綺麗です。ここ志方町付近には多くの彼岸花が咲いていますね。

 寺と道を隔てたところに「祟りのある石」が、お堂は壁も扉もない柱だけの素通しの建物で、そこにせきがん石龕と呼ばれる石で作ったずし厨子の中に、古い地蔵石仏が一体まつ祀られています。地元の人々はこの五輪塔と石仏を「とんが五輪」「とんが地蔵」と呼んでいるそうです。安楽寺の住職の話として「殿が」の音転ではないか。五輪塔は武士の供養塔であろうと書かれています。どちらにも製作された紀年名はありませんが、室町時代を下ることはない古い遺品と思います。

 白いニラの花と対照的に彼岸花の真っ赤な花が冴えます。

 家の近くにある、柿木に生る柿も色づき少しずつ秋らしくなってきました。

黒田官兵衛ゆかりの観音寺  2013.09.24

2013年09月25日 17時48分42秒 | 神社・寺院


 所在地  観音寺     兵庫県加古川市志方町志方720

 来年始まるNHK大河ドラマの「黒田官兵衛」のゆかりの寺をたずねてみました。戦国時代の軍師 黒田官兵衛の妻・光(てる/幸圓・こうえん)が生まれた櫛橋家の居城志方城があった場所です。一夫多妻が一般的だった戦国時代において、官兵衛は生涯を通して光(てる)ただ一人を愛したといわれています。

 この城の城主・櫛橋家は伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣でした。伊朝より五代の孫、櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重んじられ、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ文明十三年(1481)志方・天神山に城を築き、明応元年(1492)この地に志方城を築きました。

 境内に入ると、来年始まるNHK大河ドラマの「黒田官兵衛」に力を入れているのか加古川市では、あちこちに幟が立てられています。

 曹洞宗の寺院で本尊は観世音菩薩で、観音寺の付近一帯は志方城跡です。城の規模は現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲む内堀の周囲に二の丸(志方小学校所在のあたり)西の丸(旧志方町役場所在のあたり)とかなりの規模の城であったようです。

 境内には、白い彼岸花が咲いていましたよ。

 現在の観音寺は、志方城落城の後、天正十五年(1587)、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが始まりです。境内には「志方城主・櫛橋家累代墓所」があります。

 志方城を築き以来、伊家、伊定、政伊と父子四代続き、天正六年(1578)羽柴秀吉の攻略にあって落城しました。伊定の娘、光(てる/幸圓・こうえん)は秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛の妻となり、結婚した翌年に嫡男が生まれました。後の福岡藩主・黒田長政です。志方城跡ー観音寺ー別名:観音寺城・船原城・市易城とも言われています。
 次回をお楽しみに  では またね

中世戦国時代の街並みを残す今井町  2013.09.19

2013年09月24日 16時49分56秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  今井町の古い町並み    奈良県橿原市今井町

 「紙半豊田記念館」を出て、「旧環濠」のある公園を歩き春日神社に

 境内には、今が盛りと彼岸花が咲いています。

 春日神社 - 今井町の氏神で本殿は、境内の西南部に鎮座している。鬼門(東北方向)に向かって建ち、今井町を鎮守しています。

 本殿は衣冠束帯彩色の木質紳像を安置するほか、径30cm.の神鏡が奉安され「春日社御鏡 嘉永七年(1854)寅年九月吉祥日 和州今井町氏子中」の刻銘があり、本殿前の狛犬・石燈籠などに境や大阪商人銘があるのはかって今井町と堺・大阪商人との交易関係を示すものです。現在は境内の一部の建物が改修工事中です。

 「旧環濠」の側を歩き、「旧南口門」へ「旧南口門」は、東方に80tの耐震性防火水槽を埋設し、西方に「旧南口門」「番屋」「土居」「環濠」を多少の位置変更はありますが復元整備をし、生活広場としています

 今井町の町並みを歩いてみると東西600m、南北310m、周囲に環濠土居を築いた城塞都市で、内部の道路も、見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは軍事目的で造られたが、江戸中期には、今井の商人の生命、財産を守ることに役立ったのでしょうね。見事なものです。

 『はにわまんじゅう』は、昭和十五年(1940年)、神武天皇ゆかりの橿原・畝傍御陵前に誕生し、その後、「海の堺、陸の今井」「大和の金は今井に7分」などの言葉が残る今井町で愛されてきました。古墳の副葬品として知られる「はにわ」をかたどったその姿や、カステラのふんわりやさしい舌触りと、こし餡のまろやかな甘さが生み出す素朴な味が喜ばれています。土産に買っておけばよかった残念です。

 町を囲うように環濠が掘られている名残などがあり、その後江戸時代になると、商業都市に様相を変え大阪の堺と共に「海の堺、陸の今井」と言われるほどに栄えていたようです。元々、軍事目的に作られたこの町は江戸時代中期には裕福な商人の生命・財産を守るように変貌します。

 今井町は、東西600m、南北310m、周囲に環濠土居を築いた城塞都市で、内部の道路も沢山あり、日帰りではゆっくり見ることが出来ず、見残したところがあります。機会があれが次回にもう一度来たいものです。
 次回をお楽しみに  では またね
 
















今井町に残る古い町並み  2013.09.19

2013年09月23日 11時31分39秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  今井町に残る古い町並み      奈良県橿原市今井町

 「今井まちや館」のこの先に、小林豆腐店がありますが、ここの豆腐は食べたことがないのですが、看板にピーナッツ豆腐、大和あげなど気になるものがありましたが、まだ、散歩の途中で気温も高く痛みやすいのであきらめました。ちょっと食べてみたいですね。

 「今井まちや館」は、一般開放されているので訪問しやすいです。その内部は、まさに往時のそのままです。昔は、座敷には、主人以下男しか上がれなかったそうで、奥さんと言えども女の人は、一段さがった土間の上がり口で食事をしたとか、はしごを登ったところは、屋根裏収納庫になってましたよ。

 ここから出て、中橋家へ、江戸時代、「米彦」の屋号で米屋を営んできた家で,町家の面影を今に伝える。18世紀末の建設とみられ、19世紀初期頃正面のみ、つし2階を増設した切妻造本瓦葺です。ここは、一般公開していません。

 称念寺の向かいにある古美術工房「夢ら咲長屋」と隣にある「今井町来訪者案内所」では、休憩する事も出来ます。「夢ら咲長屋」はみやげ物屋さんのようです。

 称念寺は、道路に面して太鼓楼・山門・鐘楼が並び、山門正面に庫裏が、右手に大規模な入母屋造りの本堂が建っている。称念寺は、天文2年(1533)すでに道場として創立されていたようである。そして、天正年間(1573~92)、本願寺第11世顕如上人から寺号を得て、今井兵部を開基として一寺が建立されたと伝えられる。この寺は、代々、今井氏が世襲して武士と僧侶を兼ねていた。延宝7年(1679)、今井氏は武士を返上して釈門に専念することになり、今日に至った。

 現在「本堂」は、大規模な改修中で、初期の浄土真宗の建築様式をよく残している貴重な建物です。本堂脇にある住居部分。過去には明治天皇が立ち寄られたこともあり、それを示す石碑が建てられています。ちなみに、その際に西郷隆盛が挙兵(西南戦争)の一報が届き、急いで後にされたのだとか、建物の屋根部分には「丸に三つ葉葵」の御紋が!言うまでも無く徳川家のもので、これを刻むことを許された寺社は数少ないのだそうです

 その脇には「太鼓楼」が,今井町の成立は、戦国の世、天文年間(1532〜1555)この地の一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって建設されたことに発し、一向宗の門徒が今井に御坊(称念寺)を開、自衛上武力を養い、濠をめぐらし、都市計画を実施した。永禄11年(1568)織田信長が足利義明を擁して入京以来、本願寺も反信長の旗を立て、寺を中心とした城塞都市の形態を整え、抵抗したが天正3年(1575)今井氏は今井宗久、津田宗及、明智光秀を
通じて信長に降伏し、事なきを得た。 かくして、大阪や堺などとも交流が盛んになり商業都市としての変貌をとげ、江戸時代には、南大和最大の都市となって大いに栄えました。

 御堂筋の称念寺前にある平屋建の老朽家屋を譲り受け再生しまのが「今井まちづくりセンター」です。建物の建設については、設計を広く募集し、「プロポーザル」方式で設計者を特定し、発掘調査完了後建設しました。

 豊田家は、屋根は入母屋造、本瓦葺で軒は高く、2階軒は出桁造りとなり、旧は木材商らしく、2階正面の壁に丸に木の字の紋をつけた豪壮な外観です。内部は、東側が土間としもみせで、居間部は整った六間取りです。建築年代も古く、納戸構など各所に古式の手法が残っています。

 「貴重な物が展示してあるから是非見て下さい」と女性が声を掛けてこられたので「じゃあ見てみますか」と見学することにしました。門を入った左手に「長寿の樹」があります。樹に耳を当てると水を吸い上げる音が聞こえるかな?

 豊田家は、町人文化が開花した元禄時代からほぼ1世紀が経過、江戸時代中期から後期へ向かう頃、今井町在住の豊田家の先祖、五代目・六代目紙屋半三郎は商才豊かな人物で、肥料販売を皮切りに時代の後押しもあって大和綿を取り扱い相当の財を成しました。全て先祖伝来の、化粧道具などの漆器や刀剣などが展示されています。大きな車長持や千両箱、200年は経つという鯉のカタチになる以前の貴重な鯉のぼりも色鮮やかに展示されています。
これからもう少し町並みを歩いてみます。
 次回をお楽しみに  では またね















 

今井町の町並み散歩  2013.09.19

2013年09月22日 13時58分07秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  今井町町並み    奈良県橿原市今井町

 この今井町は、なにより一般の人々が今も生活する生きた町で、多くの観光地のようにみやげ物店や飲食店を作らせないで昔のままの時が刻まれているのが大きな魅力です。

 今井町:北側に位置する大工町筋にある、連妙寺で 正慶2年(1333)大覚大僧正妙実聖人の開基、創立です。

 80tの耐震性防火水槽を埋設し、鉄筋コンクリート造り、外部木製の2階建ての防災小屋を建設しました。木造建築の密集地の中、初期消火および災害時の救援などの防災拠点の役割をそなえ、便所、休憩施設、防災倉庫を設置しています。建物周囲は「井戸」を想定した生活広場として開放しています。ここでひと休みです。

 天領となった延宝7年頃は,今井町が最も栄えた時期とされ,家数1,082軒,人口約4,400人を数えました。軒が長く連なる様子は「今井千軒」と言われていたことからも伺うことができます。経済的に豊かであった今井町では,町民の間にさまざまな文化や娯楽が発展しました。

 。「 旧米谷家」は、「米忠」[こめちゅう]の屋号で、代々金物商と肥料商を営んでいた家。切妻造、本瓦葺き、平入りで立ちの低い町家です。内部は東側に通り土間、土間の隅はシモミセを取り、居室は珍しく五間取りです。裏庭に建つ土蔵は、数奇屋風の蔵前座敷を付属しています。珍しく広い土間、煙返しなど、むしろ農家風の民家としてのイメージが強い建物です。

 旧米谷家の“かまど”は、口が部屋と反対方向にあり、煙が部屋の中に入らないようになっています。上から見ると勾玉のような形をしていて動きやすく、作業効率が考えられています。また、土間部分天井に煙返しがつけられるなど、かまどの発展系を見ることができます。

 土間を抜けて中庭に出ると蔵。その蔵の入口に隠居部屋がありました。奥には蔵があり蔵番と兼ねたような役割だったのでしょうね。

 音村家住宅は、町内でも古い部類に入る17世紀後半の建築ですが、その後2回に分けて座敷が増築されています。「細九(ほそく)」の屋号で金物問屋を営んでいた家です。主屋は17世紀後半に建築され、後になって北西部に「つのざしき」を、19世紀中ごろに西側に座敷を増築しています。時代に合わせて増築されているのが特徴です。

 この今井町の町並みはすごいですね。 ほとんどが昔ながらの町屋で、よくこれだけ保存されていると感心させられます。

 この今井町の町を歩いていると江戸時代にタイムスリップしたようです。まだまだ今井町の町並みを歩きます。
 次回をお楽しみに  では またね















今井町町並み歩き  2013.09.19

2013年09月21日 16時21分46秒 | 歴史・遺跡・伝説

  所在地  今井町の町並み      奈良県橿原市今井町

 「八木西口」から歩くこと数分で飛鳥川の流れに赤い欄干の蘇武橋を渡ると、案内板と「蘇武橋のエノキ」が樹高は15メートル、 幹周りは約5メートル 枝張り20メートル 樹齢は420年と推定されている木がお出迎えです。

 蘇武の井は、
聖徳太子が斑鳩宮より筋違道(太子道)を経て、曽武々の橋をわたり、八木の里を過ぎて、橘宮に通い給いしなり」(玉林抄)とあります。聖徳太子は舎人調使麻呂(つきのおみまろ)と秦河勝から献上された愛馬甲斐の黒駒を伴って今井町の北東部にある曽武(蘇武)井で休憩したと伝えられております

 今井蘇武橋公園を南へしばらく歩くと観光案内所「華甍(はないらか)」が見えてきました。

 奈良県今井町は“重要伝統的建造物群保存地区”として町全体が昔のままに保存されています。そのシンボル的な建物として交流センターと資料館になっているのが“華甍”です。元々は明治36年に「高市郡教育博物館」として建てられた建物です。ここで今井町の歴史を詳しく、分かりやすく解説する資料を一堂に集めた資料館として、展示コーナー、映像シアター、図書閲覧室などがあり、情報等を仕入れて町を歩きます。

 かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町で現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。

 連なる軒先と白壁、鬼瓦は江戸時代そのままの景観で、現在約1,500軒ある民家のうち、約500軒は江戸時代のもので、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。虫子窓が続く古い町並みを歩くと落ち着きますねえ~

 軒先に新酒が出来たことを知らせる杉玉が吊るされた町屋が、上品寺屋の屋号を持つ河合酒造です。この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある蔵元です。大和三山に囲まれ、江戸時代の町並が残る今井町で現存する唯一の酒蔵です。屋号を「上品寺屋(じょうぼんじや)」といい、明和9年(1772年)には既に酒造業を営んでいたと文書にも残っております。ここで代表銘柄「出世男」を買わずに「奈良漬」を買いました。

 店内には、”花嫁駕籠”が置いてありました、この籠に乗って嫁いでこられたのでしょうか?

 前方に「南部銀行」が、この建物も古い町並みにマッチするように建てられています。

 江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています。また、国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件あります。地元の材料を使い、近隣の職人によって暮らす人に便利なように工夫された一軒一軒の家は、土地の風土や自然、歴史をはっきり反映しており、民家建築の貴重な財産でもあります。まだまだ町並みを歩き始めたばかり
 次回をお楽しみに  では またね















若桜鉄道と徳丸ドンドン  2013.09.11

2013年09月15日 20時19分37秒 | 船舶・鉄道・その他の撮影地


  所在地   徳丸ドンドン    鳥取県八頭郡八頭町徳丸

 若桜鉄道の徳丸駅から八東駅の間の脇を走る国道29号から脇道へそれると公園が、

 ここ八東川には、徳丸ドンドンという溶岩が侵食されてできた天然の淵があります。一面がカメの甲羅の平石になっているところがあります。この平石は幅約72メートル余り、上下焼く1.6メートルの高さで岩面一面をドンドンと音を立てながら滝のように水が流れる事から、この名前がついたと言われています。

 清らかな八東川の流れが、白い帯となって見えます。高さ約1.6mのところから水が流れ鮎がここを上がることができないことから鮎が滞留し、釣りの名所としても人気です

 この八東川は昔、年貢を鳥取まで運ぶのに利用されていましたが、このドンドンを船が通る事ができないことから別の船川を作って年貢を運びました。春から夏にかけては鮎がここを上がる事が困難であることから鮎が滞留し沢山の釣り客でにぎわいます。

 後ろには、若桜鉄道の鉄橋が走っており、ちょうど列車が走ってるところを写真に撮ったりするポイントにもなっているようです。一見してちょっとした川の中の段差といった感じの淵か小さな滝のようですね。

 今日の、この時間帯は「WT2500」が一両で運行しているようです。

 近くで見ると結構な段差がありますね。

 長閑な風景で、若桜鉄道の車両が鉄橋を渡る「徳丸ドンドン」の景色はいいものですね。

 近年この徳丸ドンドンが侵食されつつあり、貴重な自然景観として保全してほしい声が上がっているようで、文化的にも重要な区間であり保全してもらいたいものですね。
 次回をお楽しみに  では またね

若桜鉄道・若桜駅  2013.09.11

2013年09月14日 19時33分58秒 | 船舶・鉄道・その他の撮影地


  所在地   若桜駅     鳥取市八頭郡若桜町若桜

 若桜鉄道の若桜駅に車を止めて、因美線郡家駅から若桜駅に至るローカル線の若桜駅は、昭和5年開業当時の姿をとどめる木造駅舎や機関車を方向転換させるための手動式転車台など、SL時代の設備が残されており、鉄道ファンのみならず、人気の駅です。

 若桜駅前の駐車場横に並べられていた川柳集。「若桜町さくら吟社作品集」という名目で町内外からの川柳作品の数々を展示しているのだが、その一句一句が心にしみる言葉も~ そこには、遠くから見れば、本物用に見える雰囲気の案山子が

 若桜駅の構内に入るには、入構券(¥300)が必要ですが、外から写真を撮りました。構内には、宝くじの寄付金による「WT3301」号と「WT3003」号のさくら4号が構内に止まっています。

 若桜鉄道若桜駅構内には、ディーゼル機関車DD16 7号が、1971年から1975年にかけて国鉄長野工場(現・長野総合車両センター)・日本車輌製造・川崎重工業で65両が製造された小型液体式ディーゼル機関車ですが、それが若桜鉄道若桜駅に

 給水塔、貯炭台のところに、長く加古川線で活躍、奈良運転区に転じた。吉松区に移動し、南延岡区に移動した。昭和48年2月、高千穂線最後の貨物を引いたC12167号機を譲り受けて構内で運転をするなどの活動がされている蒸気機関車です。

 「道の駅若桜」より望む、若桜駅構内です。

 幕末、藩の出入りを警戒した若桜町の浅井番所の門などが若桜鉄道・若桜駅横に“再現”された。実際に番所が置かれたのは、町の中心部を流れる八東川をはさんで若桜宿の向かいにある浅井集落のはずれだったが、SLが走り若桜の観光スポットになっている駅に町が再建した。太さ35センチの杉を角材を使った堂々とした門と木塀、由来などを記した銘板があり、宿場町の雰囲気を醸しています。若桜駅を後に
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今に伝える若桜宿  2013.09.11

2013年09月12日 20時46分58秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   若桜宿    鳥取県八頭郡若桜町

 若桜駅の前にある「観光案内所」で資料を頂き、「蔵通り」「寺通り」へ

 広い通りから入っていくと雰囲気がちょっと変わり昔の趣が、

 通りを歩いていると、「蓮教寺」が、ここは、文明9年(1477)日蓮宗総本山久遠寺の僧「円教院日意」が、西国巡礼の途中に当地に立ち寄り、鬼ヶ城主矢部氏の帰依によって、溝見村に大伽藍を建立したのが始まりと伝えられています。かってこの寺の井戸は、名水として珍重されていました。

 側には、休憩交流処「かりや」があります。町を歩き足を休めるため立ち寄るのも良いでしょう。

 ここ「正栄寺」は、寺伝によると、開基は浄良法師と言われ、元播州佐用郡高野須城主赤松越中守正直の弟、赤松源次郎友純といい、大阪石山本願寺の顕如上人の直弟となって本願寺を守護して後、この地に来たりて赤松村千石岩下にあったと伝えられる毫照寺に移住し、真宗を広めたと言われます。慶長8年(1603)に「仏光山正栄寺」と改称しました。

 明治18年若桜宿に大火が発生し、寺を火災から守るため蔵以外を建てることを禁止されたことで蔵がまとまって建てられました。

 現在20の蔵があり、商家の土蔵・白壁・赤瓦・板張りどれも妻側通りに向けています。

 不遠山西方寺、かついは寿命院二尊寺と称していたようで、釈迦、阿弥陀の二尊を安置し、矢部山城守の祈念所となったとあります。一度は廃れたものの木下重堅の帰依により祈念所として寺領を寄進、現名称に改称したとあります。若桜鬼ヶ城の城主であった木下重堅の五輪塔についてですが、重堅は1600年関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗走に従い大阪で自刃し、遺品・遺髪がこの西方寺に届けられ葬られた旨書かれています

 寺は、隣通しがつながり、寺の本堂や庫裏も道路から16間離れたところに建てられこの通りが形成されているようです。

 ここは、若桜宿の土蔵、水路及び仮屋等古い町並みが見られます。

 ここ仮屋通りは、若桜宿の町は明治時代の大火で大半が焼失した。その後の復興建築は、家屋を道路より約3m後退させて道路沿いに小川を引き、民家と小川の間に連続する幅1.2メ-トルの庇が設けられた。小川は用水と雪流しと鯉の飼育に使われた。この小川と民家の間の庇の下の私道を仮屋(カリヤ)という。これは豪雪地帯の若桜宿独特の建造物で、昭和前期まで多く現存していたが、現在はカリヤ通りだけに見ることができる。

 仮屋通りの一画の旧家を改装して平成24年3月にオープンした、昔懐かしい「昭和おもちゃ館」です。 店先には駄菓子やおもちゃが買える売店があり、奥には有料の展示ゾーンがあります。あの日の記憶が鮮やかによみがえる昭和時代を彩ったおもちゃの数々が見学できます。売店では見かけることも少なくなった駄菓子やおもちゃを販売しており、タイムスリップした気分を味わってみてはいかがでしょう。

 少し離れたところに、「若桜橋」が、山紫水明の小都に美観を添える若桜橋は延長82m、有効幅員5.5m。昭和9年に地方では初めてのコンクリート橋として完成しました。若桜橋は、国道29号線沿いの八東川に架かる橋梁として、昭和8年10月に着工され昭和9年7月に完成しました。鉄筋コンクリートアーチ橋であり、3連の美しいヴォールトアーチを成しているのが特徴です。戦前の橋で3連規模のものは県内では例がなく、大変貴重なものです。ここを見て次のところへ
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若桜町・不動院岩屋堂  2013.09.11

2013年09月11日 20時35分48秒 | 神社・寺院


  所在地   不動院岩屋堂       鳥取県八頭郡若桜町岩屋堂 

 若桜鉄道、若桜駅前にある町並みを歩くため国道29を通り、久しぶりに若桜町の不動院岩屋堂にきました。少しは変化しているかな?

 駐車場に車を止めて「吉川川」の脇を歩きます。先日の雨にもかかわらず綺麗な水です。

 この橋の先には、右に「岩屋神社」が左には「岩屋堂」があります。前回と違うというえが、新しく綺麗な洗面所と休憩所が出来ておりました。

 右にある岩屋神社の社殿に迫る岩が本殿も岩穴の中に建っているので岩が覆いかぶさって、 本殿が岩穴の中にすっぽり入っているのがよくわかります。

 不動院岩屋堂は高さ約13m、間口約7m、奥行約10mの天然の岩窟に嵌め込まれるようにして造られた寺院建築で、屋根は前面を入母屋造、背面を切妻造とし、床下を長い柱で支える懸造(舞台造り)である。伝承によれば大同元年(806年)の創建という。中世以前、本寺である妙高山神光寺は寺領150石を有する大伽藍であったが天正年間(1573年-1591年)に豊臣秀吉より攻められて全山焼失し、当堂だけが残りました。

 現在の堂は鎌倉時代初期の源頼朝による再建と伝わるが、昭和30年から32年にわたって行われた解体修理の報告書においては室町時代初期頃の建立と推定されている。昭和28年(1953年)に国の重要文化財の指定を受けた。本尊は、空海32歳の作の伝承をもつ黒皮不動明王で、日本三大不動の一つともいわれます。

 修験道寺院の建築として知られ、天然の岩窟内にある舞台造りの建物で素晴らしい建物ですね。この後は、若桜駅前の町並みを歩いてみます。
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関宿・関地蔵院  2013.09.06

2013年09月10日 17時19分50秒 | 神社・寺院


  所在地  関地蔵院     三重県亀山市関町新所1173―2

 東海道47番目の宿場町として栄えた関の町。ここにわが国最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院(通称・関のお地蔵さん)が所在します。天平13(741)年、奈良東大寺の僧行基が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられています。

 鐘楼(附:棟札、三町普請鐘楼堂修覆記) - 寛永21年(1644年)建立のようです。この鐘楼の形はちょっと珍しいかもしれませんね・・・境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定されています。

 お地蔵様は、この世でもあの世でも、あらゆる苦しみから人々を救ってくださる菩薩です。この本尊は数あるお地蔵様の中で、古くから東海道を旅する人々の信仰も集め、多くの人々に敬愛されてきました。

 これは、地蔵院愛染堂です。愛染堂大修理のときに,有名な一休和尚が東海道を旅していたそうな。地蔵の開眼供養をしてほしいと考えていた村人たちが、関宿を通りかかった一休和尚に頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯(ふんどし)を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。

 当寺は天平十三年(741)、国中に流行した天然痘から人々を救済するため、行基菩薩によって創建されたと伝えられる古刹で、本尊である地蔵菩薩坐像は、わが国最古の地蔵菩薩と言われています。元禄十三年(1700)、五代将軍・徳川綱吉公の手によって新しい本堂ができ、地蔵尊はそちらへ奉安されることになりました。

 お地蔵様は、この世でもあの世でも、あらゆる苦しみから私達を救ってくださる菩薩で、奈良東大寺で知られる僧・行基が天平十三年(741)諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地にお地蔵様を刻んで安置されたのが、始まりといわれています。
「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろう」と歌われたほど円満な顔だちのお地藏様です。
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