津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。』
当時の故和村幸得村長が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが村長の頭から離れなかったので言い伝えを守られ実行された和村幸得村長は、先見性が有り立派だと思います。村長の東北人としての頑固さが大津波に勝ちましたね。幸得さんと言う御名前どおり村民の皆さんには幸が得れました。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった信念は立派に死者数はゼロで実証されました。村長の東北人としての頑固さが大津波に勝ちましたね今の政治家も先人の言い伝えや教えを守ろうとしません。地元で暮らし長年の経験に基づいた昔の人の智恵は、自然災害の大地震でも机上空論ではなく生かされるべきです。科学万能時代で、高度な先端技術でも大地震は予測出来ません。高学歴で学問を身に付けたインテリは、自分より学歴の低い人や専門外の人を馬鹿にしたり蔑ろにしたり相手にせず取り合いませんが、長い経験と実践が無ければ高度な学問理論や最新技術もみんなの命を守り幸せにも貢献しないと言う事です。岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん87歳が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったとされる。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責任で守れという教訓として使われていますが、昔の人の智恵と経験を忘れず生かす大切さを見直すべきです。津波には、「てんでんこ」をすぐに実行し避難しましょう。
田老
(
たろう
)
太田名部
(
おおたなべ
)
普代
(
ふだい
)
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