hasyan の 旅の散歩道

元気な間に余暇を通じてドライブなどで得た、行き先々の身近な風景・
神社仏閣・史跡・花の写真などをお伝えします。

勝山城下町  2014.07.25

2014年07月29日 20時31分59秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  勝山城下町   岡山県真庭市勝山319(勝山文化センター)

 勝山は三浦藩2万3千石の城下町。古代から出雲街道がとおり、江戸時代には諸大名の参勤交代の道として宿駅が整備され旅人の往来も盛んになり、美作西部の政治、経済、文化の中心地となったところで、一度は行きたいな~と思っていたところです。文化センターに車を止めて城下町を散歩です。向こうに見えるのは鳴戸橋です。

 「桧舞台」と書かれた、この通りの両側にひのきの木組みが作られていて、ウッドストリートと名付けられ、趣の違った通です。ここを通らず「町並み保存地区」へ

 この石階段を上がっていくと「武家屋敷地区」に行きます。

 明徳寺の創建は元禄16年(1703)、永源寺(滋賀県東近江市)の開祖円応正燈国師の生誕地に記念寺として開いたのが始まりと伝えられています。当初は高田城の城内にありましたが宝暦元年(1751)、勝山藩が立藩し新たに陣屋を設けると現在地に移されました。

 境内の「白菊塚」は文化11年(1814)に勝山の俳人松毬庵里翠が建立したもので松尾芭蕉の句「 しらきくの目にたてて見る 塵もなし はせを 」が刻み込まれています。「白菊塚」は真庭市指定文化財に指定されています。

 この先には、勝山武家屋敷館が、三浦藩上級武士「渡辺氏」に関係する武具等を展示する上級武家の屋敷。武家の暮らしが分かる展示室も設置されている。この武家屋敷は昔のままの姿を残している唯一の上級武士の家屋で(別名渡辺邸ともいう)、渡辺氏は家老格の名門で百六十石でした。

 この勝山には、武家屋敷や商家を残す旭川の澄んだ流れに白壁が映える真庭市勝山の町並みは、勝山藩23000石の城下町として、今もその風情を色濃く残しています。

 出雲街道の宿場町として栄えた勝山。白壁や格子窓の商家や民家、なまこ壁の土蔵といった伝統的な建造物が並び、城下町のたたずまいを残す古い町並みですね。

 この通には、保存地区内の家々の軒先には色とりどりの草木染めの「のれん」が掛り,訪れる人々を優しく迎えています。

 町並保存地区のお店ということで「のれん」が、勝山土産に美味しい地酒「御前酒造元」です。

 「神橋」を渡り旭川を覗いて見ると、待望を狙って鮎の友釣りをしているのかな?

 旭川に架かる中橋(歩道)専用から望む勝山町並み保存地区と高瀬舟発着場跡付近でここは、かつて高瀬舟の最上流の船着き場であったようで、昔、産物の輸送は、すべて川を利用しており勝山より岡山まで地方の産物を積み、勝山への帰りは、塩・日用雑貨品を積んで運んでいた。旭川では勝山が最上流の船着場で、中世から近世にかけての繁栄を支えていました。

 高瀬舟船場跡の石碑、岡山県北部に位置する山あいの町・勝山は、三浦藩2万3千石の城下町として、出雲街道の宿場町として栄えた町でした。また、室町時代末期には旭川の水運が開かれ、高瀬舟の北の発着点として年貢米や林産物などの集積地として賑わいました。

 大手道の東側には下級武士の屋敷町が広がっていました。茶の木で区画された狭い屋敷に住んでいたと言われています。

 大手道の突き当たりには、「玉雲大権現」など多くの寺院が建ち並び、旭川沿いに連なる家々は現在でも古い町並みと、武家屋敷あるいは寺院の配置等に城下町2百数十年の歴史が感じられます。
 次回をお楽しみに  では またね



















岡山市・龍泉寺  2014.07.25

2014年07月28日 22時14分11秒 | 神社・寺院


  所在地   龍泉寺    岡山市北区下足守900

 龍泉寺は、日蓮宗最上教の本山で、創建は奈良時代天平勝宝年間にこの地で山岳修行をしていた報恩大師によるものとされています。雨乞いの神である龍神様、八大龍王と、豊作の神であるお稲荷様、最上稲荷などが一体となった民間信仰の霊場だったところです。

 鳥居をくぐり駐車場へ、そのそばには、「太閤腰掛岩」があり立て札には「天象10年5月、高松城水攻の際足守川をせきとめ注水するため馬をかりて、この山城一帯を検分せし時、馬を止めて一休せし処と云う」と書かれていました。

 駐車場から本殿方面を望み坂を下り左へ

 御手洗い傍には 「浄行菩薩」と 「お傍の福ねこ地蔵」が、「浄行菩薩の由来」には、久達の本佛のお使いとして大地の底より湧き出てこられた四人の菩薩のお一方です。浄行菩薩は水の徳をあらわす菩薩で特に一切の穢れを浄めることを行としております。

 更に奥には、「ゆるぎ岩」が、「三千貫の巨岩も指1本でうごく、一指にて磐石をもゆるがすは、妙なる法の力なりけり  本山 龍泉寺」 動かないけどちょっとご利益があるかな~

 龍王の滝へ行く途中に、こんな「きのこ」が、少し可愛いね~

 龍泉寺は古墳群のある龍王山の西の中腹にあり、八大龍王と最上稲荷が渾然一体となった民間信仰の霊場で、神仏混合の祈祷の寺として知られる。滝に打たれる荒行は一般の方でも体験することができます。

 「最上の滝」と呼ばれる修行の滝では、雨乞いの神である竜神様、八大龍王と、豊作の神であるお稲荷様、最上稲荷が渾然一体となった民間信仰の霊場です。

 滝から少し戻り本殿へ、龍泉寺の境内と周辺には、多数の「もみじ」が植樹されおり、秋には美しい紅葉を見せてくれる。樹が育ってきており、知る人ぞ知る紅葉の名所です。春には山つつじの美しいハイキングコースにもなっています。

 創建は奈良時代の天平勝宝年間で、この地で山岳修行をしていた報恩大師によるものとされていますが、宗派は、かつて天台宗であった時期があり、日蓮宗に改宗したのは江戸期の備中高松領主の花房氏の影響によるものと言われています。この寺は、奈良時代天平勝宝年間に、報恩大師が創建したと伝られています。
 次回をお楽しみに  では またね

最上稲荷総本山  2014.07.25

2014年07月27日 21時53分34秒 | 神社・寺院

  所在地    最上稲荷総本山     岡山市北区高松稲荷712

 日本三大稲荷・最上稲荷総本山は、吉備平野を展望できる景勝の地にあり、今から約1200年前に報恩大師によって開かれました。旧仁王門が昭和25年(1950)の山火事で焼失したため、中興350年記念事業として再建が計画され、 昭和33年(1958)に完成しました。インドの殿堂様式で建造された石造りの仁王門は珍しく、平成21年(2009)に登録有形文化財に指定されました。

 本殿は、仁王門をくぐり、石段を上がると開山千二百年記念事業として計画され、5か年の歳月を経て昭和54年(1979)に立派な本殿が完成しました。代表的な行事の舞台となり、年間約300万人もの参詣者をお迎えする当山の信仰の礎となる殿堂の代表です.

 本殿前には長さ約 12m、総重量1.5tの大注連縄がかけられています。

 本殿の裏側には、石彫が、彫刻家・よしもと正人氏の作品で「生命の連環(いのちのれんかん)-法華経より」と名付けられています。縦8m、高さ8m、横24mの規模を有し、平成10年(1998)に完成しました。

 ちょっと坂道を上る側には、縁の末社の縁引天王(えんびきてんのう)と離別天王(りべつてんのう)をお祀りするエリアです。男女の縁だけでなく仕事や学業など様々な福縁を結ぶ良縁成就、人間関係に限らず病気や悪癖など諸々の悪縁を絶つ縁切りを祈願します。

 近くには旧本殿(霊応殿)が、寛保元年(1741)年に再建された建物で、新本殿建立の際に曳家工法で当地に移されました。当山最古の木造建築物で、最奥の建物が平成16年(2004)岡山市重要文化財に指定されました。その他の建物は、平成21年(2009)に登録有形文化財に指定されています。

 旧本殿(霊応殿)の後には、七十七末社が、最上尊にお仕えし、それぞれが厄除けや縁結びなどの役割を担って衆生救済の手助けをする神さまです。荒熊天王や朝日天王など20件が登録有形文化財に指定されています。

 少し道をそれて歩いて行くと、境内から一の丸の途上に建つ妙見堂は、備中高松城の守護神と伝わる妙見さまがお祀りされています。 今年の大河ドラマの主役・黒田官兵衛が羽柴(豊臣)秀吉に水攻めを献策したことで知られる備中高松城の戦です。最上稲荷の境内には、この戦ゆかりの古跡があります。ここからは備中高松城址を始め水攻めの要所が望めますが、今回は、一の丸には行きませんでした。

 最上稲荷総本山には、沢山の神様が居るんですね。
 
 ここの階段の先には、「パワースポット」の八畳岩が、報恩大師のご修行によって、最上尊が降臨された霊地です。岩上部の平面は畳が八畳敷ける広さがあるためこの名が付いたといわれ、備中高松城跡などを一望できる景勝の地です。近くには清水の湧く巌開明王(がんかいみょうおう)も祀られています。

 石階段の途中には、多くの神様が30分の道のり

 途中には本滝があり、本滝は滝行をする場所で、ここで休憩して八畳岩に行くのを残念しました。

 最上稲荷総本山の境内から仁王門の向こうに町並みがいい景色ですね。次の場所へ
 次回をお楽しみに  では またね

備中高松城水攻め跡  2014.07.25

2014年07月26日 15時23分46秒 | 歴史・遺跡・伝説


 所在地   備中高松城址公園       岡山市北区高松558―2

 大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」でお馴染みの備中高松城は、備前の国から備中松山にいたる松山往来沿いの要衝の地にあり天正10(1582)年の高松城水攻めの主戦場となった城趾として有名ですが、外観を見ると一般の公園と間違えてしまいます。

 城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(1辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態のようです。

 「清水宗治 蓮」古来、本丸と二の丸の間(この地)に蓮池の地名が残されており、沼の復元によって自然に生えたものであります。星霜400年、地下に眠っていた蓮が、再び、立派な花をつけ、城跡を訪れる方々の目を楽しませてくれることは、歴史の中にロマンがあり、水に守られ、水に散った城主・清水宗治公と蓮池との関連を追憶して去り難き感に打たれるものがあります。

 高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城でした。秀吉は軍師黒田官兵衛の献策に歴史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにしました。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されました。

 本丸にある清水宗治首塚は、清水宗治の切腹の後、秀吉が家臣に供養塔をつくらせ、その供養塔が首塚。当初は石井山にあったが、明治になって本丸に移されました。

 備中高松城址公園の「清水宗治 蓮」越に遠く吉備線を走る「キハ40系」が

 ちょっと足を伸ばすと、「ごうやぶ遺跡」があります。備中高松城水攻めのとき、三の丸総門のわきにあり、1582年6月4日死出の宗治等の舟を追うて宗治の僕、七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに差し違えた所です。

 その近くには、清水宗治が切腹した場所が、高松城の東にある寺の一番奥あたりにあり、「清水宗治公自刃の地 清水宗治公供養塔」天正10年6月4日、「浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して」と辞世の句を詠じて自刃せられたる高松城主清水長左衛門宗治公の至誠を後世に伝え怨親平等正邪一如の見地より両軍戦没者の霊を併せ弔らはんが為め瀬野妙光大法尼は十方有縁の士を結集して昭和38年5月8日此の地に大供養塔を建立し開眼法要を営む。

 本丸跡と水攻め築堤(ちくてい)跡は国指定史跡。公園中央には7000平方mもの広大な堀があり、毎年7月中旬になると蓮「宗治蓮」が約4000平方mにわたって咲き誇ります。ちょうどその時期にあたり「宗治蓮」が綺麗に咲いていました。
 次回をお楽しみに  では またね   

高島市・藤樹書院跡  2014.07.23

2014年07月25日 22時02分36秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地    藤樹書院跡      滋賀県高島市安曇川町上小川225―1

 今日は、少し暑いかな? 湖西線の安曇川駅に降りて、江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹[なかえとうじゅ]の居宅・私塾跡(史跡)。1648年(正保5)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る 藤樹書院跡へ「良知館」中江藤樹先生の教えにふれられる休憩施設に着きました。

 藤樹書院跡の門前には綺麗な水が流れる水路があり、鯉が群れ泳ぎ往時を偲ばせています。

 藤樹書院は、藤樹先生の開かれた私塾で、門人たちの発意により土地を買い広め、慶安元年(1648)に創建され、草ぶき屋根の建物でした。大きさは4間×8間に7つの部屋からなり、南側に玄関と縁側があり、講義された部屋の正面には祭壇が設けられ、太乙神を祀られていた。寛政8年(1796)光格天皇より藤樹書院に対して「徳本堂」の堂号をたまわり、明治13年(1880)上小川村の大火で創建時の建物は焼失し、2年後に県内外の募金によって瓦葺の建物として再建されました。

 藤樹書院址の門前の右側には、孔子の弟子の曾子の作といい伝えられる儒家の古典のひとつで、《論語》とならんで五経につぐ地位があたえられた。孔子と曾子の対話の形式にかりて,天子から庶人にいたるまでの各階層それぞれの〈孝〉のありかたが説かれ,また〈孝〉の徳が〈天の経,地の義,民の行〉と天地人の三才をつらぬく原理として形而上化されて、〈孝〉は儒教倫理の中心であり,かつ《孝経》は短編でしかも《詩経》の引用を多くふくんでいて暗誦にたやすかったから,知識人家庭では《論語》とともに《孝経》を幼童の教育に用いました。

 庭には、中江藤樹先生の像があります。

 藤樹書院は、近世初期の儒学者、中江藤樹・なかえとうじゅ(1608~48)が開設し、晩年を過ごした近世最古の私塾。門弟や村人の発意により土地を買い広め、慶安元年(1648)に創建される。寛政8年(1796)光格天皇より「徳本堂」の堂号を賜わる。明治13年(1880)上小川村の大火で創建時の建物は焼失し、2年後に県内外の募金によって瓦葺の建物として再建されました。

 美しい湧水が見事であったため門弟である熊沢蕃山の「万里の海は一夫に飲ましむる事あたわず、三尺の泉は三軍の渇きのやむるに足れるといえるものなり」という言葉から「三尺の泉」と名づけやそうです。

 今日は、「常省祭」(7月23日)で、中江家を継いだ三男弥三郎の命日。はじめ岡山藩に仕えて学校奉行を勤め、対馬藩でも学校奉行となって常省先生と慕われました。この日にも参詣者一同が「孝経」を拝誦します。そのときに行ったもので行事が終わった後、特別に話を聞かせていただきました。

 中江藤樹の教えは「致良知」(良知にいたる)という言葉に代表される。良知というのは良心、美しい心。人は誰でも天から与えられた美しい心を持っている。しかし我欲によって曇らせてしまうので、絶えず磨きつづけ、鏡のように輝かせておく努力が必要。良知が明らかになれば、天と一体になって人生は安らかになる。
「致良知」を井村右水様が琵琶を弾きながら聞かせてくれました。井村家は祖父代々、薩摩藩に仕えていたころから、家風として琵琶が継承され、祖父の父の弾奏する姿を見て自ずから修得,修業されたようです。

 中江藤樹先生は、名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来します。
  次回をお楽しみに  では またね    

浄土寺の裏山のアジサイ  2014.07.08

2014年07月13日 08時03分35秒 | 季節のたより


  所在地   浄土寺    兵庫県小野市浄谷町2094

 「浄土寺」は、鎌倉時代はじめに建てられた寺院です。敷地の中央に八幡神社、その前に池をはさんで浄土堂と薬師堂が向かい合うという珍しい配置となっています。春はさくら、夏は紫陽花と四季折々と美しいお寺です。

 国宝・浄土堂は、中でもひときわ美しい国宝「阿弥陀如来及び両脇侍立像」が有名です。名仏師快慶作の巨大な三尊立像で、西日を巧みに利用した「御来迎」の再現がなされている芸術作品です。拝観¥500です。

 国宝浄土寺の裏山では、あじさいが初夏の訪れを知らせてくれます。開山堂の左側にある不動堂の側からはいります。

 裏山には、四国八十八ヶ所めぐりができる林道が設けられており、江戸時代に作られた88体の地蔵を巡ることができます。

 コースは1周約1.5キロメートル約30分程度、散策するのにも丁度よい距離で、平成14年度から植栽を開始したアジサイは、「日向紺青」「土佐緑風」や、6月から10月まで長く花を咲かす「エンドレスサマー」、柏に似た葉を持つ 真っ白な房状の花が美しい「カシワバアジサイ」、またアジサイの基本種であるガクアジサイやハイドランジア(西洋アジサイ)等、約1万株が植えられています。

 あじさいの見頃は6月中旬頃から7月中旬頃で、紫陽花の花が先日の雨で生き生きとしています。

 コースは、江戸時代に作られた88体の地蔵を巡るもので、苔むした祠に寄り添うように紫陽花の花が

 四国八十八カ所は、江戸時代後期に作られたもので、八十八体の本尊石祠の脇に弘法大師がまつられ、各石祠には大部壮・垂井壮を中心とした小野市の近世村および、三木市、加東市の施主・願主の名前が刻まれています。

 静かな自然に囲まれ、1周を約30分程度で歩ける距離で平坦なので、快適に回ることができ、地元に親しまれている隠れた名所です。

 色とりどりの種類の紫陽花が綺麗に咲き目を楽しませてくれます。

 今まで2回ほど来ましたが、散策林道は少し狭く、松の立ち枯れが進み、笹などが生い茂っていましたが、枯れた松や雑木を伐採し、笹を刈り取り、階段なども設置し て、あじさいの植栽も行いました。その結果、これまでと見違える程、景観がよくなり、気持ちのいい散策コースになっていました。
 次回をお楽しみに  では またね

史跡忠臣蔵・観音寺  2014.07.08

2014年07月12日 07時23分06秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地  観音寺   兵庫県加東市家原14―4

 佐保神社の600m北にあります。浅野長直が加東郡のうち三千五百石を養子・長賢に分封したのが、家原浅野家。観音寺は、その家原浅野家の菩提寺です。その赤穂の分家という縁ゆえ、境内には赤穂浪士之墓があります。

 観音寺の境内に赤穂義士四十七士の墓標がつくられたのは、元禄15年の討ち入りから約150年後の弘化4年(1847)のことのようで、ちょっと興味津々覗いてみました。

 境内には、幾つかの「忠臣蔵サミット開催記念植樹」石のプレートがあります。

 主・浅野揮監察が、江戸城松の廊下で、有名な刃傷事件を起こす2年前のことである。境内の白塀に囲まれた一角。大石内蔵助や大石主税、堀部安兵衛ら赤穂四十七士の墓標が、浅野内匠頭の石碑を取り囲むようにずらりと並でいます。

 義士の墓は、江戸・泉岳寺、赤穂・花岳寺のものが有名ですが、それらに比べると、こちらは知る人ぞ知る「忠臣蔵」ゆかりの地だろうか。ここに供養の墓碑ができたのは、江戸後期の弘化4(1847)年。赤穂藩の断絶後も、加東で旗本として存続した家原浅野家の当主が、義士たちの150回忌を記念し建立した。

 「刃傷松の廊下」のせりふの一節に「浅野五万三千石家来も所領も捨てての刃傷でござる・・・」とありますが、赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)の他に、加西郡8920石(33ヶ村)、そして加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。

 加東郡の領地のうち、現加東市域に23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩ととても強い結び付きがあるということです。加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村にのぼります。このうち、○印の11ヶ村は家原浅野家に分知されました。

 家原浅野氏は赤穂浅野家の分家(3500石)ですが、赤穂藩は滅びた後もそのまま残り、明治維新まで7代、200年続きました。加東市家原にある観音寺周辺の土地を、「赤岸」と地元ではそう呼んでいたそうです。地名の由来は、と聞けば、「赤穂義士」がなまったとも。播州赤穂と遠く離れた北播磨に、なぜ赤穂義士? 実は旧加東、加西両郡には赤穂藩領が数多くあり、加東には赤穂藩浅野家の分家、家原浅野家の所領や陣屋もあったそうで、観音寺は浅野家の祈願所です。
 次回をお楽しみに  では またね

社の地名になった佐保神社  2014.07.08

2014年07月11日 10時25分12秒 | 神社・寺院


  所在地  佐保神社   兵庫県加東市社777

 正面には、約200年ぶりに修復された佐保神社の随神門です。その随神門には、木造の狛犬一対と矢大臣と呼ばれる木像の瑞神(随神)一対が祀られています。随神門には矢大臣像も修復され、美しく彩色された衣服を身に着け、矢を持って、門をくぐる者に目を光らせているように見えます。

 随神門をくぐると右側に佐保神社大灯篭があります。

 佐保神社は、垂仁天皇23年(紀元前76)の創建と伝えられ、最初、名前を坂合神社と呼んでいました。ところがこの呼び名が、時代と共に変わり、佐加穂となり、更に現在の佐保神社となりました。北播磨第一の大社といわれ社の町名は当社の門前町として発展してきたことに由来します。

 佐保神社の由来は古く、養老6年(722)遷座説をはじめ諸説ありますが、今から1300年も昔、奈良時代以前に遡ると考えられています。その由緒をたずねると、はじめ佐保大明神は、加西の鎌倉峯に天降ってきたのですが、針間鴨国造(はりまのくにのかものくにのみやつこ)の子孫である阿部三郎太夫が神託によって今の場所に遷したとされています。

 旧加東郡(現加東市・小野市域)では、県社に指定されたのは佐保神社一社で、そのほか、郷社8社、村社45社、無格社158社となっています。(旧『加東郡誌』による)

 鎌倉時代には北条政子が当社を崇敬し、本殿の再建と四方内外に檜木造の鳥居八基を建立し、しかし、戦国時代の争乱により社領は荒廃し天文十六年(1547)には火災に遭い神殿すべてが焼失しました。その後、永禄七年(1564)に神殿を再建。なお、現在の建物は延享四年(1747)に再建されたものです。
 次回をお楽しみに  では またね

秀吉腰掛石のある極楽寺  2014.07.08

2014年07月10日 08時39分34秒 | 神社・寺院


  所在地   極楽寺   兵庫県西脇市黒田庄町岡593

 西脇市の極楽寺へ睡蓮・蓮の花を見に行きましたが、時期が早いのか遅いのか、ほとんど花がありません。残念です

 前には、極楽寺の門が、

 門を入ると本堂があり、極楽寺は、山号は西岡山、臨済宗妙心寺派の寺院で、羽柴秀吉が天正年間、三木城を攻略した際、大志野に陣にあり、兵主神社に戦勝を祈願して、燈明田を献じました。当時は極楽寺ではなく、兵主神社の境内だったようです。

 本堂の左を曲がり、渡り廊下のある下を頭を打たないようにくぐると、その前に社があります。

 太閤腰掛石と呼ばれる庭石があります。太閤腰掛石由来記には「羽柴秀吉、天正年間三木攻略のとき、大志野に陣し、兵主神社に戦勝を祈願して、燈明田を献せり」とあります。現在の極楽寺は、その頃まだ建てられておらず、そこは兵主神社の森続きの境内であったと考えられています。

 兵主神社の境内だったこのあたりに、兵を駐め、自らも下馬して傍らのこの石に腰掛けて下知采配をとりました。やがて秀吉が天下を統一し、太閤の尊称を得ると、里人はこの岩を珍重し、秀吉の果報にあやかろうと、競って開運を祈願し、霊験を喧伝しました。しかし、天下は徳川のものになると、極楽寺が福谷の故地よりこの地に移り、寺の開基源太少広直の一族が遠祖と仰ぐ具平親王社を勧請し、この太閤石を申し受けて社殿に保存しました。

 この先にある、荘厳寺の文書や地元の伝承から、この地で官兵衛が生まれたという話が今も語り継がれているのですが、官兵衛ゆかりの神社といわれる兵主(ひょうす)神社。官兵衛は戦の先勝祈願のためにここを訪れ、その際に納めた奉納金で拝殿が改築されたと伝わります。兵主神社の近くには、秀吉が三木城攻めの際に腰かけたという石も極楽寺に残されていたんですね。この町には、今でも戦国のロマンが息づいているようです。
 次回をお楽しみに  では またね

三木・教海寺の念仏水とみころもの滝  2014.07.05

2014年07月09日 09時26分37秒 | 公園・名所・名勝


  所在地  教海寺    兵庫県三木市細川町脇川354

 寺伝では白雉2年(651年)、法道仙人によって開基された。 延暦14年(795年)、当寺で空海が三年間修行したことから、寺号を「教海寺」とした(空海は一時教海とも名乗っていました)。中世を通して、坊舍四十八坊寺領の50石があったが、天正8年(1580年)三木合戦の時、兵火によって焼かれました。

 「脇川の念仏水」は、細川町脇川の教海寺庫裡の少し手前にある井戸にこんこんと湧き出ている清水のことです。ここは、弘法大師が衣を洗ったといわれている池です。

 昔、弘法大師が老婆に水がほしいと頼んだところ、乏しい水がめから水を汲み出してくれました。大師はそのお礼に杖で山裾の窪みを突き刺したところ、そこから水が湧き出て、それまで水に困っていた村民を助けたという大師伝説が残っています。

 地元の人たちはこの井戸を“念仏井戸”と呼び、その上にお堂を建てて祭っています。そこには『念仏を唱えると水泡湧き上がり、願望成就す』という脇川集落発願の立て札が建てられていて、今も水が湧き出ています。集落名の脇川も、この湧き水からでたといいます。現在でもこの水は地元の人の飲料水となり、井戸から流れ出た小川の水は、野菜洗いなどにも使われています。

 「念仏井戸」の道には、「大師みころもの滝道」の石碑が立っていましたので、石段を降りていきました。

 すると、衣池の水が岩盤から滴り落ち、不動明王を衣の様に包み込んでいるように水滴が「ぽたぽた」と落ち水量が少ないのでちょっと滝にはみえなかったです。この滝の上には念仏水という銘水が湧いていてかなりの人が水を求めて訪れるみたいです。滝の前はのどかな田園風景が開けています。

 少し離れたところに本堂が、三木合戦のときは、籠城中の別所長治軍に教海寺の寺僧は城内の兵を助けるために、米を詰めた竹筒を美嚢川支流の脇川に流し、羽柴秀吉軍の目を盗んで三木城に送ったが、竹筒の栓に、同寺周辺にしかないコウヤマキを使ったため送り主が発覚し、寺は焼き打ちに遭ったとされました。

 檀家らの熱心な寄進により、徐々に再建が進み元和元年(1615年)、大師堂が建立されました。

 教海寺の境内には「半夏生草」があります。名の由来は半夏生のころに花をつけるからとも或いは葉の下半分が白くなりその白い部分を半分化粧した姿に譬えたともいわれています。

 境内には紫陽花の花が、時々降る小雨に濡れて生き生きとした花が綺麗です。
 次回をお楽しみに  では またね

軍師竹中半兵衛の墓  2014.07.05

2014年07月08日 19時54分08秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   軍師竹中半兵衛の墓    兵庫県三木市平井

 秀吉本陣跡から少し下ると標識が、100m少しで軍師竹中半兵衛の墓があるようです。

 殺風景な場所で付近には建物らしきものはありません。半兵衛は美濃(岐阜県)出身の兵法家で、秀吉の片腕として活躍しました。三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死しました。本営のあった山に続いたぶどう畑のまん中の、白い練りべいに囲まれて墓があります。半兵衛の墓は、志染町安福田にもあるようです。

 付近には、今が見頃の紫陽花が綺麗に咲いています。

 羽柴秀吉が三木合戦で播磨に出陣したときには、世にもまれといわれた二人の軍師を平井山の本営において、周到な作戦にあたらせていました。一人はもとの小寺官兵衛で、秀吉が播磨へ一歩を印したとき、みずからの居城、姫路城本丸を提供した黒田孝高。ほかの一人は美濃 (岐阜県)出身で、織田信長のはからいによって秀吉に属し、近江長浜城などにあって主従を超えた友情に結ばれてきた竹中半兵衛重治でした。

 三木城攻防戦がたけなわのころ、竹中半兵衛は胸を病んでいた。秀吉のすすめで京都に移って療養していたが、折からはかばかしく進展しない戦況を案ずるあまり、カゴにのって戦場へ逆もどり。夜半に本営にのりつけた。「なぜ、帰ってきたのだ。」と問う秀吉にやせこけたホオに不敵な笑みを浮かべて、「陣中で死にたかったまででござる。」くらやみのなかでキラリと目を輝かせたといいます。

 竹中半兵衛重治は美濃(岐阜県)出身の軍師で、秀吉の片腕として活躍し、元斎藤龍興の家臣で通称半兵衛は、のち信長に仕え秀吉に属す。その容貌や的確な状況判断から羽柴家の諸葛孔明と言われ、羽柴秀吉時代の数ある戦功の大半はこの重治の活躍に負うところが大きい。しかし生来病弱だったため、秀吉に従って中国平定出陣中に播磨の陣中で病没した。
 次回をお楽しみに  では またね

三木・秀吉本陣跡  2014.07.05

2014年07月07日 08時53分16秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地   秀吉本陣跡     兵庫県三木市平井

 三木合戦は、天正6年(1578)3月から同年8年1月までの1年10ヶ月にわたる、三木城主別所長治方都羽柴秀吉を大将とする織田信長方との合戦です。この合戦は、秀吉の軍師である竹中半兵衛と黒田官兵衛も参戦し、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めで広く知られています。

 羽柴秀吉が三木合戦(三木城攻め)の際に本陣を置いた場所まで、一部、整備された階段を歩きます。

 しばらくすると、雑木林の中を歩きますが、小雨が降る中を「大河ドラマ」の影響加多くの人が来られています。

 しばらく進むと、道の右側が段々畑のように細長い兵が駐屯できるよう斜面地を削り、土を盛ったりsて、段状に複数の平坦地を築いています。本陣跡には段状の平坦地群が沢山築かれています。

 尾根上の山道は、太閤道とも呼ばれており、秀吉ゆかりの道であったと思われます。

 更に進み、主郭の内部に入ると、かなり木が生えてはいるが、主郭中央部には土が盛ってあり、かなり広い平坦部になっている、平坦地等の周辺には築かれたかまぼこ状の土盛り、防護施設があります。主郭の一番奥には、羽柴秀吉本陣のノボリが、

  簡易展望台が建っているので、ここから、往時の秀吉のごとく、三木城を見下ろす事ができるようだ。主郭の周囲は低いが土塁で囲ってあるのも分かる。平井山付城(平井山ノ上付城)跡は、三木合戦にて織田方が三木城周辺に築いた付城(つけじろ)の1つで最も大きく、秀吉の本陣と伝わる場所。付城は40余り築かれたという。天正6年(1578年)7月、神吉城を落とした織田信忠は平井山に着陣し付城を構築、翌月秀吉が着陣しました。

 東側に伸びる尾根を歩いて行くと、部分的に土塁で囲まれ櫓台状の土盛りが見られます。

 ここにも段状の平坦地群があります。往時はどれぐらい多くの兵が駐屯させられていたのでしょうね。

 「大手口(推定)」跡。地面が1mほど深く掘られ、虎口を形成して、秀吉本陣への入口で、与呂木から谷伝いに上る登城道の本陣入口で両側を一段高く切盛りし、段状に平坦地を設け、見張りなどの兵を駐屯させたと思います。

 主郭付近に戻って来ました。名軍師竹中半兵衛が病歿しており、その墓がおよそ500m余りの距離にあります。
 次回をお楽しみに  では またね

野中の清水  2014.07.05

2014年07月06日 08時16分28秒 | 公園・名所・名勝


  所在地   野中の清水    神戸市西区岩岡町野中

 野中の清水は魚住町に隣接する神戸市・西区・岩岡町野中に位置し、野中の清水は、古今集の昔から、多くの和歌にも詠まれ、謡曲や狂言にも取り上げられてきた名所です。中世播磨の守護職、赤松上総介則房の定めた「播磨十水」の一つでもあります。今は、瀬戸川が流れる清水市民公園の1画にあります。ちょっと判りにくいかな?

 どんな日照り続きの時も清水が湧き出ていて、日本五水のひとつとも播磨十水のひとつとも言われた。古今和歌集に「いにしえの 野中の清水 ぬるけれど もとの心を 知る人ぞ汲む」と詠まれている。1690年(元禄3年)頃松平直明が茶の湯に使ったといわれている。1996年(平成8年)に周辺に公園が造られました。

 年久しく荒廃していた清水を、元禄3年(1690)明石藩が、浚湈し、制札を立てて、汚すことを禁じ、藩主は茶の湯に用いたと言われます。同じ頃、大和屋忠左衛門という酒造家が酒造の水に用い、正徳2年(1712)に「野中清水醸造記」が出来たと伝えられています。

 【野中の清水】
いにしへの 野中清水 ぬるけれど もとの心を 知る人ぞくむ(古今和歌集)
野中清水は我が国の五清水の一つである野中下村という小村に在り、琵琶の形に似て水は澄きり、仁徳帝のとき、この水で難病を癒したという。千年の歳月が過ぎ、土石に埋もれていたもの。大正天皇即位の年に、岩岡郷土の先達つどい、久しく浚湈し、後世にいにしえを伝える。

 昔は、清水の周り一帯は松林で、その中に、祖父松、祖母松、夜啼松という名木が三株あったといいます。中でも夜啼松の樹皮を削り煎じて、幼児に飲ませると、夜啼きが止むという伝説もありました。魚住の泊りから、播磨内陸部の三木、小野等へ、この瀬戸川沿いの道を通る旅人は、いなみ野の荒野で、清冽なこの泉で渇きを癒し、涼を取ったことでしょう。

 野中の清水は、藤原俊成女(越部禅尼)も京から越部庄へ下る際立ち寄ったとか、そばに流れる瀬戸川の河川敷には桜が植えられ春には桜が咲き綺麗でしょうね。
 次回をお楽しみに  では またね

満福寺 2014.07.02

2014年07月05日 17時44分40秒 | 神社・寺院


  所在地 満福寺  神戸市長田区海運町4丁目1―1

 満福寺は、平清盛創建といわれ当寺は曹洞宗(そうとうしゅう)。本尊は薬師如来で、創建された時期は寺記によれば天文(てんぶん)5年(1534)となっています。福原西国観音霊場五番札所です。

 平清盛が厳島神社に参詣の途上に、この付近に上陸して陸路で向かったと伝えられており、昔はこの辺り一帯を福原と呼んでいて、福原荘発祥の地とも言われたといいます。近くの長楽町六丁目に「字福原」地名があります。

 三福橋の由来は、この近辺はかって旧野田村と呼ばれており満福寺のほかに、長福寺、正福寺の3つの寺があり正福は祥福と言って幸せをもたらし長福は浄福と言って清く長寿をもたらし 満福は全ての福が満たされると言われており、おめでたい橋です。橋を渡ると右側に八体ぶつ十二支の守り本尊左側に仏足石が安置されています。このあたりの住所海運町は海運山正福寺から海運山満福寺と改められこれらの山号が町名の由来であると言われています。

 両面地蔵尊と呼ばれるもので一体に二面をもつ珍しいお地蔵様です。南面は縁切りと縁結びの願いをかなえさせてくださいます縁結び地蔵尊で

 北面は縁切り地蔵尊です。

 鐘楼は、台座だけが残りましたが、寺門と本堂など阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたためすべて建て替えられています。

 。私が子供のころ、お寺を囲んだ石垣が亀の形をしていますので「亀の甲寺」と呼ばれていました。

平忠度の腕塚  2014.07.02

2014年07月04日 08時05分43秒 | 歴史・遺跡・伝説


  所在地    平忠度の腕塚     神戸市長田区駒ヶ林町4丁目5

 神戸市長田区の国道2号の浜側に走る広い道に「駒ヶ林町西」バス停の東側に立て看板が、その細い道を入っていきます。

 小路の奥の左に「うでずか」の石碑が1mちょっとの小路を入ります。

 そこにはお堂が、平忠度の墓ですが、あちこちにあります。神戸市長田区にあるのが忠度の「腕塚」と「胴塚」ですが、明石にある「忠度塚」と「腕塚神社」があります。両者の距離は15km。死体損壊と死体遺棄に問われそうなバラバラ事件で、さらに、長田の腕塚も明石の腕塚も、ともに忠度の右腕を祀っており、「右手塚が腕塚になった」という伝承も共通でちょっと意外です。

 平忠度が岡部六弥太忠澄の郎党に斬り落とされた腕を埋めた場所と伝えられています。腕塚堂という小堂が建ち、堂前には十三重塔が建っています。

 堂内には平忠度の位牌が祀られています。後世、腕や腰の痛みがなおると人々から篤く信仰されました。

 大正時代の西部耕地整理の際、腕塚町と名付けられました。由来は、一ノ谷の合戦で西城戸の大将であった平忠度が、この地において腕を切られ、その塚や腕塚堂があることから名付けられました。
 次回をお楽しみに  では またね