教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

東京大学の秋入学の是非。山内康一『蟷螂の斧』

2012年02月20日 16時15分35秒 | 国際・政治

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ちょっと前に東京大学が秋入学への全面移行を表明し、
賛否両論のさまざまな議論を呼んでいます。
他大学も賛同する動きもあり、経済界も協力を表明し、
公務員試験の時期の見直し等も検討しています。

9月入学にすれば、1)海外からの留学生を呼びやすくなり、
2)高校卒業後の半年間の「ギャップ」をボランティア活動や
インターン、短期留学等で有意義に過ごせる、という意図です。

春と秋の両方の入学時期を選べる方式がよいと私は思います。
私の母校の国際基督教大学(ICU)ではずっと前から、
春(4月)と秋(9月)の入学時期を選ぶことができました。

春と秋の入学時期を選べると同時に卒業式も2回やります。
3月卒業と6月卒業があり、4年間で卒業する人もいれば、
4年半で卒業する人もいます。

6月卒業だと就職がたいへんかと言えば、そうでもありません。
9月入学生でも4年生の3月までにうまく単位と卒論を終え、
あとは卒業式に出席するだけ、という状況に持っていけば、
3月卒業生と同じような条件で企業に就職ができます。

東大の「一律秋入学システム」では硬直的になって、
既存のシステムを大幅に見直しする必要がありますが、
「秋と春の選べる入学システム」ならより簡単だと思います。

また、企業側もこれまでの4月一律採用システムを見直して、
日本の大学卒業生も海外の大学卒業生も採用しやすいように、
通年採用に切り替えていけば、就職市場の柔軟性も増します。
そもそも新卒にこだわる就職の仕組みも問題だと思います。

大学を出た後、留学したり、ボランティア活動をやったり、
世界を旅したり、様々な体験をした人が、新卒より不利な制度は、
何となくおかしい気がします。

企業が新卒にこだわらなくなれば、4月入学でも9月入学でも、
あんまり関係なくなります。就職浪人という言葉もなくなります。
東大もぜひ「一律秋入学」のような硬直的なシステムはやめて、
より柔軟なシステムを検討されたらよろしいと思います。

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引用元http://yamauchi-koichi.cocolog-nifty.com/blog

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日本語には時制 (tense) はない。 (noga)
2012-03-05 21:51:40
日本語には時制 (tense) はない。
過去・現在・未来のそれぞれの世界を脳裏に描くことは難しい。
前世・現世・来世に関するインド人の教えも、日本語脳では定かでない。
「我々はどこから来たか」「我々は何者であるか」「我々はどこに行くか」といった哲学的命題は考えられない。

理想 (ideal) は、未来時制の内容である。
意思 (will) も未来時制の内容である。
理想がなければ、未来社会の建設計画もない。
意思のないところに方法はない。(Where there’s a will, there’s a way).

意思はなくても恣意 (self-will) はある。
建設的な話はできなくても、出来心はある。
問題解決の能力はなくても、事態を台無しにする力だけは持っている。
政治は遅々として動かない。人々の頭を閉塞感が襲う。

英語のリスボンシビリティ (responsibility) は応答可能性であり、自己の意思により現実対応策を考えて行使するものである。
責任は、自由意思により果たすところが大切なところである。
意思なくしては、責任は果たせない (責任はとれない)。とかく、この世は無責任となる。

ところが、日本人には意思がない。子供・アニマルと同様である。
場当たり的な行動にでるしかない。
未来時制の内容に確信は持てない。不安ばかりが募る。
ただ目的の遂行だけを求められるならば、耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶことになるのは必定である。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/


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