治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

おばさん的努力とお姉さん的努力、どっちに軍配を上げるか?

2019-01-16 20:56:11 | 日記
さて、考えてみたらあさってには沖縄に発つんですよ。
っていうことは明日もそれなりに忙しいんだけど、なんとかこんなに皆さんを巻き込んで応援してもらった横綱の件までブログに書いてすっきりして出かけたいし、南雲さんとの共同ブログに参考になるような情報も読書会で皆さんからいただいたから書いて出かけたいし、っていうことで夜ですが更新です。

『10年目の自閉っ子、こういう人にできてます!』を読んだ方にはピンと来るでしょうが、藤家さんがしゃかりきに努力する人に対しニキさんはもっとゆるく「おばさん的努力」を実践して(おそらく)提言しています。
「手を抜くための土台作り」とかそういうやつね。いかにラクをするかに一生懸命になる、と。
そして私は「それぞれの努力でいいよね」みたいなところに落ち着けていますしその気持ちにあの当時も今もウソはありません。
でもあれから5年経って読み返して気づいたことがあります。

若い人には「おばさん的努力」を勧めてはいけない(きっぱり)。
なぜならおばさん的努力はあくまでもおばさん的にしか実らないからです。
おばさん的に実る、とはどういうことかというと「有閑マダムとしての資質が開花する」ということ。
これを目指す人は目指せばいいですけど、全員が条件(例:配偶者の食い扶持でやってける)に恵まれているわけでもありません。
また恵まれていても全員が目指しているわけではありません。
少なくとも私は目指していません。
私は有閑マダムではなく「ギョーカイを潰す編集者」でありたいです。

当時からニキさんの言う「手抜きのために頑張る」はよく理解できたのですが、どうしても肌身でわからなかったのは「省エネ」です。
たとえば私が今55歳。あと10年働けるとする。そのあと10数年隠退生活を生きて死ぬとする。だとすると今から間に合いそうにないものは努力やめようよ、という発想です。
このへんニキさんは計算高い。そして私は計算力がない。もちろん全方向への努力などする力はないのだけれど、目の前の課題を乗り越えるためには真っ向勝負しますし、それでエネルギーが枯渇すると思えない。のでそこで省エネしない。エネルギーは、どこかに注入すれば注入するほど沸いてくるのが実感。むしろ、注入しないと枯渇する。そしてそういう姿勢でやってきたからこそこの前読者の川添さんからいただいたような評価をいただくことになるのでしょう。
長いけど貼らせていただきますね。

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無視されてきた事実を認めてくれた (川添紀子)
2019-01-13 22:38:55
15年前くらいは、体力作りも就活も、的外れなことばかりして、くたびれ果てていた20代ミドルでした。自分が怠け者のように感じられて、自己嫌悪で一杯の日々を過ごしていました。

身体障害、考え方、感じ方のずれについてニキさん藤家さんのお二人に言及してもらい、また、浅見さんの職業観に触れ、努力の仕方、体力と就労へのアプローチを変えることで、あっさりと社会に出ることが出来ました。今までの自分はなんだったんだろう、と笑えました。

花風社の本を読み、言葉以前のアプローチをしていると、子供時代のことを良いことも悪いことも思い出します。

治らないと信じている人たちの考え方、言動は、私が小さい頃不具合を訴えても困った顔で笑って聞き流した周りの大人を思い出させます。病気になるまで放置した挙げ句、病状にしか対処しようとしない。

親兄弟、親類、学校の先生、看護師や医者(小児科、耳鼻科、歯科、整形外科、内科、婦人科)がみんな敵に見えた時期が長かったです。

私はかなり幼い段階で、彼らの常識に合わせた努力をするしか生きていく術はないんだと誤学習してしまい、思春期以降、自分の意思で人生を築いていかなくてはいけない段階で躓き、20代半ばまで苦しみました。

ニキさん、藤家さんはは自分の中で起きている出来事を、無視しないで素直な言葉で文章にしてくれました。大地君は子の異変を見逃さない大人に見守られながら素直に語り、こよりさんは見逃さずに見守った我が子の成長の経過を語る。

自分が無視して遣り過ごしてきた不具合は無視すべき事象ではなかったんだと判ったとき、私には治っていく道が見えました。

神田橋先生、栗本さん、南雲さん、灰谷さん、専門家の皆さんが語る治療へのアプローチは、当事者、親御さんが語る努力と出した結果へ裏付けを与えてくれます。

人ひとり一人の心身の内側で起きていることは、その人だけのもの。

育ちは、周りの皆と一緒でないと駄目なのではなく、社会に出る段階で帳尻が合っていれば良い。

成人してからだって取り返しはつく。自分の躓いたところから満たしていけば、なんとかなるよ。

花風社から出版される本を時代順に読み返してみると、浅見さんが出版しながら考え、学び、思い、感じたこと、伝えたい事が見えてきて泣けてきます。

遊ぶ金ほしさに仕事してないとツイートされてましたが本読んでたら伝わって来ます。

治らないと信じている人たちは、浅見さんほど当事者と向き合っていないし、勉強もしていないし、勉強は出来てたとしても、学んだ知識を当事者、親御さん、ひいては社会にに還元しようとしないんですよね。

浅見さんは、無視されてきた、当事者の中で起きている事実と専門的な視点を繋げて、誰にでもわかるように、しかもリアルタイムで、日本全国に、発信し続けてくれました。本当に有りがたかったです。

次の2冊が発達関連の最後になるとの事、寂しいよりも、発達の次は何かしら、と楽しみにしてます。

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私が発達障害の世界に置き土産にしておかなければならないものの一つは、職業観です。
先日の読書会でそのあたりを教わっていない人が多いかも、とちらりと思いました。
川添さんが私の職業観のどこに学んでくださったのかはわかりませんが、折に触れて書いておいた方がいいかなと思いました。

だから断固として書いておきますが

これから世に出る人たち、今後の社会人生活が長い人たちは、おばさん的努力ではなくお姉さん的努力をしてください。
おばさん的努力は、おばさんとしての幸せしかもたらしません。
ニキさんのように「先天性お年寄り」(本人談)だとそれも幸せなのでしょう。
でもおばさんでも私には無理ですわ。


私は場所前の稽古の動画を見て「今場所がXデイだ」とわかっていたので、昨日までは見られませんでした。
決まった今日からのびのびと大相撲中継を見ました。
結びの一番、物言いつきましたが、皆さん知っていますか?
行司さんは必ず軍配をどちらかに上げなくてはいけないのです。
「う~ん、同体?」と思ってもどっちかに上げなくてはいけない。
それも私がお相撲を好きなところです。

そして私ははっきりと、軍配を「お姉さん的努力」に上げます。
それが私の今現在の判断だと、知っておいてください。そして判断材料にしてください。

自閉が自閉のままでいいと決めるのは誰か

2019-01-16 11:39:23 | 日記
1月14日の読書会にお越しいただいた皆様、ありがとうございました。
愛甲さんが来てくれてよかったですね!

最初にお話したように、今回私も赤本と『10年目』の二冊を読み直してみて色々再発見があり、作った人でもあり、三時間一人でしゃべれと言われたらしゃべれたんですけど、普段はSNS上だけでやりとりしている人たちがリアルに言葉を交わせる良い機会でもあり、会場からたくさんの声をいただきました。そして愛甲さんがたくさんお話してくれたのが本当によかったと思います。

私が自分で仕切るつもりの無料の会でしたから愛甲さんも任意できてくださって、任意で前の席に座ってくださって、ギャラのお約束もなんにもしておらず、聘珍樓の甘栗をお土産に差し上げただけです。申し訳ないので何かまたお送りしておこうと思います。

私が最近、二冊の本を読み直して思ったのは、当時私が「治したい」と思ったのは次の四点だったなあということです。

1 感覚過敏・鈍麻といった感覚の偏り
2 自分の身体がどこからどこまでかわからないというボディイメージの問題
3 睡眠、体温調節等本来無意識で行われる活動の弱さ
4 季節の移り変わりへの耐性の弱さ

当時は三つ組みの障害とか言われていましたが(DSM5でははずれた)、社会性とかコミュニケーションとか想像力とか言われても治る気がしない。でもせめてこうした身体方面のつらささえきえればどうにかなるのではないか、と思ったんですな。

そして今やこれは全部治るようになったんですよね。

そして予想通り、こういう身体のつらさが治っていけば脳に余裕ができたのか、社会性やコミュニケーション方面でも、いやそればかりではなく知的な指数さえ伸びる。それがわかったのがイマココです。

そして一方で赤本当時の私は、「巨人を消さなければ」とまでは思っていなかったのも事実なのです。

巨人がいる、ってちゅん平さんが言って、それに対し「わはは」とか笑いましたけど、別に「巨人がいるとはけしからん。これは消さなければ」とは思わなかった。そのへんは異文化なので尊重しなければ、というある意味のんきな考え方をしていたわけです。

でも結果的に色々治った結果不安がなくなると巨人は消えた。っていうか、巨人がいなくても平気になったんですね。

そして巨人がいなくなると主体性が出てくる。主体性は生きていく上で必須のものです。巨人が消えて人生が始まるとも言えます。

そして自閉じゃなくても巨人的な世界観を持っている人はいます。保護者にもいます。医者という巨人が「一生治らない」と言ったからこよりさんちが治ったよと言っていても「こよりさんは医者じゃないから」と信じない人たちです。医者という権威を信じてしまい、実は彼らが発達の領域においては行政の下請けみたいな仕事しかしていないことまで見極められていない。誰かえらい人に判断を委ねるのが楽ちんな人たち。

これでは手に入れられるものがぐっと少なくなりますね。

だから巨人はいない方がよいのです。というか、巨人がいないくらい自己が育っていた方がいいわけです。社会を生きていくには。

でも「巨人いるって面白いわ」っていう人がいたらどうするのか? というのが私の疑問でした。

そして皆さんのお話を聞いていて

「自閉文化をどれくらい大切にするかどうかはそれぞれが決めればいいこと」と思いました。

少なくとも「巨人けしからん」はいけません。
どういけないかというと、効果的ではありません。
巨人からは治らないからです。
不安がなくなれば巨人はいなくなるし、不安をなくす近道は身体をラクにすることだから。
いきなり「巨人けしからん」では効果がありません。
でも多くの療育が、実は「巨人けしからん」みたいな大脳皮質上への働きかけから始まっていますね。そして効果がない。なぜなら発達障害とは神経発達のヌケだから。土台からやらないと育つわけがないのです。
土台から育てず大脳皮質上にだけ働きかけ治らない治らないと言っている。それが多くの療育の実態です。

おそらく赤本にきゅんきゅん萌えた支援者たちは、自閉っ子たちにその独特の世界観を持ち続けてほしいのでしょう。
私は自分が当時、そういう気持ちだったのか、と疑問を持ちながら今回読み直しをしました。
私も萌えていたのかなあ、と。
何しろ私は二人が大好きだったのです。

そして気づきました。

その辺なんにも考えていなかったなあ、と。

ただ身体をラクにしてあげたかった。
それはなぜかというと、自分自身が体力があることでとってもトクをしてきたからです。
なぜトクをしたか。
体力があると根性が(さほど)なくても結果働き者なのです。
そして働き者を嫌う職場はありません。
というわけで私はいつも上に評価されてきた人なのです。

私は二人を仕事人として評価していました。
そこに体力を付け加えて鬼に金棒してもらいたかったのです。

そして身体がラクになった結果ちゅん平さんの世界からは巨人がいなくなったわけですが

どうしてもいなくなってしまうのならいなくなっていいときっぱりと思いました。

身体を治してあげたいという強い気持ちは私にはありました。
その結果社会性も治ってしまうだろうなという予想もありました。
そこで去りゆく巨人(一種の自閉文化の象徴)を惜しむ気持ちもちらりとありました。

でも自閉文化は巨人だけではなく
中には生きやすさと両立するものもあるはずです。
巨人は違います。
巨人は非自閉の人にとっても生きやすさを阻む原因となっています。

どこから治りたいかはそれぞれが決めればいいこと。
改めてそう思いました。
そして私は、治りたい人のために情報を提供していくのだと。

お越しいただいた皆様
愛甲さん
ありがとうございました!