治しやすいところから治す--発達障害への提言

花風社・浅見淳子のブログ
発達障害の人たちが
少しでもラクになる方法を考える場です。

レジリエンスと高等教育における発達障害への配慮

2012-09-27 08:50:00 | 日記
先日、横浜の講演で私がレジリエンスに言及したことに気づいた方からお声がけいただき
先日某所で某著名臨床家のお話を聞き、そのあとご一緒にお茶を飲む機会に恵まれました。

ちゅん平さんは
「病気は治療するのが成人の義務」と言っていますね。
横浜の講演でもしゃべってくれたし、広島でもそれをさらに深めるようですよ。

「提言」にも私は書きました。
レジリエンスのこと。

大地君は、診断されたとき
「君みたいな子は働かなくてもいい。国にお金をもらって生きていけばいい。君みたいな子は働くと病気になるんだ」と言った医者に対し(二次障害回避原理主義ね)

「おねえちゃんのように、病気になったら治して働けばいい」と腹をくくったわけですが

私は先日のお話を聞いて
おそらく障害の有無にかかわらず、今後若い人たちの中にレジリエンスを育むというのは社会全体の責任なのだろうと思いました。
で、この前その場をともにした教育者の方々は、そういう自覚を持った方々だと思いました。

そして

・高等教育の場での配慮

ってやつが変わっていく手応えを感じました。

本来ね、大学レベルの配慮ってなんのためにするかっていうと
それはもちろん本人のためでもあるんだけど

一般的な環境では勉強進みにくい子に勉強できる環境、能力をフェアに判定しやすい環境を与えることによって
社会全体が利益を得る(才能を発見し発揮させる)という意味があるはずなんです。
配慮の点において先進国では。

実際センター試験での配慮とかは、学校長の推薦が必要なんでしょ。
要するに、「配慮に値する」かどうかを考慮してからの配慮だっていうことが、一応形式には入っている。
私はこれ、正しいことだと思うけど、差別差別という人もいるかもね。

日本では(何しろ自由の国アメリカより自由な国だから)こういう考えに異議を唱えるりべらーるな人たちがいて
徹頭徹尾個人のための配慮、じゃないといけないっていうところがある。

で、それを真に受ける親子が入ってくるわけですよね、高等教育機関に。

学生である当事者は、当事者の本性を遺憾なく発揮。ばんばん学校側を責める。
親はモンペ。

その結果、学校側が疲弊してしまって、今後少なくともしばらくは
「発達障害者受け入れます!」の風潮に揺り戻しが来るだろう、と。
それはまあ、ありそう。

でも大学なんていうのは、本来選択する存在なんだし
別に行かなくてもいいところなんだからね。

セルフエスティームの大切さはよく出てくるけど
それは人生を渡っていく上で必ず出会う「いやなこと」から立ち直るときの
レジリエンスを育むため。最終的な目的は、そこのはずですよ。

こういう意識に基づいた教育は
義務教育ではないところから始まっているのかもしれません。
そうなると当然、選抜が行われますね。

うーんと、この場に呼んでいただいて私が思ったのは

私が予測していった方向に行っているなあ、と。

やっぱりね、仲人口利いていかにも自閉症の人って天使か天才みたいに浮き世離れしたこと語って
二次障害原理主義を説いて健常児より予算かけてニート育成って
いつまでも通じる話じゃないと思います。
弱者の味方であるはずの、りべらーるな政権だって、これだけ予算削ってきたわけですよ。
これから政権変わればまたどうなることか。

やっぱりレジリエンス大事。
長い人生だからね。

ってわけで、レジリエンスの二冊
いよいよ来週発売です。