
さて、シアさんの話。
シアさんとおーちゃんさん(廣木道心さんご子息)の話です。
シアさんがなんで浅見をこんなに慕っているか、不思議な人も多いと思います。
そしてシアさんは時々アンチに突撃してしまう。
そうするとアンチは「治っていない!」とあげつらうのですが、そうやって自分たちに刃向かう=障害者、と決めつける姿は、藤家さんが支援から抜け出す間際のギョーカイそっくりだなあと思います。
すなわち「あくまで障害者には受け身な存在でいてほしい」が本音で、自分たちに歯向かうと「それが障害特性」で片づける人たち。
この人たちの本音は「本人の生きやすさ」よりとりあえず「こっちになるべく面倒がかかってこないこと」。つまり『知的障害は治りますか?』の中で言えば行政のように「捌く」ことが至上命題なんです。
「捌く」行政。
それはわかります。行政は捌くのが仕事。
その手先となる支援者。
障害のある子の行く末を真剣に考えるならば、あくまで行政の手先になろうとするこの人たちには警戒しなくてはなりません。
そしてその行政や支援者の「捌く理論」を内面化してしまっている保護者。
これはもう、救いようがないですね。
その人たちが必死に反論するシアさんをあざ笑います。
この前そのシアさんが面白い書き込みをしてくれました、
もともとはツイートだったものを一つにまとめてくれたので、重なっている部分はこちらで処理しました。
=====
シアさんその1
こんばんは。
自分の幸福とか自分の好きとか、外からの影響をあまり受けない人がいるんです。 私が知ってる一番幸せな人は、社会のために自分を曲げたことが一度もないと自他共に認める人物でした。
=====
なるほど。
それはね、とても幸せな人だと思います。
そして私もそれに近い。
『NEURO』の冒頭に書いたとおり、「正しいことは正しい」。
それを私は信条にして生きてきました。
アンチが決定的に間違っているのは、自分たちが批判することによって私の行動を変えられると思っていること。
私は時には弁明はするかもしれませんが、彼らの意見に左右されることはありません。
なぜなら彼らが人として大嫌いだし、無関係な人間だからです。
自分が自分のしていることに満足し、それに賛同してくれている人も多い以上、大嫌いで無関係な人の意見に左右されるはずがない。
そういう意味で私はずっと信念を貫いてきたし
信念を貫いても生きていける程度には運がいいのだと思っていますよ。
=====
シアさんその2
それに対して、ギョーカイはムラ社会ですよね。
同調圧力。
他人の言うことは、参考程度にすればいい。
しかし、それに強制力があるかのごとく言う。
それが自閉症の人の症状をさらに拗らせてますね。
当事者は気に入らない考えは、排除していい!とか、他人の主体性の毀損を真面目に考えてしまう。
=====
そう。これが「迷惑当事者」の成り立ち方ですね。
ギョーカイにも強制力はないし、花風社にもない。
どっちを選ぶのも個々の自由。
その個々の自由を重んじられないと迷惑当事者になる。
彼らの中にはまだ巨人がいるのかもしれない。何かに強制されているという被害妄想を持っている。
彼らと花風社は関係がない、花風社読者とも関係を持たなくていい、
ということがどうしてもわからないと他人の主体性を尊重できない迷惑当事者になるのですね。
=====
シアさんその3
ムラ社会だろうと、多くは「参考にしたりしなかったり」だろうと思います。
しかし、当事者は真に受けてしまうのではないでしょうか。
それが露骨に迷惑行為となるのでは。
考えてみれば、特性があるとしたって、見ず知らずの専門家に「障害がある」と診断されただけで、障害者としてギョーカイの福祉コースに乗るって言うのも、おかしいですよね。
それに反発する・「治したい、抜けたい」と言うクラスタさんは健全ですよね。
私が大きく失敗したのは、「やりたいことを我慢して流された」ことだと思ってます。
しかし、社長のお話を聴いて、目が覚めたんですよ。
「やりたいことはやりたい」…それが迷惑行為でも犯罪でもなく、何か生産的な活動にもつながっていくとしたら、やった方がよかったと思えます。
アンチと、迷惑当事者って、親和性があるんでしょうね。。。 もちろんギョーカイも。
=====
この点で知らず知らずのうちにシアさんをギョーカイから解放したからこそ
シアさんは私を慕っているし、不当な攻撃と思えるものには突撃してしまうのだと思います。
(まだ私ほど彼らをバカにしきっていない証拠でもありますが。)
説明しましょう。
シアさんは障害者として捌かれた結果、就労支援をうたう事業所に通っていました。
でもそんなところに就労を支援する気などはなからないのはあるあるですよね。
シアさんには「模型を仕事にしたい」という夢があったそうです。
でもそれを支援者に話しても「やめておけ」方面のことしか言わない。
どうせそんな仕事をしたって食べていけないよ。
でも考えてください。
作業所の利用者を続けていっても食べていけないことは同じです。15000円くらいしか工賃が出ないのだから。
ただ作業所の利用者を続けてくれたほうが、作業所は儲かる。国と自治体から20万円くらい入る。それだけの話。要するに利用者に夢を諦めさせるのは、その売り上げがほしいからですね。利用者の夢を潰して実利を取る。福祉の一部はそうやって成り立っています。
「作業所行ってるけど本当は模型がやりたいんだ」という話を私にしたらしいです。
それに対して私は「どうせ作業所でも食べられないんだから好きなことをすれば」とか言ったらしい。
覚えてません。
けどきっと言ったと思います。いかにも私が言いそうなことですから。
そしてシアさんは作業所をやめ家で模型を作り、工賃以上に稼ぐことになりました。
工賃以上に稼ぐ。
おまけに国や自治体のお金は使わなくなったのです。
廣木さんちのおーちゃんさんも同様。
フリーのイラストレーターとして、イラストを描いたり、フリーマーケットで似顔絵を描いたり、グッズを売っています。作業所には通っていません。その売り上げは作業所の工賃を上回っています。
うちの本の表紙も描いてくれました。
何よりも、自由。
作業所の利用者の皆さんがおやつの時間を待ち、絵カードで何が食べたいか支援者に伝えてやっともらえる、という生活をしている中、りんごが食べたければ自分ですっとむいて食べる自由な生活をしています。
お父さんの出張についていって旅行する自由もある。
お父さんのツイッターに絵を描いているところの動画がありました。みてて楽しくなります。
こういう親子だから私は、『知的障害は治りますか?』の発売直後にお父さんにお会いしたにもかかわらず、本を渡しませんでした。
知的障害が治りたいかどうか、そんなことは他人が決めることではないからです。
とくに治りたくなくても、興味があるのなら自分で買って読んでくださるかもしれませんが
版元から「こんな本作ったのよ。役に立つわよ~」とどや顔で渡すものではないですね。
私のスタンスは全部これです。
治りたい人は治ればいい。
治りたくない人は治らなくていい。
なぜなら家族ではないのだから。
そこまで口出ししない。
そして「治りたい人」に情報提供するのが私の仕事。
なぜそれをするか。それが正しいことだと信じているから。
横やりも入る。その横やりに対し、説明することはあるかもしれない(気が向けば)。
でもそれで私の信念が変わることはありません。
最初「治ったらいいな」と思ったのは四つの苦しみ(NEUROの冒頭漫画参照)。
そこから「ありえない恐怖感」。
言葉以前の苦しみ。
そして今回は知的障害です。
そのすべての本が喜ばれている。
けれども読みたくない人、治りたくない人は遠くでみていればいいのです。いや、もうみる必要もないと思いますが。
多くの人は他人の目とか口とかを気にして、信念を曲げたりするのだと思います。
でも私はそれをしない。
なぜなら私はのびのびと、そういうものを気にしないで育ったし、その結果良い仕事にもパートナーにも巡り会え、多くの出会いもあり、支持も得て、大人になっても幸せだからです。
「他人の目や口を気にしなければ幸せになれない」という村人たちの思い込み自体が、私からみると誤学習だから。
同じように「障害があるから行政の捌きに乗っからなければいけない」というのは私からみると誤学習です。
私は生まれてこのかた手術と言えば親知らずを抜いたくらい。高タンパクしていたせいかそれもその日のうちにリカバーしたし、56年間骨折もしたことありません。
だから人工股関節とか、骨の壊死とか、シアさんはすごいところを経てきたと思います。そういう苦労をした人はたくさんいるでしょう。手術をしてもなお、不調との戦いがあるでしょう。その人たちが年金をもらうのは当たり前の権利だと思います。
でも年金だけもらって、行政とその手先の捌き=収容生活にのっからず、自由に生きるのはありだと思います。
それを実現しているのがおーちゃんさんで、「そうすれば?」とシアさんに言ったのが私らしい。
その結果シアさんは模型の仕事ができるようになった。
それを感謝してくれているのです。
けどまだスルー能力はないから、不当な悪口みると突撃してしまうのですね。
それはじょじょに身につければいいことだと思います。
私は以前、スルーすると失礼だと思っていました。
でも座波さんに色々習い、「なんだ、スルーしてもいいんだ」とわかりました。
彼らは花風社クラスタが攻撃的だと言いますが、全く違いますね。
ただ私たちは和気藹々と気の合う同士楽しくやってきたところに横やりを入れてくるから、専守防衛しただけですね。
棲み分ければいいだけ、ということがどうしていつまでもわからないのか。
このへんの説明は、ブルーさんの連載の続きを待ちたいと思います。
そしてシアさんの言うとおり
考えてみれば、特性があるとしたって、見ず知らずの専門家に「障害がある」と診断されただけで、障害者としてギョーカイの福祉コースに乗るって言うのも、おかしいですよね。
それに反発する・「治したい、抜けたい」と言うクラスタさんは健全ですよね。
なのです。
シアさんとおーちゃんさん(廣木道心さんご子息)の話です。
シアさんがなんで浅見をこんなに慕っているか、不思議な人も多いと思います。
そしてシアさんは時々アンチに突撃してしまう。
そうするとアンチは「治っていない!」とあげつらうのですが、そうやって自分たちに刃向かう=障害者、と決めつける姿は、藤家さんが支援から抜け出す間際のギョーカイそっくりだなあと思います。
すなわち「あくまで障害者には受け身な存在でいてほしい」が本音で、自分たちに歯向かうと「それが障害特性」で片づける人たち。
この人たちの本音は「本人の生きやすさ」よりとりあえず「こっちになるべく面倒がかかってこないこと」。つまり『知的障害は治りますか?』の中で言えば行政のように「捌く」ことが至上命題なんです。
「捌く」行政。
それはわかります。行政は捌くのが仕事。
その手先となる支援者。
障害のある子の行く末を真剣に考えるならば、あくまで行政の手先になろうとするこの人たちには警戒しなくてはなりません。
そしてその行政や支援者の「捌く理論」を内面化してしまっている保護者。
これはもう、救いようがないですね。
その人たちが必死に反論するシアさんをあざ笑います。
この前そのシアさんが面白い書き込みをしてくれました、
もともとはツイートだったものを一つにまとめてくれたので、重なっている部分はこちらで処理しました。
=====
シアさんその1
こんばんは。
自分の幸福とか自分の好きとか、外からの影響をあまり受けない人がいるんです。 私が知ってる一番幸せな人は、社会のために自分を曲げたことが一度もないと自他共に認める人物でした。
=====
なるほど。
それはね、とても幸せな人だと思います。
そして私もそれに近い。
『NEURO』の冒頭に書いたとおり、「正しいことは正しい」。
それを私は信条にして生きてきました。
アンチが決定的に間違っているのは、自分たちが批判することによって私の行動を変えられると思っていること。
私は時には弁明はするかもしれませんが、彼らの意見に左右されることはありません。
なぜなら彼らが人として大嫌いだし、無関係な人間だからです。
自分が自分のしていることに満足し、それに賛同してくれている人も多い以上、大嫌いで無関係な人の意見に左右されるはずがない。
そういう意味で私はずっと信念を貫いてきたし
信念を貫いても生きていける程度には運がいいのだと思っていますよ。
=====
シアさんその2
それに対して、ギョーカイはムラ社会ですよね。
同調圧力。
他人の言うことは、参考程度にすればいい。
しかし、それに強制力があるかのごとく言う。
それが自閉症の人の症状をさらに拗らせてますね。
当事者は気に入らない考えは、排除していい!とか、他人の主体性の毀損を真面目に考えてしまう。
=====
そう。これが「迷惑当事者」の成り立ち方ですね。
ギョーカイにも強制力はないし、花風社にもない。
どっちを選ぶのも個々の自由。
その個々の自由を重んじられないと迷惑当事者になる。
彼らの中にはまだ巨人がいるのかもしれない。何かに強制されているという被害妄想を持っている。
彼らと花風社は関係がない、花風社読者とも関係を持たなくていい、
ということがどうしてもわからないと他人の主体性を尊重できない迷惑当事者になるのですね。
=====
シアさんその3
ムラ社会だろうと、多くは「参考にしたりしなかったり」だろうと思います。
しかし、当事者は真に受けてしまうのではないでしょうか。
それが露骨に迷惑行為となるのでは。
考えてみれば、特性があるとしたって、見ず知らずの専門家に「障害がある」と診断されただけで、障害者としてギョーカイの福祉コースに乗るって言うのも、おかしいですよね。
それに反発する・「治したい、抜けたい」と言うクラスタさんは健全ですよね。
私が大きく失敗したのは、「やりたいことを我慢して流された」ことだと思ってます。
しかし、社長のお話を聴いて、目が覚めたんですよ。
「やりたいことはやりたい」…それが迷惑行為でも犯罪でもなく、何か生産的な活動にもつながっていくとしたら、やった方がよかったと思えます。
アンチと、迷惑当事者って、親和性があるんでしょうね。。。 もちろんギョーカイも。
=====
この点で知らず知らずのうちにシアさんをギョーカイから解放したからこそ
シアさんは私を慕っているし、不当な攻撃と思えるものには突撃してしまうのだと思います。
(まだ私ほど彼らをバカにしきっていない証拠でもありますが。)
説明しましょう。
シアさんは障害者として捌かれた結果、就労支援をうたう事業所に通っていました。
でもそんなところに就労を支援する気などはなからないのはあるあるですよね。
シアさんには「模型を仕事にしたい」という夢があったそうです。
でもそれを支援者に話しても「やめておけ」方面のことしか言わない。
どうせそんな仕事をしたって食べていけないよ。
でも考えてください。
作業所の利用者を続けていっても食べていけないことは同じです。15000円くらいしか工賃が出ないのだから。
ただ作業所の利用者を続けてくれたほうが、作業所は儲かる。国と自治体から20万円くらい入る。それだけの話。要するに利用者に夢を諦めさせるのは、その売り上げがほしいからですね。利用者の夢を潰して実利を取る。福祉の一部はそうやって成り立っています。
「作業所行ってるけど本当は模型がやりたいんだ」という話を私にしたらしいです。
それに対して私は「どうせ作業所でも食べられないんだから好きなことをすれば」とか言ったらしい。
覚えてません。
けどきっと言ったと思います。いかにも私が言いそうなことですから。
そしてシアさんは作業所をやめ家で模型を作り、工賃以上に稼ぐことになりました。
工賃以上に稼ぐ。
おまけに国や自治体のお金は使わなくなったのです。
廣木さんちのおーちゃんさんも同様。
フリーのイラストレーターとして、イラストを描いたり、フリーマーケットで似顔絵を描いたり、グッズを売っています。作業所には通っていません。その売り上げは作業所の工賃を上回っています。
うちの本の表紙も描いてくれました。
何よりも、自由。
作業所の利用者の皆さんがおやつの時間を待ち、絵カードで何が食べたいか支援者に伝えてやっともらえる、という生活をしている中、りんごが食べたければ自分ですっとむいて食べる自由な生活をしています。
お父さんの出張についていって旅行する自由もある。
お父さんのツイッターに絵を描いているところの動画がありました。みてて楽しくなります。
こういう親子だから私は、『知的障害は治りますか?』の発売直後にお父さんにお会いしたにもかかわらず、本を渡しませんでした。
知的障害が治りたいかどうか、そんなことは他人が決めることではないからです。
とくに治りたくなくても、興味があるのなら自分で買って読んでくださるかもしれませんが
版元から「こんな本作ったのよ。役に立つわよ~」とどや顔で渡すものではないですね。
私のスタンスは全部これです。
治りたい人は治ればいい。
治りたくない人は治らなくていい。
なぜなら家族ではないのだから。
そこまで口出ししない。
そして「治りたい人」に情報提供するのが私の仕事。
なぜそれをするか。それが正しいことだと信じているから。
横やりも入る。その横やりに対し、説明することはあるかもしれない(気が向けば)。
でもそれで私の信念が変わることはありません。
最初「治ったらいいな」と思ったのは四つの苦しみ(NEUROの冒頭漫画参照)。
そこから「ありえない恐怖感」。
言葉以前の苦しみ。
そして今回は知的障害です。
そのすべての本が喜ばれている。
けれども読みたくない人、治りたくない人は遠くでみていればいいのです。いや、もうみる必要もないと思いますが。
多くの人は他人の目とか口とかを気にして、信念を曲げたりするのだと思います。
でも私はそれをしない。
なぜなら私はのびのびと、そういうものを気にしないで育ったし、その結果良い仕事にもパートナーにも巡り会え、多くの出会いもあり、支持も得て、大人になっても幸せだからです。
「他人の目や口を気にしなければ幸せになれない」という村人たちの思い込み自体が、私からみると誤学習だから。
同じように「障害があるから行政の捌きに乗っからなければいけない」というのは私からみると誤学習です。
私は生まれてこのかた手術と言えば親知らずを抜いたくらい。高タンパクしていたせいかそれもその日のうちにリカバーしたし、56年間骨折もしたことありません。
だから人工股関節とか、骨の壊死とか、シアさんはすごいところを経てきたと思います。そういう苦労をした人はたくさんいるでしょう。手術をしてもなお、不調との戦いがあるでしょう。その人たちが年金をもらうのは当たり前の権利だと思います。
でも年金だけもらって、行政とその手先の捌き=収容生活にのっからず、自由に生きるのはありだと思います。
それを実現しているのがおーちゃんさんで、「そうすれば?」とシアさんに言ったのが私らしい。
その結果シアさんは模型の仕事ができるようになった。
それを感謝してくれているのです。
けどまだスルー能力はないから、不当な悪口みると突撃してしまうのですね。
それはじょじょに身につければいいことだと思います。
私は以前、スルーすると失礼だと思っていました。
でも座波さんに色々習い、「なんだ、スルーしてもいいんだ」とわかりました。
彼らは花風社クラスタが攻撃的だと言いますが、全く違いますね。
ただ私たちは和気藹々と気の合う同士楽しくやってきたところに横やりを入れてくるから、専守防衛しただけですね。
棲み分ければいいだけ、ということがどうしていつまでもわからないのか。
このへんの説明は、ブルーさんの連載の続きを待ちたいと思います。
そしてシアさんの言うとおり
考えてみれば、特性があるとしたって、見ず知らずの専門家に「障害がある」と診断されただけで、障害者としてギョーカイの福祉コースに乗るって言うのも、おかしいですよね。
それに反発する・「治したい、抜けたい」と言うクラスタさんは健全ですよね。
なのです。